西南学院History

100年以上の歴史を誇る西南学院には、
後世に伝えるべき歴史やストーリーがたくさんあります。
このコーナーでは西南学院にまつわる歴史を紹介していきます。

【第7回/モードB.ドージャー】

創立者C. K. ドージャーの妻モード
女子教育と幼児教育に尽力し、「マザー・ドージャー」として慕われた。

女性宣教師として

モード・アデリア・バーク(以下「モード」)は、C. K. ドージャー(以下「ドージャー」)と1906年に結婚し、宣教師として来日しました。ドージャーが西南学院の創立に奔走したのに対して、モードは、近代日本の教育において見過ごされていた女性の地位向上を願い、女子教育と幼児教育に尽力しました。

モードは、1881年にノースカロライナ州ステーツヴィルで生まれました。モードの父は長老派、母はバプテスト派の教会員であり、母は伝道に熱心で、母に連れられて幼少の頃からバプテスト教会に通い、10歳でバプテスマを受けました。海外伝道を志したモードは1903年にサザンバプテスト神学校に入学し、そこでドージャーと出会います。1906年6月6日、ドージャーとモードは結婚しました(写真1)。2人が日本に向けて出港する3カ月前のことでした。

1 ドージャー(27歳)とモード(24歳)の結婚式(1906年6月6日)
ドージャー(27歳)とモード(24歳)の結婚式(1906年6月6日)

当時、現在とは違い、宣教師の妻は「補助宣教師」と位置付けられ、伝道活動の中心的な役割を担う夫を支え、家事を切り盛りすることに、その働きを限定されていました。また、伝道対象も女性に限定されていました。そこで彼女たちは、1911年に開校した福岡バプテスト夜学校(西南学院の源流の一つ、1919年閉校)が使用していない昼間を利用して、西洋料理や英語の講習会を開催。宣教の一環として週2回開かれた講習会には40~50名の女性が参加しました(写真2)。その中で女性宣教師たちは、新しい社会にふさわしいキリスト教による幼児教育への強い期待があることを知り、それが舞鶴幼稚園の創設へとつながっていきます。

2 英語クラス(1914年頃)後列中央がモード
英語クラス(1914年頃)後列中央がモード

幼児教育と保育士養成への献身

女性宣教師たちは、ミッションボードの支援のもと、幼稚園設立のための組織化を進め、1913年11月6日に福岡県に舞鶴幼稚園の設立認可申請書を提出しました。舞鶴幼稚園では、今日まで、申請書を提出した日を公式の創立記念日としており、1916年創立の西南学院より3年早い創立となっています。

初代園長には申請書の設立名義人となっていたグレース H. ミルズが就任しました。開設当初は、園長ミルズの他、3人の日本人保育者が17人の園児の保育に当たりました(写真3)。1916年、ミルズは夫の長崎への転任に伴い福岡を去ることになり、園長職は創設と運営にすでに参加していたモードに引き継がれました。モードは、「幼稚園創設の目的は、幼い頃から子どもに主イエスの教えや福音を伝えることで、そのためにはまず母親をキリスト教に導くことが重要であると考えた」と述べています。

3 舞鶴幼稚園荒戸園舎での保育(1915年)
舞鶴幼稚園荒戸園舎での保育(1915年)

ドージャーが1933年に54歳の若さで急死した後も、モードは福岡にとどまり、幼児教育のために尽力します。その間、モードは常に保育士養成機関の設立に心を向けていました。モードは、キリストに従って生きる保育士を養成することが宣教師の一つの務めであると考えていました。モードは、北九州小倉の西南女学院で彼女の理念を具体化しようとし、1939年にその考えは西南女学院の理事会で承認され、1940年に聖書科と児童教育科の2学科からなる女子の専門教育の学校を設立することが決まりました。しかし、戦時下に米国宣教師が北九州一帯を見渡せる小倉の高台に校舎を建設することは、国防上の理由から承認されませんでした。

頓挫したモードの構想は、福岡の地で実を結びます。1940年4月の開設を目指して鳥飼の地に校舎建設敷地を確保し、名称は「西南保姆学院」とし、設立を申請しました。申請時の「財団法人西南保姆学院寄附行為」第1条は「本法人は教育に関する勅語の御趣旨を奉戴し基督教の主義に基き保姆養成を以て目的とす」としていましたが、「基督教の主義に基き」の部分は文部省の指示により削除され、1940年4月5日に認可され、4月11日に第1回入学式が行われました(写真4)。

4 西南保姆学院第1回入学式(1940年4月11日)後列中央がモード
西南保姆学院第1回入学式(1940年4月11日)後列中央がモード

西南学院に捧げた生涯

戦時下、日米関係の悪化により、在日の米国人宣教師の引き揚げが始まり、モードは息子のエドウィン一家と共に1941年に帰米し、ハワイで日系人のために働きました。戦争が終わる前に、モードは宣教師としての引退を迎えますが、戦後、1951年に再来日します(写真5)。モードは、宣教師の身分から離れ、エドウィンのもとで自由に働くことができました。1961年11月には、女子教育と幼児教育に対する長年の貢献が認められ、西日本新聞社から第20回西日本文化賞を贈られました(写真6)。

5 学院創立35周年に際し再来日したモード。児童教育科(鳥飼校舎)での歓迎式(1951年5月)
学院創立35周年に際し再来日したモード。児童教育科(鳥飼校舎)での歓迎式(1951年5月)
6 西日本新聞社から第20回西日本文化賞を贈られたモード(1961年)
西日本新聞社から第20回西日本文化賞を贈られたモード(1961年)

また、1966年には勲五等に叙せられ、宝冠章を授与されました。1964年、83歳のモードは老齢のため、長年住み慣れた福岡を離れ、帰米します(写真7)。そして、1972年1月13日にテキサス州のバプテスト・メモリアル・センターで90年の生涯を閉じました。遺言により、彼女は小倉の西南女学院校内の「西南の森」にある夫ドージャーの墓の隣に葬られました。

女性宣教師として、モードが献身的にその発展を支えた女子教育と幼児教育は、今日まで西南学院で受け継がれています。

7 帰米を間近に控え、干隈校地を散策するモード(1964年)
帰米を間近に控え、干隈校地を散策するモード(1964年)
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