西南学院History

100年以上の歴史を誇る西南学院には、
後世に伝えるべき歴史やストーリーがたくさんあります。
このコーナーでは西南学院にまつわる歴史を紹介していきます。

【第6回/干隈キャンパス】

西南学院の憩いの場 干隈の思い出

西南学院バプテスト大学構想

1937年、中学部、高等学部に続き、干隈地区に大学を建てる計画が持ち上がりました。学院はこの地に大学を設立する計画を立て、ヴォーリズ建築事務所に依頼し、「西南学院バプテスト大学(SEINAN GAKUIN BAPTIST UNIVERSITY)」の構想を明らかにしました(写真123)。そこには大学の校舎の他、学生寮、体育館、そして池を望む食堂など学生生活を支えるさまざまな施設があり、魅力的なキャンパス計画が描かれています。また、構想図には将来の小学校の建設予定地も記されています。しかし、戦争の影響で国際関係が悪化したことにより、敷地の取得にとどまり、この構想は実現には至りませんでした。

1 西南学院バプテスト大学配置図(1937年)株式会社一粒社ヴォーリズ建築事務所 所蔵
西南学院バプテスト大学配置図(1937年)株式会社一粒社ヴォーリズ建築事務所 所蔵
2 西南学院バプテスト大学構想絵はがき(1937年)西南学院史資料センター 所蔵
西南学院バプテスト大学構想絵はがき(1937年)西南学院史資料センター 所蔵
3 図書館設計図(1937年)株式会社一粒社ヴォーリズ建築事務所 所蔵
図書館設計図(1937年)株式会社一粒社ヴォーリズ建築事務所 所蔵

干隈キャンパスの発展

戦後、干隈校地には大学神学部の校舎や学生寮が建築されました。1951年10月に完成した神学生の寄宿舎「神学寮」は、本学では戦前、戦後を通して、最初の鉄筋コンクリート造りの建造物でした。また、1955年7月には神学部校舎(神学館)が完成しました(写真4)。1955年に神学部が西新校地から干隈校地に移転し、2001年に再び西新校地に移転するまでの約45年間、この地で多くの学生が学びました。

4 干隈神学部校舎(1955年竣工)
干隈神学部校舎(1955年竣工)

また、学院は西新の街中にあり、宗教行事や精神修養のためには適当ではない面もあるため、干隈に修養会館を建設することになりました。改築のために解体された西新校地の高等学校西校舎の古材を使用し、米国南部バプテスト連盟からの寄付によって建てられ、1952年に第1期工事が、1955年に第2期工事が、それぞれ完成しました(写真5)。部屋の中には暖炉があり、そこには西南学院の建学の精神である「西南よ、基督に忠実なれ」という創立者C. K. ドージャーの遺訓が掲げられていました(写真6)。修養会館では大学のサークルやゼミナールのイベント、新入生歓迎会などが行われ、「山の家」と呼ばれて親しまれました。

さらに干隈には大学のグラウンド(運動場)が整備されました。周囲を住宅と小学校・高等学校に囲まれている西新校地に総合運動場の用地を確保することは困難であったため、学院は干隈校地の隣接地を買収し、運動場を建設する計画を立てました。既存の校地に、新たに買収した土地約2万2,000㎡を加えた約4万1,800㎡のグラウンドは、1960年11月に完成し、野球・ラグビー・バレーボール・テニス等のコートが設けられました(写真7)。干隈グラウンドでは学生や教職員の親睦を深める体育祭(写真8)も行われ、学院の憩いの場として長く愛されました。

1999年に干隈校地は福岡市に譲渡売却されました。その跡地は「西南杜の湖畔公園」として新たに市民の憩いの場となっています。

5 干隈修養会館「山の家」(1952年撮影)
干隈修養会館「山の家」(1952年撮影)
6 「山の家」の暖炉
「山の家」の暖炉。創立者C. K. ドージャーの遺訓を掲げる木枠は西南学院小学校のエントランスに移設されています。
7 緑の深い干隈グラウンド(1960年頃撮影)
緑の深い干隈グラウンド(1960年頃撮影)
8 干隈グラウンドで行われた第3回体育祭の様子。写真前列左は当時の学長・古賀武夫(1968年撮影)。
干隈グラウンドで行われた第3回体育祭の様子。写真前列左は当時の学長・古賀武夫(1968年撮影)。

ここで紹介した西南学院と干隈キャンパスの思い出を伝える資料を百年館西南学院史資料センター企画展示室で展示します。ぜひご来場ください(2023年3月1日~12月19日)。

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