2012年研究旅行

パリの移民街

矢野 桃子

“パリ”と聞くとエッフェル塔や凱旋門といった歴史的な建造物がすぐに思い浮かび、カフェではたくさんの人々がテラス席でコーヒーを飲みながらフランス語で会話をしている姿を連想するだろう。しかし、パリの旅番組を見ると必ずと言っていいほど通る人々の中にアジア系・アフリカ系・中東系の人々が映っている。以前『パリ20区、僕たちのクラス』という映画を見たが、イメージしていたパリとは違い、混沌としている庶民の生活が映し出されていた。パリの現状・新たなパリの一面を知るために、実際に移民が多く集まっている地区に行き、並んでいるお店や人々の暮らしの様子から移民の母国の文化がどのようにしてパリと融合しているか、あるいは独自の文化を貫いているかを調べた。

パリの移民街の概要

パリの移民街地図 パリの移民街地図

 移民街はパリの東側、中心部から少し離れた所に広がっている。ユダヤ系、アラブ系、アフリカ系、インド系、パキスタン系、アジア系の移民が様々な地区で生活している。さらに、これらすべての文化が集まっているのが20区である。今回はそれぞれの移民が多く集まる地区と20区へ行って調べた。

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ユダヤ人街

 3区にあるマレ地区にはユダヤ人街が広がっている。フランスはイスラエル、アメリカ合衆国に次ぎ世界で3番目、ヨーロッパでは1番のユダヤ人大国である。13世紀頃からユダヤ人がこの界隈に住みつくようになり、19世紀末には4万人のユダヤ人が住むようになった。第一次世界大戦間に東欧から迫害を逃れるために大量のユダヤ人が移住し、当時パリに20万人、フランス全体でも30万人のユダヤ人が生活していた。しかし1939年に第二次世界大戦が開戦し、パリがナチスの占領下に置かれると、フランスにいた7万9500人ものユダヤ人が強制収容所に送られ、ユダヤ人口は減っていった。そして戦後の1960年代、フランスの植民地政策が終わると共に、旧植民地であった北アフリカ諸国から大量のユダヤ人が移住してきた。現在(2012年)フランスには約70万人ものユダヤ人が暮らしている。

 このマレ地区界隈にはユダヤ教の会堂であるシナゴーグやユダヤ系の店が多く立ち並んでいる。キリスト教の安息日が日曜日なのでフランスのほとんどの店は日曜日は閉まっているのだが、ユダヤ教の安息日は土曜日であるため、この界隈では日曜日も活気がある。店の看板にはユダヤ教・ユダヤ民族を象徴する印、ダビデの星(✡)があり、歩く人の中には黒い服、黒いハットやキッパと呼ばれる小さい帽子をかぶりあごひげを長く伸ばしている人もいた。また、マレ地区はおしゃれな店が立ち並ぶ地区として有名であるため、観光客が多かったように感じた。

 今から10年以上前にはパリのイスラエル料理屋の窓ガラスが割られたり、シャンゼリゼ通りでユダヤ人青年がリンチされたり、南仏の方ではシナゴーグへの落書き・不審火など、フランス各地で反ユダヤ主義を象徴する事件が多く発生していた。しかし最近はそのような事件は起こっておらず、ユダヤ人街を歩く限り、危ないと感じたことはなかった。レストランにはたくさんの学生が並んでおり、うまくパリの中にユダヤ文化が共存しているように感じた。

  • パヴェ通りにあるシナゴーグパヴェ通りにあるシナゴーグ
  • ヘブライ語で書かれたレストランヘブライ語で書かれたレストラン
  • ダビデの星が書かれたパン屋ダビデの星が書かれたパン屋
  • キッパをかぶったユダヤ人キッパをかぶったユダヤ人
  • 黒いマントと帽子のユダヤ人黒いマントと帽子のユダヤ人

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アラブ文化街

 「アラブ人」とは、イスラーム文化を持ちアラビア語を話す人のことである。現在(2012年)フランスには600~700万人おり、これはフランス居住者の10%を占めている。アメリカ合衆国ではアラブ人は居住者の1%未満であり、いかにフランスにアラブ人が住んでいるかが分かる。フランスに多く住んでいるアラブ人はイスラームを国教とするアルジェリア・モロッコ・チュニジアの北アフリカ三国から成る「マグレブ」が多い。かつてこの三国はフランスにより植民地支配をされていた。多くのマグレブ系移民が増えた背景には「栄光の三十年」と呼ばれるフランスの高度経済成長期(1945年~1975年)があり、労働者としてマグレブ系移民を受け入れたのがはじまりである。移民が増えすぎたことにより、1974年に「新規の外国人労働者の受け入れ停止」を施行したが、1976年に「家族呼び寄せ政策」が施行されたため、移民は増える一方であった。

 ここでフランスに住むアラブ人が一番不自由を感じるのは宗教生活であり、神に対する礼拝をおこなう場所、モスクが必要不可欠である。パリには20ほどのモスクがあるが、大半はアパルトマンの一室を改造したものであり、パリの中で1番大きなモスクが5区にあるMosquée de Parisである。第一次世界大戦で戦死したイスラーム圏出身の兵士のためにフランス政府の援助によって1926年に建てられた。ミナレット(礼拝時刻を告知するために使われる四角い塔)が特徴的であり、中には回廊で囲まれた中庭がある。イスラームは偶像崇拝を禁止しているため、彫刻や絵画の代わりに、壁に植物をデザインしたモザイクや幾何学模様、アラベスク模様があった。奥にある礼拝堂には信者しか入れないが、入り口を見る限りではかなりの広さがあるように感じた。観光客もいたが、多くの信者が礼拝堂を出入りしており、このモスクが生活の一部となっているのを実感した。モスク周辺は静かな住宅街で、住宅街の雰囲気にモスクが調和しているように感じ、特に移民街に来たというような印象は受けなかった。住宅の他にアラブ系のレストラン、カフェ、本屋があり、店の看板には基本フランス語しか書かれていないが、アラビア語やペルシア語で書かれている店もあった。

 Mosquée de Parisを出て15分ぐらいの所にアラブ世界研究所(Institut du Monde Arabe)がある。1987年にアラブ文化の研究と発信を目的として建てられたこの建物は、幾何学的な模様をしたガラス張りの建物で、いわゆる“パリらしくない建物”である。このガラスのパネルは太陽の光に応じて自動的に開閉するそうだ。ここではアラブ文化を知るための企画展やビデオライブラリー、図書館やレストランまであり、音楽やダンスなどの催しも行われている。1階にはアラビアの伝統雑貨やアラビア語で書かれた本や新聞もあり、アラブについての歴史と現在を知ることができる建物である。観光客は少なく、図書館を利用する人や、ガラスのパネルをデッサンしている美大生まで様々な人が利用していた。

  • Mosquée de ParisMosquée de Paris
  • ミナレットと中庭ミナレットと中庭
  • 幾何学模様をした柱幾何学模様をした柱
  • アラビア語の本アラビア語の本
  • アラブ世界研究所アラブ世界研究所
  • 幾何学模様をしたガラス幾何学模様をしたガラス

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アラブ人街

TATI周辺 TATI周辺

 18区に位置し、メトロ2号線と4号線が交差するBarbes Rochechouart駅の周辺にはアラブ人街が広がっている。駅から出るとアラブ系の男の人がたくさん集まっていてタバコを吸っているかビラ配りをしていていた。ただ歩いているだけでも何かしら声をかけられるので、1人では歩かない方が良いような印象を受けた。

 駅の近くにTATIという大きなショッピングストアがある。この近辺を歩いている女の人はほとんどTATIと書かれた袋を持っており、お店の入り口も多くの人がいた。このショッピングストアはパリでは考えられないほど安く、インテリアやキッチン用品、洋服や化粧品、子供用品まで様々なものが売られていた。TATIの創始者:ジュール・ウアキはチュニジア人で、1946年17歳の時にパリへ移住したそうだ。貧乏だった戦時中の自らの体験を元に安く物が手に入るお店を開こうと考え、売れ残り商品の在庫品を現金払いで工場から大量に買い取り、原価と売値を最小に抑えて店に売り出す商法を使って19歳の時にTATIを開店させた。それから現在まで18区に住む住人の生活を支えてきたお店である。店内はアラブ人だけでなく、アフリカ系やアジア系、ヨーロッパ系など人種を問わずにたくさんの買い物客がおり、ここがパリであることを忘れてしまうほどであった。

 この界隈ではアラブ系の店が多いが、物価が安いからか人種を問わず様々な人が歩いていた。モスクの周りで感じた住宅街とは違い、生活感あふれるこの場所はとても活気に満ち溢れていたように感じた。

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アフリカ人街

 フランスに住んでいるアフリカ系移民はコートジボワール、セネガル、マリ、コンゴなど植民地支配を受けていた国からの移民が多い。また、ハイチからのアフリカ系移民も多く、ほとんどがパリ18区で生活している。メトロ4号線にあるChateau Rouge駅の近くにはアフリカ系のお店が広がっており、この界隈は本当にここがフランスなのかと思うほど黒人が多かった。アフリカ系の女性をターゲットにした美容室が多く、どの美容室でもウィッグをかぶせている首から上のマネキンがショーウィンドウに並んでおり最初に見たときは驚いた。また、アフリカの伝統的な生地を置いている店が多く、看板にはバザン、ワックスと呼ばれるアフリカの伝統的な生地の名前が書かれてあり、女性客が多かった。

 Chateau Rougeにはアフリカ系のお店が多く集まっている一方で、アフリカ系移民が多く住んでいる地域はメトロ2・5・7号線が交差するStalingrad駅界隈である。一般的に治安が悪い地域と呼ばれているのでメトロの風景からStalingradを眺めたが、日本でいう団地のような高層ビルが立ち並び、至る所に落書きがあることに驚いた。

 18区にはアフリカ系・アラブ系の移民が多く住んでいるが、その歴史的背景として北駅(Gare du Nord)と東駅(Gare de l’est)に近いこと、18区の家賃が安いことが挙げられる。1850年代にオスマンによるパリ改造が始まり、パリ中心部にあった過密なスラム街を一掃することも計画の一部としてあった。労働者階級にある多くの移民は区画整理された新しい街に住む財力もなく、安い家賃を求めて周辺部や郊外に移り住むようになった。周辺部の中でも北駅と東駅が徒歩圏内にある18区に多くの移民が集中したことによって現在のアラブ人街・アフリカ人街が広がっている。18区はパリとは思えないほど多くの驚きと発見があり、混沌としている地域だがどこか活気に満ち溢れており、とても魅力的であった。

  • Chateau Rouge駅付近Chateau Rouge駅付近
  • 生地屋生地屋
  • マネキンが並ぶ美容室マネキンが並ぶ美容室

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インド人・パキスタン人街

 10区にあるパッサージュ・ブラディー(Passage Brady)界隈はインド・パキスタン系のお店が多く集まっている。インド人・パキスタン人が多くフランスに来た背景にはイギリスの存在がある。植民地時代を経てイギリスには多くのインド・パキスタン人が移住してきたが、1980年以降イギリスが移民受け入れに対して消極的な態度を示したため、フランスに流れ込んできた。

 パッサージュ・ブラディーは1828年に建てられたパッサージュであり、ブティックが多く立ち並んでいた。当初は全長約200メートルの1本のパッサージュだったが、オスマンのパリ改造の際にストラスブール大通りができ、東西に分けられてしまった。1980年代にはインド系・パキスタン系の店がほとんど占めるようになったが、今でも東側には貸し衣裳屋が何軒かある。パッサージュ内はインド・パキスタンレストランや雑貨、食料品店、美容室まであり、独特の香辛料の匂いで充満していた。パッサージュの西側に位置するレストランの前には呼び込みの店員さんがどの店にもいて、前を通ると気さくに話しかけられた。またインド系の人だけではなく、店の前にあるオブジェをデッサンしている美大生の団体もおり、活気があった。東側は工事中の所が多く、人通りもなかったためあまり治安が良いとは思えなかった。

 この界隈はインド・パキスタン系だけでなく、西側のパッサージュを抜けたフォーブール・サン=ドニ通り(Rue du Faubourg Saint-Denis)にトルコ系の店が多く並んでおり、中東系の人々も多かった。

 インドはヒンドゥー教徒が、パキスタンはイスラム教徒が多く、2つの宗教がこの10区に集まっていたのだが、うまく共存しているように感じた。ヨーロッパの文化は全く感じられなかったが、パリで暮らす移民同士のコミュニティを大事にしているような印象を受けた。

  • インド料理屋インド料理屋
  • インド系美容室インド系美容室
  • トルコ系の店も多いトルコ系の店も多い

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アジア人街

 世界のどの大都市にも中華街が存在しており、パリにも中華街が13区にあるメトロ7号線のTolbiac駅からパリ郊外にかけて広がっている。パリに移住している中国人は2つの種類に分けることができる。

 1つは中国からフランスへ直行で移住した人々である。1848年にフランスで奴隷解放制度が施行され、アフリカ諸国からの労働力が受け入れられなくなった時に、中国の植民地化を図りながら中国移民を受け入れ始めたことがきっかけである。そして20世紀前後に中国では日清戦争、義和団事件、辛亥革命など、国内が不安定な状態になるとさらに海外への移住が活発になった。さらに、第一次世界大戦前後には中国とフランスの間に「留仏勤工倹学」という制度が置かれた。この制度は経済的に苦しい若者がフランスで働きながら学ぶことができるというものであった。当時中国では辛亥革命の後、ヨーロッパ文明を取り入れた新しい教育の必要が叫ばれる一方、フランスでは第一次世界大戦で失われた労働力の補充を求めていた。こうしてお互いの利害が一致し、1920年末のフランスには留学生だけで1600人以上、20万人もの労働者が滞在していた。

 もう1つは東南アジアの華僑たちである。18世紀初め頃から奴隷として東南アジア諸国に多くの中国人が送られていた。そして1887年にフランス政府は現在のベトナム・ラオス・カンボジアでフランス領インドシナを形成し、植民地支配を行った。大戦後、フランス領インドシナが崩壊し、ベトナムではベトナム戦争が、ラオスでは内戦、カンボジアでは政治家・軍人であるポル・ポトが過激な共産主義革命が起こり、難民となった華僑は支配されていたフランスを目指すようになり、1975~1977年の間で約8万人の華僑がフランスに移住した。移住したのは華僑だけでなく、元々現地に住んでいたベトナム人などもフランスへと移住したため、パリの中華街は多くのアジア人で形成されている。

 なぜ13区にアジア人街が形成されたのか。当時13区にはビエーブル川というセーヌ河の支流があり、オスマンによるパリ改造によって工場が進出し始めた。現在ビエーブル川は汚染により埋設されている。1960年代に13区のスラム化を防止するために13区再開発計画が持ち上がり、次々と高層ビルの住宅を建て、比較的経済力のある人びとを呼び込もうとしたが、「工場地帯」というイメージを取り除くことができず、大量の空き家が生まれてしまった。ちょうどその頃、東南アジアからの移民が大量に移り住み、空き家になっているこの地域に住み始めたことから13区がアジア人街になっていった。

 アジア系移民がパリで成功した例としてラオス人のBounmy RattanavanとBou Rattanavanがいる。2人は1975年に内戦から逃れるためにフランスへ移住した。そして1981年にアジア系の食材を扱うスーパーとしてタンフレール(Tang Frères)を開店させた。今では13区だけでなく様々な所にスーパーを展開している。実際に行ってみたが、見た目は全くお店らしくなく、工場を改造したというような雰囲気だった。中にはいるとアジア人はもちろんだが、ヨーロッパ系の人も買い物をしていた。店内は少し雑然としているが、アジア各国の食材が置かれていて日本の食材もあった。

 アジア人街にあるお店の看板は漢字がほとんどであり、たまにベトナム語や日本語もあった。歩いている人もアジア人ばかりで、本当にここがパリなのかと思うほどであった。近代的な高層ビルが多く、比較的ほとんどの建物が低いパリではかなり異質な建物のように感じた。この界隈ではアジアの文化が独立しているような印象を受けたがヨーロッパ系の親子も見かけたので、フランス人とアジア人がうまく共存しているように感じた。

  • 各国の言語で書かれたスーパー各国の言語で書かれたスーパー
  • Tang Frères Tang Frères
  • 13区の高層ビル13区の高層ビル

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多くの移民が集まる20区

 パリ20区にあるメトロ2号線と11号線が交差するBelleville駅周辺では様々な移民が生活しており、すべての文化が混ざり合っている場所である。20区には団地、市場、公園、学校など、生活にかかせないものが全て揃っており、そこに住むフランス人と多くの移民が、言語や宗教も関係なく共存していた。また、壁に描かれたアートが多く、看板も様々な言語で書かれているため混沌とした印象を受けた。午前中に訪れたのだが、人通りが少なく、一般的に治安が悪い地域と言われているので一人での行動は避けた方が良い。

  • ユダヤ系の精肉店ユダヤ系の精肉店
  • ヒジャブを身に付けた女性ヒジャブを身に付けた女性
  • イスラーム巡礼専門の旅行会社イスラーム巡礼専門の旅行会社
  • 20区のアジア人街20区のアジア人街
  • 中国雑貨屋中国雑貨屋
  • 壁の落書き壁の落書き

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まとめ

 研究旅行を終えた今、パリに行ったのだがアジア・アフリカ・アラブ諸国を訪れた気分でいっぱいである。パリにある移民街に共通して言えることは移民街として区切られていないということである。日本では中華街はここからここまでと区切られているが、パリの移民街はそういった区切りがなかった。歴史的な背景も含め、自然とその場所に移民が集まったという感じである。私はオペラ地区にあるホテルに泊まったのだが、オペラ地区の周りでもフランス料理屋との間に中華料理屋、モロッコ料理屋など様々な文化のお店があり、パリ全体に移民の文化が広がっているように感じた。

 実際に行ってみて実感したことは、それぞれの店の看板がユニークであることだ。店の看板のほとんどがフランス語とその店がターゲットにしている客の言語で書かれているが、アラブ人街で見つけた本屋の名前が、ペルシアを代表する知識人であるイブン・スィーナーの名前“AVICENNE ”であったり、中華料理屋の店の名前に、中国の標準語を意味する“mandarin ”が入っていたり、ユダヤ人街でも看板に宗教めいたことを書いていたりとそれぞれの文化が表れていて興味深かった。

 建物や店だけを見ると、フランス文化と移民文化は融合しておらず独自の文化を貫いているように感じるが、そこで生活をしている人は様々な人種の人がいて、お互いに共存し合っていた。これだけ移民が多いことは悲しい歴史があることが事実なのだが、移民の文化を排除することなく尊重しているパリの姿を見ることができ、新たなパリの魅力を発見することができた。

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参考文献

l  書籍

『エキゾチック・パリ案内』清岡智比古著 (平凡社新書)

『パリの移民・外国人―欧州統合時代の共生社会』本間圭一著(高文研)

『パリ二十区の素顔』浅野素女著(集英社新書)

『移民と現代フランス―フランスは「住めば都」か』

 ミュリエル・ジョリヴェ著、鳥取絹子訳(集英社新書)

l  映画

『パリ20区、僕たちのクラス』(Entre les murs)

『パリ、ジュテーム』(Paris, je t’aime)

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