川邉 季織
パリの街を歩いていると、そこでは人々の生活の中に書物が当然のこととして寄り添っているという印象を受ける。これは、書店に出入りする人や公園で本を読む人が日本に比べて多く目につくとか、書籍の年間発行部数が世界的にみて突出しているとか、そういった類いの論、つまりフランス人は読書好きだ、などという話では決してない。フランスでは人々が生活する空間の中に、それを読むと読まずとに関わらずいつも書物が置いてあるということだ。例えば、ふと立ち寄ったカフェの壁一面に古めかしい書物が並べられていたり、文学には全く興味がない友人宅のリビングに豪華な装丁の文学全集が揃えてあったりする。日本であればその様なカフェは大抵、漫画喫茶として運営されて客は飲み物よりも本の中身に夢中だし、文学に興味がない友人はリビングを有効活用するため全集をブックオフに売り払うのだろう。ところが、フランスではこうだ。カフェを訪れる客は誰一人として古本を手に取らないし、友人は内容をあらためもしない全集に埃が積もらないよう後生大事にしている。
無論、フランスにだって活字中毒者や本の虫は存在するのだが、フランスでは書物は、単に読書好きな人々を喜ばせる嗜好品としての側面や、知識を追求する人々が暴く情報媒体としての側面以上に、「その場に在る」ことによってもたらされる空気感や雰囲気といった面をより多くの人から認められているように私は思うのである。極端に言って、たとえ中身が白紙だったとしても、より重要なのはその体裁の方なのだ。読み物としてではなく飾り物としてそこに置かれる、物質としての書物の体裁だ。
そこで今回私は、フランス人が日常を生活する空間の中で物質として扱われる書物について3つの点から観察した。1つめは16 世紀末からはじまったとされるルリユールの文化、2つめは稀覯本を探し求める古書蒐集の文化、そして3つめは実際に書物を飾り物としているパリの街の様子である。まとめの項では書物の生き残りについても少し触れることとする。
ルリユール relieurとは、フランス語で「もう一度~する/〜し直す」という意味のre-と、「(糸で)綴じる」という意味のlier、これら2つの単語を合わせた言葉であり、フランスでは記録に残っている限り16世紀末頃からルリユール(「綴じ直す人」)を名乗る職業が発生している。すなわちルリユールとは、劣化した書物の綴じ直しや、仮綴じ本の装丁を施す職人のことである。
16世紀末にイギリスの“分業による協業”が毛織物業で生産を活発化させたことに倣い、フランスでも17世紀頃にはあらゆる手・機械工業が同じような生産方法をとった。しかしながら書物に関しては、16世紀にグーテンベルグが発明した活版印刷の技術伝播によって印刷/製本/出版、これら各分野の業務における境界線が曖昧となり、販売の段階で発生する“利益”の領域侵犯が度々叫ばれるようになっていた。そうして17世紀末になるとルイ14世から勅命が下る__「パリ市において、出版、印刷の2業者と製本業者は、互いの職分を越えてはならぬ」。かくして業界戦争は王の裁量によって終わりを迎えたのだったが、以降、製本する権利を失った印刷・出版業者は、本を細い糸で簡易的に綴じて、厚紙に書名を印刷しただけの「仮綴じ本」を出版するようになった。現代のフランスでも、書店に並ぶ書物にはこの「仮綴じ」本が見られ、中には綴じられてさえいない折りたたまれた紙の束のような出版物も存在する。これは発行部数が極端に少ない詩集などが例として挙げられるだろう。そしてこの様な「仮綴じ本」や「未綴じ本」の購入者から依頼を受けて装丁を施し、1冊の書物として仕上げるのがルリユールである。
国王自身が熱心な古書蒐集家であったフランスでルリユールの文化は花開き、専属の製本師や書体のデザイナーが重用されて新たな様式を生み出すなど、その優れた書籍文化は脈々と受け継がれてきた。現在パリにはルリユールの専門学校が数校存在し、バカンス中には短期間の講座を設け世界中から受講生を受け入れている。日本からも、フランスのルリユール文化に憧れて毎年多くの受講生が渡仏し、製本に関する伝統的な技術を会得して帰国しているそうだ。ただし、古書の修復技術を会得するには数年を要し、全課程を修了して工房に勤めても、ルリユールとして受ける仕事だけで生計を立てるのは非常に難しい。
これは日本においても同じことである。日本では、書物を造る製本の仕事だけで身を立てている職人は稀であり、グラフィックデザイナーが本のカバーや書体を考えるブックデザインの役割を担っていることの方が多い。それは明治期以降、それまで主流だった和装本(お経本などにみられる和綴じ本のこと)の文化に洋装本の技術が伝わり、書物はマニファクチャーの流れにのって一気に大量生産型の消費物となってしまったことが主な原因であるという印象を受ける。19世紀の中頃まで、書物は所有する個々人に向けて発信されていた。一冊一冊が人間の手作業で造られたため、装丁家の技術やこだわり、デザインセンスが直に感じられ、選ぶ人にとってもそれは当たり前のことだったのである。ところが書物が大量生産化されると、一部の熱心な愛書家たちは既製品としての書物ではなく昔ながらの、所謂オートクチュールの書物をより探し求めるようになった。こと著名な小説家や詩人が気に入りの装本家に作品の装丁を担当させて、出版される自分の書物に対してもこだわりを持っていたというのは有名な話である。夏目漱石は橋口五葉と、室生犀星は恩地孝四郎と、優れた作家は優れた装丁家とセットなのだ。
世界的な書物の売り上げ衰退の例に漏れず、フランスでも約400年以上続いてきたルリユールの職人としての仕事は激減しはじめている。かつてパリの街に軒並み連なっていたルリユールの工房も、今は50軒ほどになってしまった。それでも、書物を読みものとしてだけでなくその物質性の魅力を理解する文化の中で、ルリユールが製本の職人として技術を提供する場面は日本よりもはるかに多いと言える。次項では実際にパリでルリユールとして働く女性を訪問し、その生活と仕事について観察した結果について報告する。
現在、パリには50以上のルリユール工房があるという。実際に作業しているところを見せてもらおうと今回私が訪れたのは、〈Listel Or à Paris〉。渡仏したのがバカンスの最中だったため営業している工房を見つけることが難しい中、渡仏前に電話で直接コンタクトをとり、快くインタビューを受け入れて下さった。
17区にあるこちらの工房で一人黙々と作業をするのはソフィー・クァンタンさん(33)。工房を訪れた日本人は私が初めてだと言う。本をつくる工房だということが念頭にあるので、紙のサンプルや綴じるための糸、インクの缶などが散乱しているものと思っていたのだが、見回すと鋼鉄の機械の横に作業台が置いてあるだけの簡素な事務所といった様子だった。物珍しげにしている私に、ソフィーさんは今手掛けている〈作品〉を指し示し説明をはじめてくれた。その依頼が工房に持ち込まれたのは1週間前、持ち主は地下鉄で3駅のところに住んでいるご夫人だそうだ。曾祖母から受け継いだ分厚いレシピノートを、綴じ直して装丁して欲しいという依頼だった。目も当てられないくらいボロボロでした、とソフィーさんは言う。確かに、世代を超えて一家の台所で何度も繰られたであろう頁は紙がすり切れていかにもデリケートそうだし、スープだかソースだかのシミが馴染んだ様子は正に年代物の風格だ。しかしながら頁を閉じて、まだ背表紙のつけられていない糸綴じ部分を見ると、そこだけはまるで買ったばかりのノートのように清潔で頑丈、栞にする臙脂色のリボンもしっかりと留め付けられていた。「これから水色のモロッコ皮で表紙をつけて、その表紙に金文字で依頼主の家名を押します」、ソフィーさんはそう言いながら作業台の横に備え付けてある棚に収納した金型を一本一本見せてくれた。華麗なものからシンプルなものまで、様々な種類のある金型だが、扱うにはかなりの技術を要する。ソフィーさんの場合、きちんと刻印できるようになるまで4年かかったそうだ。
もともと歌うことや作詞することが好きだったソフィーさん。高校を卒業して、シンガーソングライターになるのが夢だった。なかなか思うようにゆかず、それでも毎日公園に出掛けて鳥のさえずりを聞いたり、道行く人を眺めたりしながら作詞作曲活動を続けていたそうだ。そんなある日、ソフィーさんが定位置にしていたベンチの下に、ルリユール専門講座の広告が落ちていたことをきっかけに、ソフィーさんのルリユール人生がはじまった。「昔から本が好きでした。読むのはそうでもなかったのに、本そのものを眺めているのが好きだった。シンガーソングライターとして生きてゆきたいと思ってけれど、もう駄目かもしれないと絶望しかけた時にあの広告が目に入ったんです。たった一度の人生なのだから、どうしても自分の好きなことで食べてゆきたいと決めていました。そして私は今、ルリユールとして働いています」。
そう語ってくれたソフィーさんだが、現在のパリでルリユールとしての仕事のみで生計をたてるのは不可能に近い。彼女自身、月火木は専門学校の講師として働き、工房の中でルリユールと名乗れるのは週に2日、水曜日と金曜日だけなのだ。こうして2つの仕事を掛け持ちしても、生活は決して楽ではないと言う。それでもソフィーさんが人生に満足しているのは、彼女の言う通り、彼女自身の好きなことをして食べているからなのだろう。
ソフィーさんがルリユールとして工房を開いてから初めて手掛けた〈作品〉は、上質な銀の紙で装丁した上から飴色の上薬を塗った高級感溢れる書物だった。中身は白紙。しかし実際に手に取ってみるのも憚られるほど、価値がある書物のように感じられた。内容を必要としない、物質としての書物をまさしく体現している〈作品〉だった。
一般家庭用インターネットの普及化に伴い、あらゆる種類の情報共有が速く確実になった昨今、紙媒体による情報伝達は衰退の一途をたどる。著作権の保護期間切れとなった蔵書情報を積極的にインターネット上で公開する図書館も増加し、われわれは一瞬で国外の図書館に納められている貴重な資料を閲覧することが出来るようになった。文書はデータ化されて電子書籍に詰め込まれ、1度に大量の書籍情報を持ち歩くことを可能とした。さらに、ネット通販の台頭による書店の実店舗経営の圧迫という実情も、書物の出版部数減退に拍車をかけている。
そんな中、デジタル化による利便性に敢えて背を向け、〈書物〉という体裁に拘泥する人々も確かに存在する。彼らは、書物の装丁に使われた皮の香りを愛し、ページを繰る音を耳にして喜ぶ。栞として挟み込まれたリボンの色をああでもないこうでもないと評論し、羅列する文字の形式や行間の空白に気を配る。このような人々をわれわれは〈愛書家〉と呼んでいる。
パリに住まう人々はどうやら、読書家として以上に愛書家としての気質が強いらしいという私の見解ははじめに述べた通りである。そこで私は、実際に愛書家たちが好んで訪れるというジョルジュブラッサンス公園の大規模な古本市へ足を運んだ。地下鉄13番線のPorte de Venves駅から徒歩10分、大きな公園の一角で、毎週土曜日と日曜日にパリ中から集まった古本屋たちが露店を広げている。様々な年代、ジャンルの書物が所狭しと並べられ、値段もまちまちだ。書店員たちは互いに顔なじみらしく、誰の露店に何の本が置いてあるのか把握している。『悪の華』を探しているという客に「わたしの店には置いてないが、3つ隣のアンドレの店にあったはずだ」と教えてやったりするのだ。私は毎週末この古本市を訪れているというご老人に話を伺う機会を得た。
40年以上ヴァンヴに住んでいるリシャールさん(62)は、本を読まないが眺めるのが好きだと言う。それは言葉通り、書物を見て楽しむということで、蒐集した貴重な古本を本棚に並べてその背表紙を眺めているのだそうだ。敬虔なカトリックの家に育ち、父親が希少な宗教書の蒐集を趣味にしていたため、幼少の頃からいつも身の回りには古本があった。子どもの頃は触らせてもらうことさえできなかった大量の蔵書を、父親の死後、受け継いだそうだ。ジョルジュブラッサンスの古本市では、驚くような稀覯本を目にすることはないが、時々ちょっとした値打ち品が見つかるのだと嬉しそうに教えてくれた。
そんなリシャールさんが絶大な信頼を置いているという古書店がパリ5区にあると聞いて、私は実際に訪れてみることにした。
パリ5区、毎晩小さなクラシックのコンサートが開かれているサン・エフレム教会の向かいに、その書店はある。店主の言葉によれば、この書店は恐らくフランス全土で最後の、宗教書の稀覯本だけを扱った古書店である。訪れる客は主に、学者、宗教家、そして古書蒐集を趣味とする愛書家だ。雑多に溢れる書物の中から値打ち品を見定める露店とは違い、この書店に並べられている書物はどれもが選び抜かれた希少なものばかり。鍵付きのショウケースに納められた稀覯本には、およそ本1冊の値段とは思えない様な高値がついている。客たちは気ままに物色したりせず、目を引くものがあれば品物を見せてくれるよう店主へ丁寧にお願いし、ここでは誰もが書物を捧げ持つようにして扱うのだ。展示されている書物は、モロッコ皮に金文字の重厚な装丁と、美しく神秘的な挿絵の数々が印象的だった。内容を理解することが出来なかったとしても、書物それ自体に十分の価値がある。最早、読み物というより芸術品と呼んで差し支えないだろう。本を眺めているのが好きだ、と語ってくれたリシャールさんがこの書店を薦めてくれた理由が良く分かった。
パリ滞在最終日、私は市民の日常に置かれている書物を探して散策をすることにした。といっても前述した通り、街には無造作に書物が溢れているのである。
歩き疲れて立ち寄ったカフェに、またも壁一面の本棚が配されていたため写真を撮らせてくれるよう店主に頼んでみた。店主は、様々な角度から写真を撮る私を愉快そうに眺め、そして私がルリユールの工房を訪れるために日本からやって来たことを知ると、書物をインテリアとして利用する経緯について語ってくれた。曰く、「書物は知的活動の象徴なのです。美しく高級感のある書物を並べておくと、見栄えが良いだけでなく、洗練された知的な空間を演出することができます」。なるほど確かに、この図書室のような空間に座っていると、静かに落ち着いて思索に耽ることが出来そうだ。かつてパリが芸術の都として世界に先駆けた時代、パリには現在より多くのカフェが存在し、後世に名を残した画家、作曲家、詩人といった芸術家や、政治家、弁護士、学者、哲学者などの知識人たちが交流する場となっていた。今も残る伝統的で格式あるカフェの中には、その名を冠した文学賞を主催している店もあり、カフェの内装に知的なイメージを与えようとすることはフランス人にとって特別なことではないのだろう。それから、これは私が実際にフランス人と会話したり道行くフランス人を観察したりして得た個人的な感想であるが、書物に興味のない日本人とフランス人を比べたときに、フランス人の方がモノとしての価値を正しく認識しているようだ。つまり、豪華な装丁の古書=高価なインテリアという認識である。「書物を読むのが嫌いだという人はいても、書物が身の回りにあるのが嫌だという人は見たことがありません。沢山の書物に囲まれていると、人はとても寛いだ気分になると思います」と店主は言う。ここにある本は、全て店主が古本屋で見つけたもの。ヴィジュアルのみを重視して買いそろえたため、全集の端本やページが欠けている本も多数ある。読むためではなく見るために置かれた本たちに囲まれて、カフェを訪れる客たちはとても寛いだ様子であった。
そんな店主が紹介してくれたのは、ルーブル美術館裏のパッサージュにある小さな古書店。100年以上前から続くこの老舗書店で働いているのは、ルリユールとして古書修復も行う2名の老紳士。主に初版の稀覯本だけを扱っていると言う。「ここに本を買いに来る客の多くは、古書蒐集家です。ただ単に読みたいだけであれば、新しく安価で、初版の内容とまったく同じ内容の本を購入することができるのですから、古くて高価な初版本にこだわる必要はないでしょう」。
この様にパリの街には、特定のニーズにのみ向けてアプローチする書店が点在している。料理やデザートのレシピ本だけを扱う書店、世界各地の漫画やバンド・デシネ(フランスの漫画)のみを扱う書店や、美術書のみを扱う書店がその例である。そしてこの様な書店は、商品のレイアウトや店内の内装にもこだわり、書物を発信する場としての空間プロデュースにも力を入れている印象を受ける。ある書物を購入したいと思ったときに、「あそこならば」と訪れる人にすぐ連想させるのがこの種の書店の在り方なのだ。何でもござれの大型書店から特定の専門書のみを扱った小規模な書店まで、この街で人々は書店を使い分けている。
本が好きだ。活字中毒なので読むのも好きだが、仕舞い込んだ古本の匂いも、ベージを繰る音も、手に伝わる重みや手触りも、書物それ自体としての体裁が大好きである。見たり、触れたり、聴いたり、書物に対してこれだけの感覚を傾けているのだから、あとはやっていないことと言えば食べることくらいしか思いつかない。
そんな愛書家であるところの私にとって、物質としての書物を語る上でルリユールについて調べることは極自然な流れであった。そして職人であるルリユールが生み出した書物の数々が芸術として花開いたパリの街で、愛書家たちにとってはエッフェル塔やシャンゼリゼ大通りを見物するよりも、街角の小さな古書店やセーヌ河の岸に立ち並ぶ露店を訪れることの方が聖地巡礼と呼ぶに値する喜びをもたらしてくれる。書物の物質性を魅力として生活に取り入れているこの街の住人たちの前で、愛書家たちは自らの嗜好を存分に追求することができるのである。マカロンにもパリコレにも興味はないが、私はそういった点でパリの街を何度でも訪れたいと思う。
残念なことだが、書物という紙の情報媒体が衰退しているのは何も日本に限ったことではなく、2010年には『薔薇の名前』で有名なイタリア人作家ウンベルト・エーコとフランス人脚本家ジャン=クロード・カリエールの共著『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』の訳書が発行された。書店でこのタイトルを見つけたとき、自分が書物の国だと思っていたフランスの_しかも愛書家として著名な_国民までがとうとうこんな本を書いて警鐘を鳴らす事態になってしまったのかと悲しかった。しかしながらこの本は、その物騒なタイトルとは裏腹に実に美しい装丁の本なのだ。まさしく中身を読んで熟考し、表紙を見て決心せよというのであろう。すなわち、このように美しい書物という芸術品を絶滅させてはならぬ!と決心するのである。情報はデータ化され、伝達、流布、閲覧の全てが手元のワンクリックで成せるようになってしまった昨今の世界で、情報媒体としての書物は最早、利便化の波に抗えず立場を失ってしまった。となれば、美しく芸術的な物質としての側面を大きく打ち出してゆくことが、書物に与えられた生き残りの方法ではないだろうか。書物という体裁特有の魅力が人々の心に訴える限り、書物は決して絶滅しないはずなのだ。
そうした流れを読み取ったのか現在、日本ではデザイナーとしての装丁家や、空間コーディネーターとしての製本師が書店やカフェをプロデュースすることがちょっとしたブームとなり始めている。私としては、そういった活動がもっと成長して、日本社会を巻き込んでゆけば良いと願うばかりだ。
【参考文献】
『西洋製本図鑑』(雄松堂出版・2008)
『本の歴史』(創元社/1998)
『書物の歴史』(白水社/1992)
『和本入門 千年生きる書物の世界』(平凡社/2005)