杉町 碧
2011年の夏に、福岡の篠栗町にある四国霊場礼拝という八十八か所ある神社を巡るという巡礼をしてきた。山などの急斜面や、でこぼこした歩きにくいお遍路という道を通り八十八か所の寺院を周り、納経に札を納め、判子を貰ってくるのである。それは一言で言うと修行のようなもので、礼拝するはずの寺院そのものに辿りつく道のりは行く手を阻む迷路のようだった。長い道のりを地図を頼りに寺院を探し、1つひとつ巡ることは想像を絶する大変さであった。そして、その経験をした後に、フランスにも上記のような道を通り教会に礼拝しにいくという道を歩き教会を巡るというお遍路さんに似た巡礼があると知り、探究心を持った。国や文化、更には宗教まで違うにも関わらず、同じような行動をとることに興味を持ち、研究してみたいと考えたのである。また、私自身は、人のために祈願をしにお遍路さんをしてみようと決心したのだがフランスの方々は主にどのような思いを持って巡礼に臨むのか知りたっかたのである。そこで私はフランスに行き、巡礼地の起点である場所や周辺、遍路道沿いの教会を巡り、巡礼について自分なりに研究することにした。
サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路というのをご存じだろうか。このサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路はエルサレム、ローマとともにカトリック教会の重要な巡礼地となっている。
まずは、この巡礼路ができた経緯を説明したい。フランスを含むフランク王国が、カロリング朝のカール大帝に統一されていた9世紀ごろ、スペイン・ガリシア地方で聖ヤコブの墓が発見された。聖ヤコブとは、キリストの12使徒の内のひとりである聖人である。そして、その墓跡には聖堂が建てられたのだ。
キリスト教信者たちはこぞって聖堂を訪れ、礼拝すれば自分自身の負うすべての罪が許されると、ヨーロッパ各地からぞくぞくと信者が”巡礼者”として訪れるようになったのであった。そして、彼らが目指す最終目的地はスペインの北西端にあるサンティアゴ・デ・コンポステーラ。
そここそが、まさに免罪を叶えてくれる聖ヤコブを祀った聖地である。ヨーロッパ各地からこの聖地を目指して、巡礼が行われているのだから、必然的に幾重もの巡礼路ができてくるわけである。その巡礼路は、フランス国内の巡礼路と国内の教会などの歴史的な建造物が登録されている。もちろん、スペイン国内の巡礼路も世界遺産として登録されている。
フランスの巡礼路の起点はサンジャックの塔。この塔は、セーヌ川岸に建っており、とても高く目立っている。ここから、ピレネー山脈まで4つのルートがある。その後は2つのルートへと減り、スペインに入ってしまえばその2本の道は繋がり1本の道になって行く。
サンティアゴとはスペイン語で聖ヤコブを意味するそうだ。ちなみにフランス語ではサン・ジャック。そしてコンポステーラとは、 星降る野原の意味とされているらしい。ということから、サンティアゴ・デ・コンポステーラとは、星降る野原の聖ヤコブということになる。巡礼者たちには、免罪を叶えてくれる聖ヤコブまでの道が、自分のしてしまったことの罪の意識、つまり罪悪感という暗い道を辿っていた人々にとって星のように道を明るく照らしてくれる希望に見えたのであろう。
現在、この塔は、サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路のフランス国内出発点の1つに指定されている。現在は跡形もない肉の屠殺場後に建っているの教会がサンジャックの教会である。
現在は、塔を取り囲むように公園ができており、子供やお年寄りと人々のコミュニケーションの場となっていて、とてものどかな風景だった。まさか、数世紀前まではここが屠殺の場だったとは思えないほどであった。13世紀に建てられ、フランソア1世からルイ12世の西暦1508年から1523年にかけて建て直されたという記録が残っている。現在のサンジャックの塔の鐘楼はその建築物の南側の側面に建っている。
高さは56mでこれは、フランボアイヤン様式建築の特徴のひとつであるらしい。フランボアイヤン様式とはフランス後期ゴシック建築に特有のようしきであり、フランボアイヤンとは「炎のような」の意を持つ。窓の上部の狭間飾の装飾が火炎を思わせる華麗な曲線を示すところから名づけられたらしい。加えて、16世紀のパリ風の建築を象徴するゴシック様式を、継続することを強く訴えている証でもあるのだ。
そしてその装飾の中には、18体の聖人の彫像が建築物に配置されている。サンジャックは土台に装飾が施されておらず、当初は、教会の外陣に装飾が組み込まれていた。そして1797年、サンジャック教会は解体されたのである。ただ1つ今も残るその塔は、解体業者に買収される前に保護されたことにより現在の姿を維持できているというわけだ。1853年に修復作業が行われた。鷲は、聖Jeanを、獅子は聖Marcを、雄牛は、聖Lucを、表している。
つまり、サンジャックの塔は人間(聖人)が化身した姿を現す彫刻を装飾された建物であるのだ。当時の人々は、この聖人たちを象徴した化身たちを理解していたのだろうか、それともただの動物をかたどった彫刻だと受け取っていたのだろうか。現在は、塔の中への侵入は禁止されているため、近くで化身たちを見物することはできないが、私はユニークな塔だと思った。教会の装飾に、こんなにたくさんの動物たちが起用されているところをあまり見たことがないからである。
フランスへ行き、パリへ立ち寄ることがある際は、ぜひ本物のサンジャックの塔を見て頂きたい。さらに観光案内所に立ち寄れば、帆立の貝殻に巡礼したという証しであるスタンプを優しい管理人さんがくれるのでお土産にももらってみてはどうだろう。
まず決定的な相違は、フランスの巡礼(正式な)に出向く際には様々な手続きが必要であり、面接までしなければならないことである。もちろん、ハイキングとして行くことは個人の自由であるが、祈願、懺悔、いろいろな理由があるにしろ自分の居住する区の教会に出向き、神父様に巡礼の旨を伝えなければならず、許可を頂けなければ巡礼を施行することすら叶わないというのだから面白い。しかも、申請されるまで時間がかかるようである。
日本では、ハイキングにしろ、理由があるにしろ巡礼を行うのに誰かの許可をもらう必要はない。もし仮に正式な巡礼を行うにしても、神社やお寺で納札のお札を買い、ろうそく、線香、お賽銭、黒書と朱印をいただくための納経帳がありさえすればすぐにでも巡礼の途に就けるというわけである。簡単に誰でも参加できる自由型である。しかし、納札に祈願する人の名前や、どういった理由で祈願するのかという内容を八十八枚すべてに記載しなければならない。昔でこそ、一枚一枚書くタイプであったが、現在はボール氏が4枚に1枚は入っているので簡単にはなったほうだと思われる。
また、上記に挙げた納札はフランスの巡礼にはない。そして納経帳に黒書と朱印をもらうのでなく、サンジャック、つまりホタテの貝殻にそれぞれの巡礼地のスタンプを押してもらえるのである。時には、巡礼地の教会でなく、近くのジットと呼ばれる宿泊施設に行くと宿主さんが押してくれる場合もあるようだ。そして、このジットは無料で泊まることができるので巡礼者の多くがこの宿を利用するらしい。よほど、巡礼ピークでない限り、予約しなくても泊まれるという情報だ。ちなみに、巡礼ピークとは何年かに一回訪れる7月25日金曜日(聖ヤコブの誕生した日)がそうである。この日は、ヨーロッパ各地から巡礼をしに来る人がいるようだ。
加えて、正式な巡礼を行う際、(ここ最近はしているひとはいないが)白装束の格好が日本元来の巡礼の正装である。フランスでは、山登りをするような格好で巡礼をするのが一般的のようだ。半袖、半ズボンに、大きなリュックを背負い、杖をついて歩いている。
そして、道しるべも面白い。日本では「世界人類全てが平和でありますように」という看板が神社の近くになると必ず表札されている。フランスでも近くの電柱や樹木には赤と白で目印をつけているようだ。曲がるのを指し示すのは鍵型の赤白の印で、違う道では赤白で×と書いているようだ。
最後に余談であるが、なぜホタテが巡礼者のシンボルになったかというと、昔は帆立貝の貝殻をお皿代わりに、食べ物を恵んでもらったのだそうで、そのことが関係しているようだ。
サンジャックの塔・ノートルダム教会・メダイ教会・モンサンミッシェル上記の4つの巡礼に関する教会にてフランスの方々に巡礼についてのアンケートをとってみた。
アンケートに答えてもらえたのは43人。内、男性が24人、女性が19人である。また、そのうち普段から教会にどのくらいの頻度で行くのか調べてみた。アンケートをした結果、意外にも月1回も行かない人が多く同人数で月に1回行く人が大多数を占めた。私はカトリック信者が多いフランスでは、毎週日曜日には必ず教会に行く方の方が多いと踏んでいたので、意外な結果に驚いた。
洗礼、聖餐、堅信、叙階、結婚、ゆるし、終油といった秘跡などには必ず教会を訪れ、人生の節目ふしめで必ず教会を訪れると聞いていたカトリック信者たちの中で、教会のミサはもっと重要な位置にあるとばかり推測していたが。私の地元である長崎にはカトリック教信者も多く、友人にも毎週日曜日には教会へミサに行く人が多かった様に思っていたが、全く違う回答が得られとても面白かった。更には、365日毎日通っているという驚異的な回答もあった。もっとも、仏教徒でありながら神社やお寺に月何回というばかりか、1年単位で行くか行かないかの私からすれば月1でさえ驚きなのだが。
グラフから読み取れるのは、月に1回も訪れないが最も多い回答で、次いで月に1回程度、次に多いのは月に5回くらいという結果だった。このことから、現在のカトリックでは日曜に絶対にミサを訪れるということではなく、むしろ気が向いたときに訪れればよいという決まりになっているようだ。
確かに、教会へ訪れ、祈ることが義務化するよりは、自発的に神に祈りを捧げたいと思った時に行動に移すほうがいいのかもしれない。
男性24人 女性19人 計43人
まず、巡礼に行ったことがあるかという問いに関しては、約半分が行ったことがあるという回答だった。そして半分は行ったことがないという回答だった。5分5分で巡礼をした人としたことがない人にわかれるようである。
また、フランスで研究を行う前に話を伺った先生によると、フランス人はハイキングが好きで、ハイキングの一環として巡礼を行う人が多いと聞いていた。故に、ハイキングとして巡礼を行っているならば多くの人が参加していると想定していたが、約半分近くの人が行っていないという結果を見て驚いた。そして、巡礼へ行く目的だがこれもハイキングとしてという回答が少なく、面白そうだから、興味を持ったからという回答が多く意外だった。
また、映画などでよく見る懺悔の為にという回答は1人しかおらず、意外にも巡礼に行ってまで懺悔をしようとする人はいないようだ。昔ならば、聖ヤコブに許しを斯うために巡礼するのが常だったはずが、現代では様々な意味が見出されているようだであり、免罪のためという本来の理由で巡礼する人はすくないようである。また、観光目的で巡礼する外国人もいるようで世界各国から巡礼に訪れる人もいるようである。
上記の巡礼を行う理由としてほかに例が挙げられたので、紹介しておきたい。ある人は、「神の光や教えの中に留まっておくため。」という回答をしてくれた。昔は字が読めない人が多く、聖書の内容を教会に、壁の彫刻やステンドグラスに記して聖書の内容を把握していた。そして、そんな巨大な聖書である教会を巡り、視覚から聴覚から神の教えを理解し、その教えの中に留まるため巡礼をしているのだと理解した。
次に、このように答えてくれた人もいた。私はこの巡礼を3回行ったしこれからも確実に続けるでしょう。そしてそれは私自身ためにやっていることではないけれど、巡礼をすることで自然と宗教についての自分の考えを見出すことになるのです。」この方は、きっと巡礼をすることに特に意味を見出しているわけではないけど、巡礼することによって、必然的に宗教についての自分の考えを見出しているのではないかという自分を客観的に見た意見をくれた。
普段、カトリック信者の人々は巡礼に対してどのような考えを持っているのか、また巡礼を行う前までの印象や持っていた考えについてを聞いてみた。すると、圧倒的に神聖なものと回答する人が多かった。それは、巡礼をする前に抱いていた印象と巡礼を行った後の巡礼に対する考えでも同じであった。
しかし、巡礼前の段階でマイナスイメージを持っていた人が巡礼を終えてプラスのイメージしかもっていないことについてはとても興味深かく面白かった。それだけ、巡礼とは彼らにとって良い印象を与えるほど魅力的なものなのだろう。また、巡礼後の巡礼そのものに対しての考えの欄に、巡礼とは終わりなき長い列であり、超自然的な見張り塔だと考えるという意見をくれた方もいた。
それは、巡礼が途絶えることなく、今も参加者が減少の色を見せるどころか、増加傾向にあることをさしていて、これからあとの世代まで受け継がれるべきものだと言う意であり、見張り塔とは私たちをそこから動くことなく見守ってくれる超自然的な聖ヤコブのことを指しているのだと私なりに解釈した。
それ以外にも巡礼に対しての考えを書いてくれた方がいらっしゃったので紹介したい。まず、「巡礼によって私たちはキリストの言葉に遣え、それを人類に広めるべきであると考える。」ということを書いてくれた方がいた。これは、後世にもキリスト教の教えを広めるべく、巡礼を行う事で自分のキリストに対する理解を深めたいということではないだろうか。
そして、その考えを私たちの世代や、私たち以降の世代っへと引き継がれなければならないのである。次に「巡礼を行うことで自分のなかの信仰心をさらに高める。」これは、上記でも述べたように巡礼をするということは、必然的に自分の中のキリストに対する理解を見つめなおすことになるのだという意だと考える。
次に、「神に感謝するための巡礼であり、自分や家族の人生において欠けているものを補えるように請うためである。」という意見であるが、これは家族のためを思って巡礼するようで、神に感謝の意を表すためであったり、今欠けているものを祈ったりするというものである。比較的、神社などにお参りする際には、何々しますようになどの現在欠けているものを補うような、願掛けのような祈りを捧げたりする私たちの行動と似通ったところがあると感じた。また、巡礼地についての意見をくれた方もいた。「巡礼地とは超自然であり、夢のように美しい場所でもある。」確かに、これにはとても共感できた。そのほとんどの教会がとても細部まで装飾してある壮大なものばかりだったからである。
日本でいう真冬のような寒さだが、カラっとした空気が気持よく、辺りでは焼き栗を焼く香ばしい香りが漂う、日本の冬より幾分か過ごしやすい11月のパリ。ここで私は巡礼の研究を行った。ほとんどの巡礼者は、暑い夏に巡礼を行うらしく、巡礼者がおらず研究は困難を極めた。しかし、一般の方々にうかがったり、何よりパリに戻られており、日仏の巡礼比較に興味を持たれている西南の先生の協力のもと研究を進めることができた。
今回の研究をして私が感じたのは巡礼という行動の意義や、人々が巡礼をすることによって見出すことのできるメンタル的な部分を詳しく知れたということだ。巡礼を日本で経験し、フランスでその文化を異国で違った形で、少しとはいえど知ることができた。異国の文化を日本の文化というフィルターを通して見ることができて面白かったとも感じる。第三者というよりは、ものすごく第二者の斜め後ろくらいからのぞくような感じであった。共感をできるものがあったわけでも、きちんと真髄を理解できているのかもわからないが、きっと巡礼というものを自分らしく受け止めることくらいはで@きたと思う。巡礼は、人それぞれに意味があり、その存在意義は彼らひとりひとり違うのである。それは人のためであったり、神のためであったり、神の教えを理解しようとする自分自身のためであったり、単なるハイキングであったり。同じ道を歩くのに、周るところも、最終目的地も同じ人々が違う目的で同じ行動をするのである。それが巡礼なのだ。いつか、私も最終目的地であるサンティアゴ・デ・コンポステーラまでを巡礼者として訪れてみたいと思う。
また、私は今回研究に行ったことで調べるという概念が覆されたと思う。グローバルで、ネットワークが世界中に張り巡らされている現代に生きる私たちは、携帯という媒体を解して情報を手にすることができる。図書館などで調べるのも1つの手であるが、正直ネットという便利なものがこのように身近にあるのにわざわざ図書館に出向くようなことはしないはずだ。知りたい情報を手に入れることができるのは確かに便利であり、手間も掛からない。しかし、自分で研究し、それを自分自身の観点から調べてみるとそのネットで調べた情報とは違うように感じることもあるということも今回の研究で知ることができた。1つひとつ疑問に思うことを、現地まで行き、設定した内容に合わせて研究する。このプロセスを踏んで出た結果が、調べた情報である。まさに、百聞は一見に如かずとはこのことではないだろうか。
そして、この機会を与えてくれた先生方をはじめ、協力をしてくださった皆さんに感謝に意を述べたい。前々から、巡礼地の前に教会に教会に興味があったのでこのような機会に教会を周れたことも、とてもいい経験になった。今回の経験を活かして、これからの自分の糧としていきたいと思う。そして自分の探究心を持って、これからも疑問や不思議に思ったことを追求していきたい。
参考文献
Routes of Santiago de Compostela in France
http://sekaiisan.jp/santiagofrance.html
NHK世界遺産
http://www.nhk.or.jp/sekaiisan/card/cards034.html
http://www.asahi-net.or.jp/~pu4i-aok/imagedata1/serial4.htm
サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼道