道永 舞花
言語圏の混在(オランダ語・フランス語・英語) ベルギーといえば何を思い浮かべるだろうか。多くの人はチョコレートやワッフル、ビールといった食べ物を思い浮かべるだろう。もちろんそういった食文化も重要であるが、今回は少し複雑なベルギーの社会背景、歴史にも触れる。4つの国(フランス、オランダ、ルクセンブルク、ドイツ)に囲まれ、同じ国でありながら多言語を話しているという不思議な国を、建築を通して少しでも知ってもらえたらと思う。
2011年12月5日、ベルギーにようやくの新政権が誕生した。政治空白でありながら、国としては機能していたという奇妙な国である。その背景には続く言語圏対立があった。北部(フランドル地方)がオランダ語(フラマン語)圏、南部(ワロン地方)がフランス語圏、欧州連合(EU)の本部や、北大西洋条約機構(NATO)があるブリュッセルは両言語併用地区で、少数だがドイツ語圏もある。
1830年にオランダから独立宣言をして建国して以降、フランス語が優勢だったが、第二次世界大戦後、経済成長に成功したオランダ語圏が発言力を強めて1963年に言語境界線を画定する。93年に連邦制に移行し、地方政府の権限が大幅に強化された。北部のオランダ語圏と南部のフランス語圏の政治対立が背景にあったため、2010年6月13日の総選挙後、1年半近く正式政権ができない状態が続いていた。
(※地図はmaps.google.co.jp/より)
日本の九州にも満たない小国ベルギーが、実は常にヨーロッパの中心であったのはご存じだろうか。ここでは歴史的背景をもとに、ベルギーがヨーロッパで果たした中心的役割を見ていく。
① ヨーロッパの中心(中世フランク王国、ブルゴーニュ公国の時代)
② ルネッサンス以降の時代に商都として繁栄の頂点に達したのは、ブリュッセル、アントウェルペンなどの都市
③ 宗教改革のなか、カトリックの砦として立ちはだかる
④ ナポレオン1世の率いるフランス軍とイギリス軍、プロシア軍による会戦の地(ワーテルロー)
⑤ 二度にわたる世界大戦では、国土が占領され、中心的な戦場に
⑥ EU統合の中心地 ※地理的にも西ヨーロッパの中心に位置する
⑦ フランス、ドイツ、英国の三文化圏の接点
⑧ イタリア、イベリア半島、スカンディナビア半島とを結びつけるヨーロッパの十字路
⑨ 戦争が終わると、平和と復興の象徴へ
このように歴史をたどると、ベルギーは常にヨーロッパ統合の中心地であった。しかしその一方で、国家分裂といえる言語圏の対立という、複雑な政治事情を抱えている国なのである。今回はこのような複雑な政治背景を持つベルギーを、建築の点から研究してみる。主にフランドル(フランダース)地方のコルトレイクと、ワロン地方のリエージュに焦点を当てる。
(※地図はmaps.google.co.jp/より)
ベルギーのフランドル地方に位置する都市(人口約74000人)で、フランスとの国境に近い。町の中心部に観光スポットがあるが、1時間半ほどでほとんど回りきれるぐらい小さな町であった。
オランダ語(フラマン語)が主流。 例:テレビ、レストランのメニュー(フランス語で書いてあるところもある)、駅の案内、町の表札など。
13世紀に設立された女子修道院。小さな家や、教会(聖マルタン)、中庭で構成されており、中世の宗教運動の名残や当時の都市計画、伝統的な建築の組み合わせをここに見ることができる。神に身を捧げながらも、世俗に生きるという「半宗教」という新しいスタイルを確立した女性たち(修道女)は、西ヨーロッパに大きな影響を与えた。ペギン修道院はコルトレイクのほかにも、アントウェルペン、ルーベン、ヘントなどフランドル地方に残っている。
1390年~1466年の間に建てられた。1862年の火事の後、もともとはロマネスク様式であった教会を、ブラバント・ゴシック様式として再建設した。49個の鐘を含む木製の鐘楼は、1964年に起きた二度目の火事の後、1974年に修復された。正面入り口のアーチには聖マルタン司教のネオ・ゴシックの彫刻がある。この塔はコルトレイクの号鐘であり、教会の内部は貴重な芸術作品が飾られている。
※ブラバント(ブラバン):ベルギー中部の州。州都はブリュッセル。北部はオランダ語、南部はフランス語、ブリュッセルでは両言語を使用。
中世の毛織物の卸売市場の遺跡で、48の鐘楼によって構成されている。
※ベルギーには約30の鐘楼があり、封建社会から商業を中心とした自治都市社会への移行期にあたる中世末期において重要な役割を果たした。これらの塔はいずれも都市の中心部に位置し、たいていの場合は市庁舎に付属するが、教会に付属する場合もある。新たに得られた都市の独立を象徴するとともに、現世と神聖との関連も象徴する。
町の中心にあるグラン・プラスにある16世紀に建てられた市庁舎。建物正面はフランドルの伯爵を象徴する彫像で飾られている。
ベルギーのワロン地方に位置する都市(人口約20万人)で、オランダとドイツとの国境に近い。フランス語が主流。例:町の標識、テレビ(ドイツ語と英語も流れている。)
川の交通網を利用し、古く中世からヨーロッパ各地の交易の中継地点として発達した西ヨーロッパの十字路。中・近世においては、ヨーロッパ屈指の鉄砲の生産地。フランス語圏の中心で、かつては強大な権力を持つ司教領首都として栄えた宗教都市だったため、寺院が多い。また、大学もあり「精神の町」とも呼ばれる。
聖ランベール広場にあり、11世紀にリエージュを支配したノジェール司教の住居として建てられた。幾度か改修がなされ、現在の建物は16世紀のルネサンス様式が主で、南側のみ18世紀のゴシック様式である。またネオ・ゴシック様式の左側部分を中心に州政府庁舎、裁判所としても現在は利用されている。
17世紀のフランシスコ会修道院を利用し、1912年設立される。館内にはワロン文化、生活などの歴史を展示し、ワロン民族を紹介。職人の工房や地場産業だった炭坑を再現したコーナーもある。またマリオネット劇場を併設。冬にはこの地方独特のチャンチェという人形劇が演じられる。
Église St-Barthélemy 聖バルテルミー教会
11世紀に建設を始める。18世紀に、内部をフレンチ・ゴシック様式やネオ・ゴシック様式に改造される。ベルギー7大秘宝の1つ、レニエ・ド・ユイが12世紀に作った真鍮製の洗礼盤「聖バルテルミーの洗礼盤」がある。この聖書の中の5つの洗礼場面を描いた作品は、これを保存していた教会が消滅したために、1804年からこの教会に置かれている。
1600年にスペイン人商人クルティウスが建てた貴族の館。ローマ時代のコインなどの考古学関係、中世の美術品、家具・陶器・木彫などの装飾芸術のコレクションが展示されている。また隣接していたガラス博物館(初期のガラス製品からクリスタルのコレクション)と、武器博物館(リエージュは14世紀ごろから武器の生産で知られている)を内包して、2009年にグラン・クルティウス博物館としてリニューアルオープンした。考古学、宗教・モザン美術、武器、装飾芸術、ガラス美術など多岐にわたった展示が楽しめる。
1740年にたてられた個人邸。内装のすべてが手を加えられずに残っているので、かつての上流社会に生きた貴族の生活様式を見ることができる。タペストリーや家具、銀製品、デルフト焼きのタイルで飾られた台所など、装飾芸術の典型ともいえるものをみることができる。
※デルフト:オランダの都市。東洋時期を模したデルフト陶器で有名。17世紀の画家フェルメールの生地で、オランダ東インド会社の支社が置かれた。
979年に建設され、灰色の外壁の一部が当時の状態のまま残されている。長い年月の間(12・13・19世紀)に何度も修復された。多角形の教会後方部分は13世紀半ばのゴシック様式である。教会内部は13~14世紀、側面は15世紀のものである。
ベネディクト派の教会。11世紀に着工し建設が始まり、数世紀かけて完成したため、正面はロマネスク様式、内部は15世紀のフランボワン・ゴシック様式、本堂部分は後期ゴシック様式など、多様式になっている。
※フランボワン:曲線と半曲線を組み合わせた火炎のような文様パターン
971年に建築が始まり、13世紀に完成。15~16世紀に改築され、主要部分を残しては大半が16世紀のブラバント・ゴシック建築である。16世紀に作られた壮麗なステンドグラスと、宝物殿のランベルトゥスの聖遺物箱が見もの。
※ブラバント(ブラバン):ベルギー中部の州。州都はブリュッセル。北部はオランダ語、南部はフランス語、ブリュッセルでは両言語を使用。
13世紀初めに建設、« Violette »とも呼ばれている。15世紀にシャルル(ブルゴーニュ公)によって略奪され、取り壊される。La Violette (スミレ)と呼ばれていた。1718年に修復、そして建設当初「牛の血」のようであった赤色の塗料を使って塗り替えらた。 、
Notre-Dame de I’immaculée Conception
聖ジェラルド教会とも呼ばれている。紋章がついたバロック様式のファザード(建築物の正面)を見ることができる。カルメル修道会が1618年に使用していた。1630年の火災の後、1655年まで完成しなかった。その後、18世紀後半のフランス革命の際に売り渡され、かつてのカルメル修道会に買い戻される。1838年にレデンプトール修道会の所有物になった。
※教会内に立ち入ることはできない。
963年頃に建てられたと言われており、元々は初期ロマネスク様式であった。1312年の火災により崩壊してしまったため、« Mal Sain-Martin »とも呼ばれている。 « Mal » は « Malheur » (不運、災難)という意味である。1506年~1542年の間にゴシック様式として再建され、1840年~1871年の間に修復される。1886年から大聖堂として認められている。
※大聖堂(basilique):ローマ・カトリックやギリシア正教の崇規上、特権を与えられている聖堂の称号のこと。
両都市とも日本における観光都市としての知名度はまだ低く、情報が集めるのが困難であった。また建築物の点において建築物の比較しようと試みたが、様々な建築様式が混雑していたため、比較研究するまでに至らなかった。また時間も限られていたため、すべての建物内を見学することができなかった。もう少し的を絞って研究すれば良かったのではないかと思う。しかし両都市に滞在して、同じ国なのに言語が違うという不思議な体験をすることができた。またベルギーに行く機会があれば、もう少しこの政治的、歴史的背景を通して、どのように文化的な影響を与えられたかを追求していきたい。この報告を通して、少しでもベルギーに興味を持ってもらえれば幸いである。
参考文献
西田雅嗣『ヨーロッパ建築史』昭和堂、2008年
小川秀樹『ベルギー ― ヨーロッパが見える国』新潮社、1994年
参考新聞記事
「ベルギー政治空白1年」 『朝日新聞』 (朝日新聞社、2011年6月9日付)
参考サイト
「ベルギー観光局ワロン・ブリュッセル」
<http://www.belgium-travel.jp/wallonia/liege.html>
「ベルギー・フランダース政府観光局」
<http://www.visitflanders.jp/index.html>
「コルトレイク観光局」
<http://www.kortrijk.be/toerisme>
「グーグルマップ」
<maps.google.co.jp/>
その他
現地で入手した地図やパンフレットなど。