2011年研究旅行

フランス国籍を持ちカリブで生きるフレンチカリビアン

御手洗 なつ実

 私が初めてグアドループを知った時、日本でいうと沖縄みたいなところだと教わった。何年か前にアフリカやカリブの音楽の虜になり、トリニダードトバゴのソカを特に好んで聞いていたのだが、ある日インターネットでカリブの音楽を探している時に、カリブのフレンチ音楽と出会い、調べるとグアドループのズークという音楽だとわかった。これがグアドループに興味を抱いた理由だ。フランスやグアドループに多様な人種の人々が暮らしていることを承知の上で、下記ではわかりやすく説明するために、グアドループにいる白人のことをフランス人、黒人やムラートなどの有色人種の人々のことをグアドループ人と表記する。ただし、本土のフランス人や、入植者の子孫の白人などを表す際は、その内容を明記する。

研究について

 

 私の研究テーマは、フランス人としてのフレンチカリビアンらしさと、カリブで暮らすフレンチカリビアンらしさである。

 「20092月下旬の世論調査によれば、フランス本土では51%がグアドループの独立に賛成し、現地住民は8割が独立に反対している。フランス本土にとっては、多額の政府補助金をつぎこまなければならず、海外県からすれば本土の支援なしではどうしようもないという危機感がある。こうした意識のズレが事態を複雑にしている。」(朝日新聞)という記事を見つけた。グアドループの経済の大部分は観光業とフランス本土からの援助に頼っている。実際にグアドループへ行ってわかったことだが、観光客もほとんどが本土から来たフランス人である。

 ところが、マルティニーク生まれの作家らが書いたEloge de la créolité (Patrick Chamoiseau, Raphaël Confiant, Jean Bernabé)という本に、 « Ni Européens, ni Africains, ni Asiatiques, nous nous proclamons Créoles. » と書かれている。私はこの2つの文章に書かれている矛盾が気になり、グアドループへ行き、研究することに決めた。


 私が初めてグアドループを知ったときのように、インターネット上でもグアドループは日本にとっての沖縄だという記述が見られるが、私が沖縄へ行った時、どんなところが沖縄らしかっただろうかと考えた。自然や建物や、沖縄住民の時間の感覚や色の感覚、それと音楽であった。音楽に関して言えば、私たち福岡住民の福岡出身のアーティストへの関心に比べ、沖縄住民の沖縄出身のアーティストへの関心はかなり高く感じた。このように、沖縄に生まれたことへの誇りを持っていることも、他の県民に比べると沖縄らしさの1つであると思う。


 2007年の琉球新報が掲載した林琉大先生の調査によると、沖縄は独立した方がいいと答えた県民は、1200人で全体の20%、日本の一部になってよかったと考える県民は70だそうだ。沖縄では「何人ですか?」と聞かれると日本ではなくて「沖縄人です。」と答えると聞いたことがあったが、この記事によると、自分を日本人ではなく、沖縄人だと考えている人は増えており、県民の41.6%を占める。「沖縄人でもあり、日本人でもある」という回答をしたのが29.7%。「日本人」だと答えたのは25.5%だった。政府が認めた場合、日本から独立すべきかという問いに対しては、独立すべきでないと答えたのは64.7%、独立すべきだと答えたのは206%で大きく上回った。独立すべきでない理由は、自立する能力がないということが多く挙げられた。


 この研究で追究したいことは以下の2点である。


グアドループではクレオール人だけでなく、アフリカ系、ヨーロッパ系、インド系、中国系移民など、多くの移民がグアドループで生きている。多種多様な人種の混合の中で、彼らはどのように社会を作り、共存しているのだろうか。

 

・カリブで生まれ育った彼らのフランス人らしさはどこに表れているか。

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グアドループとは

参考:Les Antilles FrançaisEditions GRAND SUD

Culture of Guadeloup, Caribbean Choice

まず、グアドループについて紹介する。

地理・歴史≫

グアドループは8つの島を持つ諸島で熱帯大西洋とカリブ海の間に位置している。2つの主要な島、Basse-TerreGrande-Terreがあり、海峡により羽のような形をしている。商業の中心はPoint-a-Pitreである。Grande-Terreでは平野や丘が見られるが、Basse-Terreには火山を含む高い山々や熱帯雨林があり、小さい島だが場所により自然環境が異なる。

 

クリストファー・コロンブスが1493年にこの島を発見する前、この島は現地人に「Karukera (カルケラ)」と呼ばれていた。カリブの言葉で、「美しい水の島」という意味である。グアドループという名前をつけたのはコロンブスである。

 グアドループはカリブ海を船で旅するスペイン人たちの物資の補給地点になり、商業施設を攻撃する私掠船や海賊の隠れ家であった。そして1635年、Lienard d'OliveDu Pressisがグアドループを占領した。

 入植者の最初の任務は、土地を横取りすることと、少しずつ全滅へと向かっていた現地人のアラワク人やカリブ人たち、他にもセントビンセントやドミニカなど、当時はまだ植民地化されていなかった島からやってきたカリブ人を追い出すことだった。プランテーションを拡大していくにつれ、冒険家たちやフランスからの貧しい民族が移住してくるようになった。主にタバコや綿花を栽培するために、土地を開墾していき、島にどんどん侵入していった。その後、アフリカからの黒人奴隷の交易により、労働力を補っていった。

 イギリスによる占領や、1635年からのフランス支配のもと、フランス政府の統治下になり、1685年、Jean-Baptiste Colbertにより、「le code noir(奴隷貿易法)」が公布された。

1794年に最初の奴隷解放があり、白人による農園主支配も次第になくなり始めたが、その後ナポレオンが再開する。

1848427日、奴隷制度の廃止がグアドループで布告され、1946319日にフランスの海外県になった

 

その他≫

 公用語はフランス語で、公共の場、教育の場ではフランス語が使われるが、現地住民同士の会話ではフランス語系のクレオール語を話す。カリブ諸国の文化といってもよいカーニバルなど、カリビアンの文化行事においても、フランスの国旗や国歌を用いる。 グアドループ人の多くはカトリックである。

 食事に関しては、アメリカインディアン、アメリカ、イーストインディアン、フランスの食文化の影響を受けている。主な食材はキャッサバ、根菜類、パンノキの実、アボカド、バナナ、ピーナッツ、豆、オクラ、肉、魚、トロピカルフルーツである。農業生産がGDPを占めているのだが、生産性が低く、1997年は輸出量が輸入量に対したったの7.4%であった。フランスからの補償を受けており、フランス本土やEU諸国内には流通がある。現在は都心部のサービス業の雇用が増加しているが、若者の失業問題は深刻な状態にあり、15歳から29歳までの43%は無職である。

 一般的にグアドループ人はおもてなしの精神を持っており、彼らにとって食やお酒、音楽、ダンスは重要である。普段の会話にはクレオールを用いるが、冗談を言ったり、口説いたりなど、陽気でユーモアに溢れている。

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アイデンティティ

 グアドループでは、クレオールのグアドループ人、混血のグアドループ人のほかにも、ハイチ人、フランス人(白人)、タミール人(インド人)、レバノン人、シリア人、中国人、ドミニカ人などが移住して共存している。肌の色も宗教も言葉も違う人々が、約1700㎢の香川県よりも狭い島の中で暮らしている。

 移民大国アメリカでは、混血がますます進んでおり、私はいったい誰なのだろうか?と、アイデンティティを音楽に求める人が増えたと聞いたことがあった。音楽はカリビアンにとっても、歴史的にも文化的にも深い結びつきがある。


Nou pa sa travay san tanbou.

Oh ! Yoy-yoy ! Oh ! Misye-a !

Bèl tanbouyè ! Ay, ay, ay !

Joli tanbouyè ! Chofe tanbou-a !

Jennen tanbou-a ! Kraze tanbou-a !

(参考:クレオール事始)

 « Nou pa sa travay san tanbou » はつまり、 « Nous ne pouvons pas travailer sans tambur. » とフランス語で表すことができ、「私たちは太鼓がないと働けない。」という意味になる。プランテーション時代、奴隷たちは重労働を耐え抜いたり、滅入る気分を立て直すために太鼓を用いていたという。

 今のグアドループでも太鼓を叩くという文化は残っている。ズークが好きだ、と言うと、Gwo ka (太鼓のこと)は?と必ず聴かれるほど、島民に親しまれており、インターネット動画サイトでGwo kaと検索すれば、どれだけ人々が熱狂的になるか見ることができる。観光客の多い通りで売っているのをよく見かけたし、家に置いてある家も多かった。

 グアドループで私が一緒に過ごしていた人々は、特に音楽を愛している人たちで、夜、それぞれが様々な太鼓やその他の楽器を持ち寄って、la plage de Bois Jolanに集まり、火をたいて、朝方まで即興で音楽をしていた。




 Louis Delgrsという人物がいた。彼は奴隷として生きた人物で1802年に自殺しているのだが、彼がグアドループ人としてのナショナル意識の構造を作ったと言われている。後の独立運動や反植民地運動は、これが元になっているのだが、フランスへ留学した黒人知識人たちは、フランスで暮らす上での意識の変化、日々受ける差別でアイデンティティを喪失していった。そうした状況が続くなか、Léopold Sédar Senghor(セネガル)とAimé Césaire(マルティニーク)が文学運動(la Négritudeを起こし、フランス語圏カリブやフランス語圏アフリカに « Nous sommes noires et nous sommes fiers d'être noires. » と訴え(revendication de l'identité africane)、新しい考え方を作りだした。当時、彼らの行動は影響力が大きく、グアドループ人も同じような意識を持った。ところが、現在のグアドループ人は、自分たちの祖先がアフリカ人だということを完全に忘れてしまっているそうだ。このことをブラックアフリカンが、ブラックカリビアンのことをお菓子のBOUNTYに例えている。BOUNTYは内側はココナッツで、外側はチョコレートで出来ており、見た目は黒人だが、中身は白人という意味である。彼らの新しいアイデンティティを作りだす要因になったのは、Patrick Chamoiseau(マルティニーク)とRaphaël Confiant(マルティニーク)だった。それがセクション1で紹介した« Ni Européens, ni Africains, ni Asiatiques, nous nous proclamons Créoles. » という考え方la créolitéである。クレオールという言葉は多義語で、もともと旧植民地で生まれた白人のことを指す言葉だが、現在はカリブで生まれた人と本土で生まれた人を区別するために使われている。ここでのクレオールはそれらの意味ではなく、「たくさんのものが混ざり合って、1つのものになる」といった意味である。彼ら自身が混血であり、彼らが日常的に用いているクレオール語もフランス語やカリブの言語等が混ざり合ったものだ。

 私はこの話を現地の人々に聞いた後、海で会った学生たちに、グアドループ人のアイデンティティを知ることのできる言葉があるかと尋ねてみたところ、いくつか歌を教えてくれた。その中で、1番多くの学生から挙げられたAdmiral T « toucher l'horizon »という歌の歌詞を彼らの協力のもと訳した


Dépi tou piti mwen la mwen ka tchenbé fô
Dépi tout piti ka travay mwen ka fé éffô
Jis dé main an mwen trapé ko
Tou senpleman paské



小さいころから耐えてきた

小さいころから働いて努力してきた

明日までは続けるだろう

なぜならただ

Mwen anvi touché l'horizon

épi bout a dwet an mwen
Lontan mwen ja paré sak an

mwen ja en do an mwen
Fos an mwen kilti an mwen
Tout riches an mwen adan-y
Anvi nou rivé pli lwen,é sa menn si sa pran tan



指の先で地平線に触りたいから

ずっと準備ができている

かばんは背中にある

私の力や私の文化、私の財産全てが入っている

それとたとえ時間がかかろうと

もっと遠くに行きたいという欲望がその中に

Gason, mwen anvi alé lwen
E ayen pakay pé fréné mwen
Anpéché mwen trasé chimen an mwen
Détewminé, sé sa mwen yé
Lévé franjin an nou alé paské
Lasistana engendré loisivté a lespri
Sé pousa ké fo pa ou rété kouché ka domi
Donc an nou alé
Memm si chimen la pa fasil
Ké tini mone ké tini twou
Fow tin volonté



遠くに行きたい

私の生き方を妨げるものは何もない

決心したから それこそが私だと

立ちあがって 仲間たち さあ行こう

なぜなら

(フランスからの)援助が怠惰な心を作りだしている

だから、ごろごろ寝ていてはいけない 前に進もう

たとえその道がたやすくなくても

冒険には山がある 冒険には穴がある

意思表示が必要だ



Pousa sé vré ké yo pa fé ayen baw
Ké sé an ba sité la kéw ka passé ten-aw
Ké yo dégoutèw ki fé jod la

ou kwe aw ka fimé splif aw
Mé la pa pén attan si pon moun

pran courage aw a dé men
Pa janmen oublié ké sé vou ki ké gran démen
Siw ni anbision épi kompétans
Pani pon rézon po vou oa ay lwen

君を助けるものは何もないけど

君が過ごしている所は底の方だ

いま端にいなければならないことが嫌になるだろう

マリファナを吸ったり お酒を味ったりするけど

橋の下で人を待つことは苦痛ではない

両手で勇気をつかで 決して忘れないで

そうするのは君自身だ

もし能力や野心がなくても

遠くへ行かない理由はない



Fo kèw toujou rété optimis

e insisté,pewsisté e résisté

fo pa ka dézisté
Pé pa rété tou vi-aw asisté
Tou simpleman existé
Montré-y saké ou vo
E jis la ou pé ayyyy
An nou alé my friend fow kèw sav ka ou vé fréro
E ola ou vlé ay

いつも楽天的でなければならない

強調して 固執して 反抗して

諦めてはいけない

生活支援を一生受け続けることはできない

ただ生きているだけではいけない

君に何ができるか 何処まで行けるかを見せつけて

仲間たち さあ行こう

仲間をつくって どこに行くか知らなければならない




 この歌の意味をグアドループ人やフランス人に解説してもらい、私自身もグアドループ人のことをよく表している歌だという印象を受けた。多くのグアドループ人はグアドループで暮らしていることを気に入っているし、私がグアドループで出会った人の中には、「グアドループでは寝てても生きていける。」と言う人も多かったが、同時に外に出たいという気持ちを持っている。日本では、海外に行ってみたいが言葉の面で不安だという人がたくさんいるが、フランス語を話せない学生たちでもフランスに働きに行きたいと言っているし、フランスに限らず、良い仕事があればアメリカのマイアミや、ドミニカ、プエルトリコで暮らしたいという人もたくさんいる。

 またフランスからの援助で助かっている面が多いが、ずっとフランスに頼っていたらいけないという気持ちをこの歌から読み取ることもできるし、実際にグアドループ人たちと会話しているときも感じた。



 他に彼らが教えてくれた歌は、SOFTというアーティストの « Krim kont la Gwadloup » crime contre la Guadeloupe)や、Kassav'« Zouk la se sel medikaman nou ni » Zouk c'est la seule medicament nous nécessitons)等だった。

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グアドループでの生活

私はフランス人の家庭が多く、フランス人観光客向けの施設も多いSainte-Anneにあえて滞在することにした。グアドループでグアドループ人の家庭と、フランス本土から移り住んでいるフランス人の家庭に滞在し、両方の角度からグアドループを知りたいと思ったからだ。Sainte-Anneの外へ出ると極端にフランス人の数が少なく、中にはアラブ系やインド系の人々が多く集まる地域もあった。

主に午前中は、他のカリブ諸国から来た学生に語学やグアドループの歴史、グアドループとフランスの関係などを教える学校へ行き、グアドループについての情報を得た。午後は町を歩き回り、出会った人々に任せながら、マルシェの手伝いをしたり、子供たちの相手をしたり、マリンスポーツをしたり、話したりしながら過ごした。


学校では、ハイチ人が11人で1番多かった。フランス語を話し、ハイチのクレオール語はグアドループのクレオール語に似ているため、会話には何の問題もないのだが、文字が書けず、文章を読むことが出来なかった。

次に多かったのは、ドミニカ人で、彼らもクレオール語を話すのだが、彼らのクレオール語はグアドループのクレオール語とは異なるため、会話のためにフランス語を学んでいた。他にキューバ人やバルバドス人などがいたが、彼らも同様だった。このように色んな国からグアドループに移民が来ているが、近隣カリブ諸国の人々でさえ、言葉の問題を抱えている。


手伝いをさせてくれたのは、八百屋と観光客向けの洋服屋、海上バイクの事務所だ。どのお店も突然のお願いを快く了解してくれた。これらのお店で過ごした時間は長くはないが、様々な年齢層のグアドループ人と関わることができ、グアドループ人について1番よく理解することの出来た時間だったと思う。

◎八百屋では、あまりフランス語を話すことのできないグアドループ人男性と一緒にお店に立った。買いに来るのはグアドループ人だけでなく、フランス人もたくさん来ていた。買い物をする際に、フランス人がクレオール語を話していたことや、グアドループにサイクロンが近づいた時や有名アーティストがやってきた時に、お店に来る全ての客とそのことについて話していたことが印象に残っている。

◎洋服屋で働く男性もあまりフランス語を話さなかったが、クレオール語で日本のことをたくさん聞いてくれた。グアドループで日本人を見たのは初めてだそうだ。フランス本土から来たフランス人女性に対し、体型の近い女性を周りのお店から探しだし、服を着せて、「あなたがこの服を着たらこのようになるだろう。」と接客をしていて驚いた。また、売っている服のサイズが全体的に大きく、LサイズのTシャツであれば、一般的な体型の日本人女性が2人入ることのできるぐらいの大きさだった。

◎海上バイクの事務所では、フランス人男性が1人とグアドループ人が何人か働いていた。事務所の中の雰囲気は和やかで、外の広場で鳴り響くグアドループの音楽に合わせて踊っていることが多かった。また、来店客の髪型や服装について誉めるだけでなく、「前の方が良かったよ。」とアドバイスしたり、客ともフレンドリーな関係を築いているようだった。海上バイクは、お店のスタッフが運転するが決して安全第一ではなかった。


初めはグアドループに移り住んでいるフランス人の家でホームステイをした。周りに住んでいる家族もほとんどフランス人だった。マリンスポーツをする家族だったため、家の中にさまざまな器具が置いてあり、一緒にスキューバーダイビングやサーフィンもした。食事はクレオール料理もしばしば食べる機会があったが、主にパスタやサンドイッチなどを一緒に作って食べていた。この家族と一緒に過ごす最後の夜には、近所の人たちと食材の買い出しに行き、クスクスでソワレを開いてくれた。彼らは本当にグアドループでの生活を気に入っていたが、唯一息子の進学のことを考えるとフランス本土に戻るべきなのかもしれないと悩んでいると話していた。


その次に滞在したグアドループ人の家では、家族以外の人々も一緒に暮らしていた。Sainte-Anneからは遠く、周りに住んでいるのはグアドループ人の家族ばかりだが、車やバイクを複数所有しており、仕事や通学、買い物の度に町へ出ていた。前に一緒に過ごしていたフランス人の家庭とは違い、何時に起き、何時に食べるか等は決まっておらず、お昼ご飯を夕方食べることも多かった。家はフランス人の家のように大きくはなく、新しいものがたくさんあるわけではないが、私たち日本人が不自由なく暮らせるほどの設備はあった。テレビはあるが、ほとんど見ることはなく、家にいる間は常に誰かと話しているか歌ったり、踊ったりしている。中には日本という国があることを知らない人もいた。

  • お世話になったフランス人の家お世話になったフランス人の家
  • グアドループ人の家にてグアドループ人の家にて
  • 学校からの眺め学校からの眺め

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気付いた点・気になった点

グアドループに滞在しながら、気になったことを毎日書きとめるようにしていた。以下はその内容を箇条書きにし、説明を加えたものである。


フランスとEUの旗

Sainte-AnneGuadeloupeで特に観光客が多い町だ。その中心部にはVillage Artisanalという観光客向けの商店街があり、海のそばにクレオール料理を売っているお店がたくさん並んでいる。そこには、海に向けてフランスの国旗とEUの旗がたっており、まるで外からやってくる人たちにフランスの島だということを強調しているように感じた。グアドループで生活をしているあいだ、私にはフランスで生活しているような感覚ではなかったが、その旗が目に入ると、グアドループがフランスの一部であることを考えさせるきっかけになるものでもあった。


フランスの製品やフランスからの観光客

グアドループの経済を支えているのは主に観光業なのだが、観光客はほとんどがフランス本土から来ている。私もフランス本土に住む日本人だと勘違いされるほどで、他の国から来る人はよっぽど少ないのだろう。観光業はフランス人が支えているようなものである。

また、グアドループで作られた製品は少ない。ラム酒や砂糖、ジャムなどグアドループの製品もあるのだが、スーパーで売っているものの多くはフランス製か、ドミニカなど他のカリブ諸国の製品だった。お店の男性の話によると、グアドループで作られた上質のラム酒はフランスで売られるのだという。入ってくるものにしても、出ていくものにしても、フランス相手なのだ。グアドループで生活して、グアドループはフランスなしではやっていけないことを実感した。


進学と就職

フランス語とクレオール語の区別がつかないグアドループ人や、フランス人に対して良い感情を抱いていないグアドループ人でも、進学や就職のことを考えるときはフランス本土へ行くことを考えるそうだ。グアドループに大学は1つしかなく、大学へ進学する学生はフランスへ行くかその大学へ行くかを考える。そして、多くはフランスの大学へ進学するという。また、グアドループの失業率は高く、若者の就職率は低いため、高校生や大学生はフランスで仕事を見つけることも考えるそうだ。実際に、海で話した高校生3人は、フランスへ行くことを希望していると話していた。


裕福なベケ

ベケというのは、植民地時代に植民をしていた白人の子孫のことだ。グアドループの全人口の1パーセントに過ぎないベケが島のほとんどの土地を持ち、彼らは裕福で、贅沢な暮らしをしているという。フランス本土から引っ越してきたフランス人の家族も大きな庭とプールがある家に住んでいたり、お金をかけてマリンスポーツをしたりしているが、多くのグアドループ人の暮らしはそうではない。町に物乞いやストリートチルドレンがいるほどではないが、町の中心部でも今にも壊れそうな家に住んでいる人々がいるのを見ると、フランス人とグアドループ人の生活に大きな格差を感じる。


フランス人という自覚

私はグアドループの学生たちに、フランス人だという実感があるのかどうかを尋ねた。彼らは、「私たちはフランスのシステムの中で生きているんだ。」と答えた。この言葉からは、2つの意味を考えることができると思う。1つは「私たちはフランスのシステムの中で生きているから、実感がある。」という意味だ。もう1つはその反対の意味である。日本のシステムの中で生きているということは純日本人の私にとって当然のことだ。彼らが日々フランスのシステムの中で生きていることを感じていているのならば、私たちが外国へ移り住んだときの感覚と同じなのではないかと思う。


フランス人の警察官

グアドループで警察を見かけたことが何回かあったが、私が見かけた警察官はほとんどがフランス人だった。Sainte-Anneにおいての話であり、全員を見かけたわけではないのだが、私が疑問に感じたことの1つである。

また、グアドループ人はものすごいスピードで車を運転しているし、シートベルトをしない、かなり酔っ払った状態で運転している人もいる。大麻を堂々と吸うひとたちもかなり多く、厳しく取り締まっているというわけではなさそうだった。後からグアドループで暮らすフランス人に聞いたのだが、グアドループ人が過去のフランス人からの差別的扱いなどを挙げ、「あなたたちはまだ私たちにこうしろ、ああしろと言うのか!」などと言い出すことがあるのだという。

これを聞いて思い出したことがあった。セネガルのゴレ島へ言ったときに、セネガル人の男性がフランスとの歴史的出来事について、「許すことはできるが、忘れることはできない。」と言っていたことだ。グアドループ人もフランスの島で暮らしているが、フランスが彼らの先祖にしてきたことを忘れられないのかもしれない。


カリブ諸国やアフリカ諸国

私は多くの時間をSainte-Anneで過ごしていたため、どこかへ行ったついでによくお店を覗いていたが、フランスの国旗柄の雑貨や、フランスをモチーフにしたような雑貨は1度も見ていない。グアドループの島の形や、クレオール語でグアドループを表す « Gwada » という文字がプリントされたものが1番多く、他にジャマイカの国旗柄などの近隣諸国・諸島の雑貨もよく目にした。その理由の1つとして、観光客の多くがフランス本土から来ているということだろう。しかしそれだけではなく、アフリカ大陸の形をした雑貨、AFRICAという文字がプリントされたものや、アフリカ諸国のスポーツのユニフォームも売られていたのである。

また、大きめのタオルや、パレオにはカリブ海のマップがプリントされたものも多かった。グアドループを中心にプリントされたものではないが、持っている人も多かった。カリブ海の中のグアドループだというを感じさせる。雑貨屋で働くグアドループ人の男性は、胸の辺りを叩きながら、「カリブ諸国との結びつきは強いからだ。」と言った。


テレビを持っていない

ホームステイ先の近所の家や、現地で仲良くなった人たちの家を訪ねて、驚いたことはテレビがある家が少ないことだった。これは決して貧しいから、買う余裕がないからというわけではなく、車やパソコンを何も持っている家族がテレビを持っていなかったりするのだ。また、テレビがあるといっても、毎日テレビをつけるわけではなかった。そのため、フランス本土の出来事を知らない人は多かった。私が滞在している間に、フランスの原発が爆発したニュースがあり、私はそれをインターネットで知ったのだが、次の日訪れた学校でその話をすると、グアドループ人に限らず、本土から来たフランス人でさえもそのニュースを知らず、みんな驚いていた。フランスのニュースを私がみんなに伝えるというのは、とても不思議な感じがした。

また、サイクロンが来た日があったのだが、天気予報など見ない人が多いため、情報を持っている人たちが会う人たちに伝えていた。その日はどこへ行っても、「サイクロンが来るらしいよ。」という会話を耳にした。

私はグアドループに行っていたとき、野田内閣はどうなっているだろうか、原発は今どうなっているのだろうか、など日本の出来事が気になって、インターネットでニュースをチェックしていた。それは関心があるかどうかの問題だと思っている。フランス本土にグアドループに全く関心のない人々がたくさんいるのだと思うが、グアドループにもフランス国籍ながらフランス本土に全く関心のない人々がたくさんいるように感じた。


・フランス語とクレオール語

グアドループで話される言葉は前にも述べたようにフランス語だけではなく、観光地であるSainte-Anneでもクレオール語が飛び交っている。本土から来たフランス人の友人と一緒に買い物をしていて、「この子はフランス語しかわからないから、フランス語で話して。」という友人に対し、お店の人が「これクレオール語なの?フランス語で何て言うんだったっけ?」という場面に出くわしたことが何度かあった。

また、海で高校生3人と知り合って話したのだが、彼らもフランス語とクレオール語の区別がついていなかった。グアドループのクレオール語はフランス語にかなり似ているのが原因だろう。しかし、学校ではフランス語で授業が行われる。教育を受けている高校生でさえ、区別がつかなくなるのだ。

また、高校生たちが何と言っているのかわからなかったため、携帯電話に文章を打ってもらったのだが、スペルを相談しあったり、1人は最初から「話せるけど、あまり書けない。」と言っていたりした。


・フランス人とグアドループ人

フランス人とグアドループ人がうまくいっていないことは行く前から知っていたのだが、想像していたよりも状況はもっと露骨だった。フランス人の友人と一緒に過ごしているとき、友人が「近所に住んでいる人たちみんなでパーティを開いたり、とても仲良しだけど、裏に住んでる家族は名前も知らない。多分グアドループ人と思う。」と言っていたり、グアドループ人の友人と一緒に過ごしているとき、フランス人の親子がその友人の子供を車で送ってくれたのだが、「今外に出たら、あの親子に顔を合わせることになる。」と言っていたりする。フランス人と結婚したグアドループ人もおり、もちろん全員ではないのだが、フランス人の多いSainte-Anneでもこのような状態である。私の滞在中は、フランス人の家族と一緒に過ごしていれば、グアドループ人の家族と関わる機会がなく、グアドループ人の家族と一緒に過ごしていれば、フランス人の家族と関わる機会はなかった。


・本土から来たフランス人

フランス本土から移民してきたフランス人は、もちろんグアドループに何かしらの魅力や興味を感じてやってきているし、グアドループでの生活を楽しんでいるが、何十年も住み続ける人々は少ないそうだ。大体の人は5年ぐらいで帰っていくのだと、現地に住むフランス人女性が話してくれた。やはり、フランスの島で、フランスのシステムの中とはいえ、本土のフランス人にとって住みやすいわけではないようだ。


・フランス人とクレオール語

グアドループ人は普段クレオール語を話し、中にはフランス語を話せない人々もいるが、クレオール語が理解できなければ生活できないわけではない。看板や書類などはフランス語で書いてあるし、スーパーではフランスと同様のものが手に入るからだ。しかし、フランス人はグアドループで生活しているとクレオール語を理解するようになるのだという。実際に、クレオール語を教えてくれるフランス人や、グアドループ人とクレオール語で話しているフランス人もいた。食事や衣服についても同じように、最初は苦手でも、しばらくすると好んで選ぶようになるのだそうだ。移住してきたフランス人が最初は本土と同じような暮らしをしていても、フランス人とグアドループ人がうまくいっていなくても、フランス人がグアドループ人の生活に近づいていくようだ。


・フランス人同士の結婚・離婚・再婚

Sainte-Anneのあるフランス人のコミュニティーの中には30人ほどの本土から移住してきたフランス人がいたのだが、彼らはその30人ぐらいの中で結婚や再婚をしていた。「彼は私の前の旦那で、今は私の友達の旦那だ。」「あの子供たちは私が産んだが、彼らを今育てているのは私の友達と前の旦那だ。」という話をよく聞いて、

グアドループにいながら、フランス人の中で繰り返される複雑な人間関係にとても驚いた。


・フランス人、グアドループ人の仕事

上記のコミュニティー内のフランス人はグアドループでどんな仕事をしているのかというと、幼稚園の先生や、童話の劇をするようなパフォーマー、また英語やフランス語の先生やピアノ、ヴァイオリン、フルートなど楽器の先生などグアドループ人の子供を相手にする仕事をしている人、フランスから来る観光客向けの施設で働いている人が多かった。フランス人が経営しているお店は、グアドループ人のお店に比べ、上手く商品化されたものが多いが割高である。手づくりではなく、中国やインド、バングラデシュから輸入したものが中心である。レストランやブティックなどのお店、農業を経営している多くの人はグアドループ人だそうだ。


・自然はそのまま

グアドループの自然は海だけでなく、山も滝も川も絶壁もとても美しかった。中でも滝は、泳いだり、飛び込んだりすることもでき、人気のあるスポットでもあるが、そこにたどり着くまで険しい道を長い間歩き続けなければならない。1日に何百人も訪れるような滝でも、そこに行くための道はまるでジャングルのようで、人が通れるように作られた道というよりも、人がいっぱい通るからやっと道ができたという表現のほうが合っている。山道だが、泥だらけで、丸太や木のつるの上を進まなければならなかった。滝に限らず島の自然は手付かずで、決して安全な親しみやすい自然ではないが、滝で話したグアドループ人によれば、そうだからこそグアドループを愛しているのだそうだ。ふと思いついて行くこともあり、Tシャツと短パン、ビーチサンダルのようなとてもラフな格好で山を上ったり、滝へ行くこともしばしばあるのだという。コロンブスが発見する前から、ずっとグアドループ人が守り続けてきた自然であり、今のグアドループ人にとっても誇りであると彼は言った。

  • サーフィンをしていた海サーフィンをしていた海
  • 北端の絶壁北端の絶壁
  • 飛び込み放題の滝飛び込み放題の滝

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考察・まとめ

ここまでグアドループについて調べたことや、滞在中に気付いたことを述べてきた。最後にセクション1で述べた追究したい2つのことについての考察をし、研究をまとめたいと思う。


・グアドループではクレオール人だけでなく、アフリカ系、ヨーロッパ系、インド系、中国系移民など、多くの移民がグアドループで生きている。多種多様な人種の混合の中で、彼らはどのように社会を作り、共存しているのだろうか。

グアドループ人とフランス人の間には矛盾した心的問題があり、お互いに協力し、関わり合いながら暮らしているとは言い難い。人種に関係なく、良い関係を気付くことが1番良いのかもしれないが、ひとつの地域に同じ人種の人々が集まることで、他の人種の人々とある程度の距離を作っていることが、事態を落ち着かせているようにも感じる。また、人間関係において複雑な面はあるが、他の文化を受け入れることに関しては寛容である。多くのグアドループ人が着ているパレオはインドの文化の1つであるし、フランスの料理やアフリカの料理を普段から食べるグアドループ人も多い。日本の料理も同様である。クレオールという言葉に「たくさんのものが混ざり合って、1つのものになる」という意味があることを考えると、グアドループの文化はその寛容さが作りだしているように思える。グアドループ人の寛容な人柄は、一緒に過ごしていたらすぐ感じることができた。多くのグアドループ人と接する機会があったが寛容で、陽気で、楽天的な印象はずっと変わらなかった。彼らのそんな人柄でも受け入れることのできない感情があることを考えると、人種間の問題がそれほど難しい問題なのかと実感した。


・カリブで生まれ育った彼らのフランス国籍を持つフランス人らしさとは?

今回の研究で出会ったグアドループ人たちから、”ここがフランス人らしい”と感じるところは無かったように思う。

フランスの旗が目立つ所に立ち、フランスの商品がたくさん並び、フランス語の看板がたくさんあるため、フランスを意識しながら生活することにはなるが、フランス人だという自覚よりも、例えば将来の人生を考える時に初めからグアドループでの人生とフランスでの人生の選択肢を持っているように、フランスもあるという意識の方が強く感じた。また、グアドループ人の父とマルティニーク人の母を持つティエリー・アンリのように、フランス本土で活躍するフレンチカリビアンの存在が、フランスを意識させる大きな要因にもなっているように感じた。



グアドループに滞在している間、私はずっと親切な人々に囲まれていたように思う。私がここに書いたほとんどの内容は、現地で出会ったグアドループ人やフランス人との会話の中で得た情報だ。初めはグアドループやグアドループ人についての資料が少なく、なかなか情報を得ることができなかった。グアドループ人やグアドループで暮らす人々と積極的に接する機会を作るようにしたのだが、フランス語とクレオール語の区別のつかないグアドループ人がいることを想定しておらず、滞在し始めたころは、何度聞きかえしても彼らの話していることが理解できず不安になった。それでも、何度も何度も見かけては話しかけてくれるグアドループ人の人柄を好きになり、クレオール語を理解するコツを学ぶことにした。幸いにもそのコツを早く掴むことができたようで、すぐに”きっとフランス語の単語を言っているのだろう”とカンが働くようになった。グアドループ人の言葉に耳が慣れてきて、得られる情報の量も増えたし、更に彼らと深く関わることもできた。

グアドループ人と一緒に過ごす間、陽気な性格や楽天的な考え方をする明るい面ばかりを見ていたため、フランス人の友人から「グアドループ人からこんなひどいことを言われたことがある。」と話しを聞いても、私には全く想像がつかなかった。またグアドループ人のフランス人に対する感情は、時に都合のいいようにぶつけられることもあると知った。彼らのフランス人に対する行動や発言は矛盾していることも多い。過去の悲しい歴史だけでなく、日々の小さな衝突も積み重なり、現在のグアドループ人の感情を作っているようだ。植民地だったことや奴隷制があったこと、またその当時の話を詳しく聞いても、私には他の国の歴史として理解するだけで、グアドループ人が忘れることのできない感情には近づくことができなかったように感じている。しかし、グアドループでは毎日新しい発見や良い出会いがたくさんあった。今回、研究地域をグアドループとし、実際に滞在しながら研究することができ、本当に嬉しく思っている。

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参考

・朝日新聞 (2009/03/18)

・琉球新報(2007)

・Eloge de la créolité ‐ Patrick Chamoiseau, Raphaël Confiant, Jean Bernabé

・クレオール事始‐西成彦

・クレオール主義 - 今福龍太

・Les Antilles FrançaisEditions GRAND SUD

・Culture of Guadeloup - Caribbean Choice

・Petite Histoire De La Guadeloupe -  Ludien-René Abénon

・Zayann 2 fables de La Fontaine adaptées en créole guadeloupéen - Jean de La Fontaine

 

 

http://youtu.be/BC7qwqBaZs8 (Sainte-Anneのメイン通り)

http://youtu.be/FbzsjEkRa_8 (Grande-Terre絶壁)

http://youtu.be/b5d2bM0xCnA (Grande-Terre町並み)

http://youtu.be/pGydc0PjU3Q (la plage de Bois Jolanにて友人たちが制作したMV

 

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