西南学院History

100年以上の歴史を誇る西南学院には、
後世に伝えるべき歴史やストーリーがたくさんあります。
このコーナーでは西南学院にまつわる歴史を紹介していきます。

【第12回/学院と新聞】

創刊の熱き理想、今に継ぐ。学生新聞が刻む西南学院史。

西南学院は雑誌や新聞、そして最近ではインターネットやSNSを介して、学内外へ向けて情報を発信してきました。それぞれのメディアや伝えられた内容から、その時代の学院の様子が垣間見られますが、その始まりはどのようなものだったのでしょうか。

学友会による定期刊行誌

旧制の中学部と高等学部には、それぞれ学友会という組織がありました。数年ごとに発行されていた『西南学院一覧』の1921年2月版※1によれば、中学部と高等学部それぞれに設置された学友会は教職員と生徒で構成され、会長に院長、副会長に中学部長または高等部長が就き、各クラブから1名ずつ指名される部長と若干名の委員として生徒が参加するという構成になっていました。また、その目的を「品性を修養し身体を鍛錬し校風を振作し併せて相互の親睦を厚(あつ)うするにあり」とし、学院設立から間もない時期で、まだ規模が小さかった学校ならではの教職員、生徒をはじめとする学院を構成する人々の近さがうかがえます。

そして、この学友会の活動の一つが、中学部の『学友会雑誌』(第7号までは『校友会雑誌』)、高等学部の『西南』という定期刊行物の発行でした。これらの『学友会雑誌』や『西南』には、学内で行われた行事についての記事、文芸作品の投稿や各クラブの活動報告、教職員や生徒、卒業生の名簿、学友会の会計報告などが掲載されており、学校や在校生の活動の実態を知ることができました。

新聞事始め

1934年には、学友会が発行する機関誌とは別に、学生有志が毎月1回発行する「学生新聞」が創刊されます。学生新聞とは、いわゆる一般紙ではなく、広義での学校教育の一環としての「学校新聞」の一種で、特に高校や大学で学生が主体となり編集を行う新聞です。日本での最初の学生新聞は、1917年5月に創刊された慶應義塾大学の『三田新聞』でした。科目としての新聞製作の実習などから発展し、1920年代に大学や旧制高校で次々に創刊されました。

『西南学院新聞』創刊号は1934年3月10日に発行、D4タブ判、全4ページというもので、当時商科3年で、新聞創刊の計画を提議した太田治雄、同級の佐々木剛や村上寅次らが編集に携わりました。孔雀をあしらった「祝創刊」の口絵が付され、太田の「創刊の辞」、水町義夫院長と小野兵衛神学部教授の寄稿、新理事長就任や制度改革など学院についての記事を報じる一面に続いて、離日する宣教師ウィリアムソンからのメッセージ、部活動、文芸欄などと多岐にわたる内容となっています。そして、印刷費に充てるため、有料の広告欄が設けられました(写真1)。また、同時期の写真から、紙面の編集だけでなく、印刷や配布準備など新聞発行全般にわたる作業を学生が中心となって手がけていたことが分かります(写真2)。

1 『西南学院新聞』創刊号(一面)
『西南学院新聞』創刊号(一面)
創刊号の2面
創刊号の2、3、4面
創刊号の3面
創刊号の4面
創刊号の広告欄
創刊号の広告欄
創刊号の広告欄
2 1940年の卒業アルバムに見られる新聞部
1940年の卒業アルバムに見られる新聞部

創刊3周年記念となった第25号(1937年9月9日刊)には、設立メンバーの一人だった村上が寄稿し、創刊号発刊当時の様子を次のように振り返っています。「本部は便宜上玄南寮の私の部屋であった。ニュース記事を書いたのは主として太田、佐々木剛(現福岡大毎通信局で活動している)それに私。スポーツ欄は村田賢一郎(現門鉄勤務)が書いた。野球部の植木君も之(これ)を助けてくれたように覚えている。カット、広告図案は全部栗山義弘(現博多株式取引所勤務)がやった。その他、佐々木と栗山は広告の依頼を集めるのに人一倍奔走してくれた。編集、割ツケなどの知識に関しては太田以外の連中は全く駄目であったのでほとんど太田の指図通りにやった。私は当時帰米せんとしていた宣教師ウィリアムソン氏の決別文を貧しい力で翻訳したことを覚えている」。満を持して創刊する新聞への熱気に満ちた様子が伝わってくるようです(写真3)。高等学部卒業後、創刊号の主要な編集メンバーであった太田や佐々木は新聞記者となり、村上は九州帝国大学卒業後、西南学院で教鞭を取り、第6代学長、第13代院長を務めました(写真4)。

また、西南学院のスクールカラーは同紙で公募が行われ、多数の応募の中から、1934年に現在も引き続き使用されている「テレベルト・グリーン」に決定しました。この案は、美術研究会に所属し、村上の寄稿の中でもカットや広告図案を担当したと紹介されていた栗山によるものでした。この「テレベルト・グリーン」は、5月3日に審査会で採用されてすぐの5日に開催された高専リーグの福高戦で、硬式野球部のストッキングとして早速使用されました。現在も硬式野球部のユニフォームに「テレベルト・グリーン」が使われています。(写真5)。

3 『西南学院新聞』第25号(一面)
創刊当時を振り返る寄稿(第25号)
『西南学院新聞』第25号(一面)
4 新聞部(1938年2月)前列中央に小野兵衛(新聞部部長)、その右隣に村上寅次
新聞部(1938年2月)前列中央に小野兵衛(新聞部部長)、
その右隣に村上寅次
5 「テレベルト・グリーン」が使用された野球部ユニフォーム
「テレベルト・グリーン」が使用された野球部ユニフォーム

西南学院の「今」を伝える

戦後、旧制高等学部の『西南学院新聞』は、『西南学院大学新聞』に引き継がれましたが、学生紛争のあおりを受け、1971年7月10日付の刊行以降休刊となりました。一方でこの時期には、1960年4月に大学内のスポーツについて報じる『西南スポーツ』や1967年12月に『西南学院大学広報』が新たに創刊されます。その後、『西南学院大学広報』は1998年1月発行の123号をもって、冊子形式の季刊誌「SEINAN Spirit」に引き継がれ、最初の「SEINAN Spirit」(1998年6月)は「124号」として発行されました。また、かつての学友会機関誌や学生新聞での文芸欄も、中学校での『げんかい』や『若き西南』、高校での『西南』、『遙けきかな』といった文集、文芸雑誌に引き継がれています。

かつて、『西南学院新聞』創刊号の「創刊の辞」で語られた、「健全な言論機関を作って、学院と学生を、同窓生を、もっと緊密にしたい、学院独特の使命と理想を鮮(しっか)り社会に認識させたい、と之(こ)れは永年の学生の希望であった。」という抱負は、現在もさまざまなかたちで学院の「今」を伝えることによって実現されているといえるでしょう。

※1学院の沿革や規則、名簿などをまとめた冊子で、学院には1921、1922、1924、1925、1926、1928、1931、1935、1938、1940年に刊行された版が現存している。

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