100年以上の歴史を誇る西南学院には、
後世に伝えるべき歴史やストーリーがたくさんあります。
このコーナーでは西南学院にまつわる歴史を紹介していきます。
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【第11回/西南学院の原風景】
西南学院校歌の冒頭で「岸を洗う 紺碧の波/松の緑 青春の色」と歌われている松林のある海岸は、西南学院にひもづいた風景の一つといえます。1933年頃に制作された絵はがきは、遠景に松林が見える、昭和初期の百道海岸の風景に、水町義男第4代院長と創立者C.K.ドージャーの肖像写真、校歌が配されたデザインとなっています(写真1)。
1918年、西南学院は手狭になった大名町から西新へ移転します。当時の西新は、百道浜一帯に百道松原あるいは紅葉松原と呼ばれる松林が広がる土地でした。松林は、江戸時代初期、初代福岡藩主となった黒田長政の命によって植林された防風林に始まったもので、白い砂浜に青々とした松林が続く、「白砂青松」とうたわれる景勝地となりました。
その後、17世紀後半になると当時の紅葉八幡宮の西側の、唐津街道北側沿いに下級武士の宅地である「新屋敷」の開発が行われました。江戸中期、1777(安永6)年に制作された「福岡御城下絵図 梁橋ヨリ藤崎川ニ至ル」(写真2)では、紅葉八幡宮の周辺から、海岸に向けて松林がなおも広がっている様子が描かれています。
西南学院が現在のキャンパスとなる西新の最初の校地を購入したのは1917年。当時の様子を伝えるものとして、旧正門(現在の大学博物館前にある門)付近を南側から撮影した写真があります(写真3)。写真中央に立つC.K.ドージャーの後景には、いくつかの民家とうっそうと生い茂る松林が見えます。
また、西南学院のスクールカラーである「テレベルト・グリーン」は、1934年に当時の高等学部新聞部がスクールカラーを募集し、学生から多くの支持を得て選ばれた色ですが、校歌の一節にもある「松の緑・青春の色」が表現されています。
そして、高等学部校舎を背景に撮影された、1931年頃の学生の集合写真(写真4)のようにさまざまな機会に撮った写真で松林はしばしば登場しています。『西南学院 中学部便り No.11』のように口絵に描かれていたり(写真5)、校章の意匠の一部として用いられていたり(写真6)と、学院の風景として分かち難いものでした。
1917年頃に撮影された写真には、松林と白い砂浜の百道海岸を写したものもあります(写真7)。モノクロ写真ですが、評判に違わない「白砂青松」の海岸であったことが想像されます。かつての海岸線は、現在のよかトピア通りとほぼ一致しています。
百道海岸はバプテスマ(浸礼する型の洗礼)が行われる場でもありました。百道海岸でのバプテスマ式は、西南学院バプテスト教会が設立された1922年12月に、第一回目が行われています。1928年頃の冬に行われた百道海岸でのC.K.ドージャーによるバプテスマ式の写真は、目にしたことのある方も多いでしょう(写真8)。
松林同様、百道海岸もまた学生生活と馴染み深いものであったようで、百道海岸を散策する様子を撮った写真や集合写真は戦前から多く残されています。実際、1980年代に埋め立てが行われる以前、1955年撮影の航空写真(写真9)には構内中央にあるランキン・チャペルや旧1号館のすぐ上(北側)に海岸線が写り込んでいます。また、1937年頃の絵はがきには学生が自習する様子と百道海岸を散策する様子の写真がデザインされています。手紙を受け取った人は、勉強に励み、時には百道海岸を散歩する充実した学生生活に思いをはせたかもしれません(写真10)。
1930年頃に百道の海岸で撮影された写真(写真11)には、学生帽をかぶり、学ランに下駄履き姿の学生たちと一緒に、画面上方に海辺で遊ぶ親子の姿も写り込んでいます。海水浴は19世紀に健康法の一つとして流行し、日本にも江戸後期から明治初期に伝わりましたが、大正頃になるとレジャーの一つとして人気を博しました(写真12)。百道海水浴場は1918年7月7日に開場し、1970年代後半に水質悪化のために閉鎖となるまで、非常に人気の高い海水浴場でした。
元西南学院高等学校教諭の石原勝氏が1920年代の西新町の様子を描いた図(写真13)には、当時海水浴場にあった大桟橋や飛び込み台、水上飛行機が描かれており、活況が想像されます。また、大桟橋のそばに描かれているクジラは実際に設置されていた広告物です。多くの海水浴客がやって来るため、看板広告だけでなく、パラソルや遊具などを使った広告が数多く出されていました。