「怒り」は破滅をもたらすが、
人間の知恵は

そのエネルギーをプラスに
転換させることができる。
 人間が持つ「喜怒哀楽」という感情の中で、「怒り」は最も好ましくないものと捉えられがちです。では、「怒り」は表に出すべきではない感情なのでしょうか。
 旧約聖書の中に「神の怒り」について書かれた物語があります。例えば、皆さんも一度は耳にしたことがある「ノアの方舟」はその一つ。神の教えに背いた人間の堕落に神が怒り、大洪水でノアとその家族、動物を除いて世界を滅ぼそうとしました。また、北欧神話やスラブ神話、ギリシア・ローマ神話にも神の怒りに触れた話があります。このことから、神の怒りは人間の退廃に対する罰や報復、文明をリセットするための手段であり、人々が信仰心を取り戻すきっかけとなっています。
 中世になると、ヨーロッパの王侯貴族による領地を巡る勢力争いが頻発。怒りに任せるかのように終わりのない争いが繰り返され、多くの農民が命を落とすことになりました。この連鎖を断ち切るため、教会が話し合いによる紛争解決の道を開き、これが民主主義の始まりになったと言われています。
 近世では、聖職者や貴族など特権を持つ人たちの支配に対する民衆の怒りが「革命」という形で爆発。血筋と財力のある者が支配する政治から、市民による政治を取り戻すきっかけとなりました。
 そして、技術革新が進んだ19世紀から20世紀前半、資本家と労働者、宗主国と植民地という支配・被支配の関係に対して、支配された人々の怒りが増幅。労働者や貧困層に「社会が弱者を守るべきである」という社会主義思想が浸透し、資本主義体制に反発する声が高まったのです。そこで、国家は、海外進出を図る帝国主義を通じて人々の不満を国外にそらそうとしました。しかし、この戦略は逆に国家への不信感を募らせることになり、結果的に第一次世界大戦へと突入する遠因となりました。
 この図式は、第二次世界大戦後の世界にも受け継がれますが、経済を安定させるIMF、GATT(現WTO)などの国際機関の設立を通じて国際社会の協調を図っています。しかし、現在も人々の怒りは至るところで対立、紛争、戦争を引き起こしています。
 こうした歴史から分かるように、人間の怒りは破滅をもたらすとともに、民主主義運動など怒りの副産物ともいえるものを生み出してきました。つまり、怒りこそが歴史を突き動かす原動力となっているのです。
いかにして怒りを
コントロールするか。

学ぶべきは
経験値ではなく歴史。
 怒りは、歴史を動かしただけではありません。怒りによる争いは技術を進歩させるきっかけとなり、さらに社会を便利にするものとして転用されたことも事実です。現代社会に不可欠なインターネットもその開発にはペンタゴンの下部組織が関わっていました。もしも人類に「怒り」という概念がなかったら、未だに原始時代の生活だったかもしれません。そう考えると、怒りは必ずしも悪ではなく、人類の進化において必要なものと考えられます。
 重要なのは、いかに怒りをコントロールするかということです。19世紀にドイツ統一を実現した宰相ビスマルクは、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉を残しました。人間の数十年の経験値よりも、数千年の歴史から学ぶ方が得るものが多く、それは学生の皆さんなら、なおさらでしょう。ですから、歴史から学ぶために古典作品や歴史作品に触れてほしい。作品の中で自分の経験していないことを経験することで選択肢が増え、怒りに任せた最悪の選択をしない術を先人たちが教えてくれるはずです。ロシアとウクライナの戦争が始まった時、「第三次世界大戦が始まるかもしれない」と言われました。しかし、ウクライナのNATO加盟が当面見送られていることで、戦線の膠着状態は続きながらも最悪の事態を免れています。これは世界が歴史に学んだ証でしょう。
 生きていれば、いやでも応でも怒りの感情は生まれるものです。ぜひ古典作品を通して、怒りを良い方向へ昇華する術を学んでください。
新約聖書の中で示される
史的イエスの怒りの基準。
 私の研究分野である新約聖書では、信仰の対象となるキリストとは区別し、歴史的に実在した「史的イエス」が登場します。では、新約聖書の中で、史的イエス(以下イエス)と「怒り」についてどのように記されているのでしょうか。
 新約聖書では、イエスは「きょうだいに腹を立てる者は誰でも裁きを受ける」と語っています。つまり、怒る者は皆、人を殺すことと同じで、その裁きを受けると語り、殺人を禁じるモーセの十戒の教えよりもさらに厳しい教えを提示しています(マタイによる福音書5章21-22節)。
 加えて、この教えは自分自身の怒りにどう対処するかということに留まりません。彼は、実例を挙げて次のように続けます。「だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、きょうだいが自分に恨みを抱いていることをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って、きょうだいと仲直りをし、それから帰ってきて、供え物を献げなさい」(同23-24節)。これは、祭壇に捧げ物をして神との関係を整えようとしているその時、誰かが自分に対して恨みを抱いていること思い出したなら、その人と仲直りをしてから献げなさい。つまり、他者が自分に向ける怒りに対しても責任を持つように説いているのです。
 では、「どんな時でも絶対に怒るな」という教えなのでしょうか?そうではありません。実はイエス自身が怒った出来事についても新約聖書に記されています。イエスが安息日に片手が不自由な人を癒やそうとした際、“労働を禁ずる安息日に癒しを行うこと”をイエスに敵対する者たちが非難しました。これに対してイエスは安息日に人を癒やすことは許されるべきであると語り、彼らの頑なさに怒り、悲しんだといいます(マルコによる福音書3章5節)。
 またある時、イエスに触れてもらおうと人々が子どもの奴隷を連れてやってきたところ、弟子たちが彼らを追い返そうとしました。この時、イエスは小さくされている者こそ大切であると語り、激怒して弟子たちを叱りました(同10章14節)。
 そして、当時、貴族富裕層の利権の温床となっていた神殿で商売している人々を追い出し、強い怒りをもって批判し、祈りの場を回復しようとしました(同11章15-17節)。
怒りは、自己や他者の
権利を主張する意思表明。
 これらのエピソードから分かることは、怒りに関するイエスの発言と行動には、明確な基準があることです。他者を攻撃する怒りは人の尊厳を傷つけるものとして捉えられ、自ら怒りを抱いてはいけない。他者に怒りの感情を誘発することも避けなければならない。しかし、身体的、社会的、経済的な在り方によって人の尊厳が損なわれているならば、それを看過することなく断固として発言し、行動しなければならないということです。
 つまり、怒りは必ずしも悪いものではなく、自分の権利を主張する意思表明であると考えられます。
 ただし、大声で怒れば良いかというとそうではなく、「怒り方」が重要です。古代ギリシアの哲学者アリストテレスは、怒りには良い怒りと悪い怒りがあり、大事なのは中庸を保つことだと述べています(『ニコマコス倫理学』1108-09)。なぜなら、怒りはコミュニケーションの手段であり、原因となる問題を解決するためには、怒りをコントロールして適切に表現することが重要だからです。
 とはいえ、ちょうど良く怒ることは難しいことですよね。特に、日本は皆と違う意見を主張しにくい風潮があります。しかし、自分や周囲の人の尊厳が傷つけられている時は声を上げることで周囲や社会を変えることができるのです。アフロアメリカンの人種差別を訴える「Black Lives Matter」や性被害を告発する「#MeToo運動」はまさにそれでしょう。「いじめ問題」も、見て見ぬふりをせず、声を上げることが大切です。
 もしも、自分の怒りの対処に迷った時は、ぜひチャペルへ来てください。自分の感情とじっくり向き合うことで解決の糸口が見つかり、自己理解を深めることができるはずです。
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