演出技法を分析し、"今"を読み解く。
私の研究テーマの1つは、「音楽解釈学」です。楽器が奏でる音楽には歌詞がありませんが、楽曲の音楽的構造を今日の視点で読み解く中で、格差を解きほぐすヒントを得られることがあります。“クラシック音楽と社会のつながり”を考察し、娯楽を超えた価値をクラシック音楽に見出す研究を続けています。
この視点を映画にも広げた「映画学」も私の研究テーマです。映像やセリフ、音響、衣装など、映画を構成する要素に着目し、作品に込められた社会的テーマや作り手の思いを探るのは、これから社会に出ていく学生とさまざまな価値の在り方を考察する上で、格好の話題です。最近は宗教について考える機会が増え、いわゆる「カルト」との違いを探るため、カルト的言動が映画でどう演出されるかについても研究しています。
「カルト」という言葉には“恐ろしい”“異質な感じがするもの”という印象があります。1970年代から1980年代のカルト的宗教は、「ホラー映画」と近接するものとして扱われ、その恐怖表現も非常に分かりやすいものでした。例えば、『エクソシスト』(1973年)は、悪魔払いの場面で十字架や燭台、ロザリオなど祈りの道具が魔術的に使われ、ドアのきしむ音や神秘的な電子音など、直感的に恐怖を感じさせる演出がなされていました。
一方、近年の映画では、カルト的言動が大変ポップに身近な脅威として描かれています。例えば、『ミッドサマー』(2019年)では、野花やサスティナブルな暮らし、鳥のさえずりなど牧歌的な風景が広がり、聖書でイエスが平和や希望の典型として参照したのと同じ情景が散りばめられています。また、ネットフリックス制作の『セイレーンの誘惑』(2025年)では女性教祖が率いる富裕層のコミュニティーが登場し、信者が明るい色相のファッションや美容整形の機会を提供し、リラックス感のあるムード音楽など、キラキラした世界が広がります。
この2作品に共通するのは、カルト的宗教がカジュアルな仕草で若者に忍び寄り、取り込もうとしている点です。そして、この危うさは映画の中だけでなく、私たちの近くにも存在しています。例えば、若者の自己実現を利用する「やりがい搾取」や承認欲求を刺激するSNS依存がその例でしょう。
現代を生きる私たちは誰しも自信がなく、自分で「価値がある」と実感する前に、他人が「価値がある」と語るものであれば飛び付きやすいし、そのように誘導されてもいます。かけがえのない自分を見つめず、他者が示した基準に合わせ過ぎてしまう不安定さを持ち合わせているのです。
映画や音楽の作者による「解説」やコアなファンによる「考察」をネットや雑誌などで見かけます。しかし、その言葉通りに納得する必要はありません。自分自身が納得するまで、疑問や謎を温め続けてください。その姿勢が自分自身を理解し、ひいては自分の「価値」を見つけることにつながるはずです。
進んだきっかけは?
どんな学生でしたか?
栗原ゼミでは、主に「映画」における表現方法を読み解くための方法論を学びます。具体的には、カメラの動きや速度、画面の構図、サウンド、シーンの区切り方などの表現技法に注目し、それらが物語の展開や登場人物の心情をどのように描き出しているかを分析します。また、「物語の進行=時間」の流れに沿って表現方法が変化していく過程も考察。作品の中に並走するメインテーマと複数のサブテーマを見つけ出し、作り手の意図や作品をより深く理解する力を養います。
授業の方法は、さまざまな映画批評家の論文や書籍を読み、分析の手法や作品の主題の捉え方などを学ぶほか、1つの映画作品について海外主要5誌の映画批評を読み比べることもあります。社会評論紙『ガーディアン』、大衆紙『シカゴ・ポスト』など、媒体によって、あらすじのまとめ方や評価の視点、批評文のレトリックが異なるため、その違いを比較しながら、ボキャブラリーや映画批評の表現方法を考察します。
課題となる批評文はゼミ生が分担して要約し、各自の解釈を発表します。その後、意見交換を行いますが、その過程で互いの解釈の違いに戸惑いながら、各自が新しい視点を発見します。解釈には正解がありません。背景にある価値観や経験の違いを理解することで、他者の解釈を尊重し、多様な視点を養うことも、このゼミで大切にしている学びの1つです。
映画は「星5つ」や「泣ける!」などの分かりやすいあおり文句で宣伝されることが多く、作品を“消費する”傾向が強いように感じます。しかし、映画の見方の多様性に触れて深く“味わう”ことができ、そこで得られる気付きや内面の変化は、単なる映画鑑賞にとどまらず、自分の視点を広げる貴重な経験となるはずです。