
個人や企業の「欲求」に任せきりにすると、経済成長に悪影響を及ぼす可能性があります。経済成長を持続させるためには、「今の欲求」と「将来の欲求」のバランスが大切です。
- 経済学部国際経済学科
- 三宅 伸治教授
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大阪大学大学院経済学研究科博士課程修了。
研究分野は経済成長論、マクロ経済学。

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「今、欲しい」か、
「将来に備える」か。
「欲求」が経済成長を左右する。 -
「欲求」と聞くと、抑制した方が良いものという印象を持たれるかもしれません。確かに私たちの「食べたい」「買いたい」といった欲求を無制限に満たすことは問題を引き起こしそうです。
しかし、経済成長の観点からは、消費に対する欲求は単に抑制し貯蓄を増大させれば良いというものではなく、そのバランスが重要であると考えられています。例として「現在の消費への欲求」と「将来の消費への欲求」のバランスを考えます。
経済成長を「時間の経過とともに生産が増えていくこと」としましょう。生産が拡大すれば、多くの人の「商品を買いたい」「サービスを使いたい」という消費の欲求に応えることができます。また、経済が成長すると国全体の所得も増えるため、経済的に不利な立場にある人たちにより多くを援助することもできます。「より良い生活がしたい」という人々の要望に応えることができるため、経済成長を目標にすることは受け入れられるでしょう。
では経済成長、すなわち、将来の生産を増やすにはどうすれば良いでしょうか。まず、生産設備の増強が考えられます。新工場を建てる、機械設備を増設するなどの設備投資をすることです。また、生産技術の向上も考えられます。これには、研究施設の整備や研究者の確保が必要です。いずれにしても資金が必要です。
では、その資金はどこから調達するのでしょうか。主な方法は、銀行から借り入れをすること、企業が発行する新株を投資家に購入してもらうことです。どちらの方法も資金の出どころは、所得から消費を差し引いた貯蓄です。銀行が企業に貸し出すお金は私たちが銀行に預けたお金であり、新株の購入も消費しなかったものが充てられるのです。
以上から、経済成長には設備投資や研究開発が必要で、これには私たちの貯蓄行動が大きく影響することがわかります。 -
個人や企業の「欲求」を調整し、
社会の利益を守る政府の役割。 -
貯蓄については「現在の消費に対する欲求」と「将来の消費に対する欲求」のバランスを取ることが大切です。将来の豊かさを追求するためには、現在の消費を抑え貯蓄を増やすことが必要です。一方で、現在の消費を抑え過ぎると現在の経済的な満足度は低下してしまいます。多くの人が消費を抑制すれば、モノが売れなくなり現在の景気を悪化させてしまうかもしれません。そのため、ちょうど良いバランスで現在の消費欲求を満たすことが大切になります。
では、どうすれば両者のバランスが取れるでしょうか。経済成長論には、個人や企業の意志決定だけに任せてしまうと問題が生じ、経済成長を持続することが難しくなる場合があるという見方があります。例えば、温暖化のような環境問題は、消費者や企業が短期的な視点を優先した結果とも考えられます。
そこで、重要な役割を担うのが政府です。税や補助金などの適切な(という条件付きの)政府の介入は、現在と将来だけでなく、ほかのさまざまな欲求のバランスを取り、個人や企業よりも広い視野での利害調整を可能にするでしょう。例えば、道路や水道、IT基盤などのインフラ整備は、固定費用が大きく、企業の参入が限られ、企業間競争によるサービス向上が起こりにくいという課題があります。ここで政府が適切に主導できれば、将来にわたって社会全体の利益が増大する余地もあるでしょう。環境、教育、研究開発などの課題についても、適切な政府の介入を受けた個人や企業が欲求のバランスをうまく取ることにより、経済状態の改善が可能であると考えられています。
「欲求」は暮らしを良くし社会を発展させる原動力にもなれば、問題を招く要因になる可能性もあるため、欲求との上手な付き合い方が現在と未来の豊かさをつくる鍵といえるかもしれません。
技術進歩や国際情勢などと関連して社会の不確実性が高まり、試行錯誤せざるを得ない状況が増える一方で、これまで難しかったことができるようにもなってきた気がします。このような時代を生きていく皆さん自身の成長のため、失敗するかもしれないけれども学生時代にしかできないことにもバランス良く時間を割いてもらいたいと思います。失敗の経験とそこから身に付けた立ち直る強さは将来への大きな糧になるはずです。
裁判は、互いの権利を実現したいという「欲求」がぶつかり合う場です。公平・公正な判断には、主張の正当性を示す「根拠」が重要です。
- 法学部法律学科
- 濵﨑 録教授
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九州大学大学院法学府博士後期課程中途退学。
研究分野は民事訴訟法。

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正義の基準は人それぞれ。
だからこそ、裁判では
客観的な「証拠」がものをいう。 -
「欲求」という誰もが持っている感情について、私の専門である「民事訴訟法」の視点から考えてみたいと思います。
民事訴訟法とは、日常生活において生じる法的な争いを、裁判で解決するためのルールを定めた法律です。バスケットボールに「5人制」や「ボールを持って3歩以上歩いてはいけない」というルールがあるように、公平で公正な裁判を行うためにルールを設けられています。
民事訴訟法の対象となるのは、日常生活で起こる紛争です。例えば、1人暮らしの部屋での大家とのトラブルや物品購入に伴うトラブル、交通事故、相続問題、離婚など、暮らしのあらゆる場面に関わります。言い換えれば、民事訴訟法は誰もが関係する可能性がある法律といえます。
また、民事訴訟法の対象となる紛争は、当事者だけで解決できなかったものです。このとき、紛争の当事者は「自分の主張が正しい」という「欲求」を有しています。つまり、民事訴訟の裁判では、「自分の権利を実現したい」という互いの欲求がぶつかり合うのです。
しかし、どちらの言い分が正しいかを情動的に判断することは困難です。なぜなら、「正しさ」や「正義」の基準は人によって異なるからです。
そこで、法律は当事者が主張している権利が本当にあるか否かを裁判で判断するために、あらかじめ、「このような事実がそろえば、この権利があることを認める」と定めています。さらに、その事実を裁判所に認定してもらうには証拠を提示する必要があります。
つまり、「自分の主張が正しいことを認めてほしい」と欲求を通すには、その正しさを客観的に裏付ける証拠を示さなければならないのです。「どちらがより困っているか」「どちらがより損しているか」という判断ではなく、客観的な事実に基づいて判断する。これが公平・公正な裁判を成り立たせる基礎となっています。 -
社会の中で衝突する欲求を
公正に判断するために
必要なものとは。 -
「自分の主張が正しいと認めてほしい」と欲求を訴える場面は、裁判に限らず、日常生活の中でも多く見られます。このとき、「こちらの人の方がかわいそう」と、主観的な基準によって判断してしまう意見をSNSなどで目にします。もし、声が大きい人や権力を持つ人、多数の人が賛同する側の欲求が通るとすれば、不合理なことが正当化されたり、少数者の権利が侵害されたりする恐れがあるでしょう。
だからこそ、「自分の主張の正しさを認めてほしい」というお互いの感情的な欲求は、いったん脇に置き、その主張の正当性を裏付ける根拠を客観的に整理した上で判断することが、社会の中で公平・公正な結論を導くためには重要です。
また、検証可能性を残すという意味では、客観的に判断することが、将来、同じような問題が起こったときの参考になります。場当たり的な判断にならず、筋が通った解決への指針にもなります。
このように根拠を示しながら結論を導く力は、より良い社会を築くために必要な力であり、大学で養うべき力です。法学部の学びに限らず、ほかの学問でも十分に身に付けることができます。ぜひ、学生の皆さんには、「知りたい」「分かりたい」という欲求を私たち教員に思い切りぶつけてほしいと思います。私たちは、皆さんが知的好奇心を貪欲に追究することを願っています。そして、失敗や間違いを恐れず、多くのことにチャレンジしてください。失敗も間違いも、その経験自体が年輪となり、人生を豊かにします。せっかく大学で学んでいるのですから、すぐには答えが出ないような、学問的に難しい問いに果敢に取り組んでください。大学だからこそできることに、ぜひチャレンジしてほしいです。