My Experiences and Thoughts
Mr. David A. HORST San Diego State University to Seinan, 1992-93 September 18, 2009
Appreciation

My desire to go to Japan and study was motivated by love and patriotism. But the consequences of my education were not what I expected. You see, I had a plan. A very thought out plan. Detailed. I knew exactly what I wanted, how to get it and what the results were going to be for me and my country. And, unlike many people, I was able to do exactly what I planned. Except, things changed.

You see, I was angry at Japan. Japan was buying up American icons, American land, and making my American friends drive Hondas and Toyotas. My country needed help and everyone I knew was going the wrong way by studying about Spanish and Mexico or French and German. Wake up people, don't you see where the real problem lies? It is the JAPANESE! And, if you can't speak Japanese, think Japanese, understand Japanese, you cannot beat them! So, I took on the impossible task at age 20 to start to learn Japanese.

To tell the truth, I was terrible at it. Two years preparation prior to going to Seinan seemed meaningless. I arrived, and I couldn't tell which way was north. I was lost in this very different land. And, the little money I had was going quickly as the prices were bubble high. But, with the right sprit, focus and trying to succeed, even the weak can improve. 6 months into my stay, things began to click.

I studied the people and tried to understand how they (young and older) thought, act, why they did what they did. And how could I use this to help my country.

I learned a lot, but was blinded by my goal. I criticized Seinan and another Japanese exchange program for not doing enough to educate me. For not immersing me more. For not making my time more productive and getting in with the "real" Japanese rather than the protected environment of the exchange arena. 2 years after starting at Seinan, I was still really angry.

Upon my graduation from SDSU, I took a job with a Japanese company in order to learn more about how they did business. What was the formula and how could I use it to my advantage? I went to grad school to learn more about the Japanese in my international MBA program. I landed a dream job out of grad school with probably the most traditional, most truly "American" company that existed. I had succeeded. Now, June 1996 -- 6 years after the start of my expedition, I had made it. I was going to make a difference and turn the tables on Japan!

In the interim of obtaining this goal that I had embraced my entire adult life, I found something. I realized that it was not the Japanese people that were buying up America and changing the culture. Americans wanted to sell those things. Americans wanted to buy those cars. There was no gun to anyone's head forcing this to happen.

I learned that for the most part, the Japanese people are very kind and generous. I looked at what Seinan did for me. Koga-san, Fujimaru-san and others that went out of their way, sacrificed their own personal time, to help me to achieve my goal. I recall that I was given the opportunity to join one real Japanese class. But out of my own fear, I declined. If I joined as a regular student, I would have been frustrated, learned less, and probably affected the ability for the other students to succeed. Pretty selfish. I recall people I didn't know helping me. One in particular allowed me to "teach" English to him and his kids. In return, he gave me a lot of cash, paid for my train fare, and provided me with food and drink. Above that, he even gave me money for a short vacation to Pusan that I took. I could go on and on about different stories of people doing things to help me with no expectation for repayment. But, in my selfishness of youth, I did not recognize that.

After starting my new job, the Asia Crisis hit. The Japanese bubble had burst and economically taking down all of Asia with it. My job was to market and sell expensive machinery to the Japanese and create a profit to bring back to the US. We sold 6 tractors that whole year. And, I no longer had that job. I switched to another -- even bigger American Iconic company. I helped to develop a key product based on my experiences and connections in Japan. And it was a huge hit in the US. My desire was to go work in the international division and bring the Japanese yen to the US. But again, there was not a need for this skill set at this American company. Finally, I tried a third, smaller US company. Using my expansive knowledge of efficient production and process, I was going to turn this struggling company around. But, due to the Mexican labor and the cultural difference between me and them, I was pushing a boulder up hill. And getting nowhere.

Ironically, it wasn't until I got my second job at a Japanese company that I found my spot. My mentor was a Japanese expat from Tokyo. He took me under his wing and really educated me. I could understand him. I could work with him. I could communicate in Japanese and English with him. I could help him to succeed too.

What happened to my plan? It worked out perfectly. But, in America, the only one that cares and can appreciate the Japanese culture, language and business practice is a Japanese company. How ironic. As it turns out, after the bubble burst, the Japan economy shriveled up. The Icons were sold back to the Americans (at a loss to the Japanese), the American cars got better, and the land would later be sold to the Chinese.

I realized some years later that if it were not for the many, many kind Japanese people that I met, I would not have had the good fortune of accomplishing what I have so far, meet my wonderful and supportive wife (and resulting 3 wonderful children) and developed into the person that I have become. I am no longer angry at Japan. I am appreciative of Japan and all it has selflessly given me.

Ms. Mie Takayama Seinan to San Diego State University, 1999-2000 May 7, 2003
「国土交通省で航空管制官に携わること」

みなさん、航空管制官って聞いたことありますか? 採用試験に合格し、この4月から6ヶ月間ある研修のまだ1ヶ月しか経っていませんが、少しだけどんな仕事なのかご紹介します。

西南は福岡空港に近いので一度は飛んでいる飛行機をご覧になったことがあると思います。乗っていると全く気づきませんが、地上から空の安全を守るというのが管制官の仕事です。空港で背の高い建物、管制塔からパイロットに離陸許可や着陸許可を出したりするのもこの仕事の一つです。 パイロットとの交信は無線で英語で行われます。出発から到着まで、安全にそして確実に飛行機が飛べるように常に管制官が見守っています。まだ採用から1ヶ月で研修中の身ですが、この仕事のやりがいとともに責任の重さもとても感じています。

私はいつも目に見えるところに、留学中に友人と撮った1枚の写真を置いています。留学中はよく勉強し、勉強のみならず多くの人と出会い、困難なことも乗り切り、新しい経験をし、私の人生の中でとても貴重で充実した日々を過ごしました。その写真をみるといつも私にエネルギーを与えてくれるのです。卒業していったんは就職したもののなりたい気持ちを諦めきれず、働きながらの受験勉強は難しかったですが、そのお陰でなんとか乗り切ることができました。これまで支えてくれた人に感謝の心を忘れずに、努力をすれば必ず夢は実現すると思います。これからも留学中に養われた精神を忘れず訓練を乗り切り配属先でも頑張りたいと思います。

Mr. Tsunetaka OHSETO Seinan to Baylor University, 1983-84 Singapore;
August 14, 2002
 83-84年派遣留学生の大施戸です。先日のSIFA フォーラムでは大変お世話になりました。 昨夕 短い(?)休みを終えシンガポールへ戻りました。 今回参加できたのも予めスケジュールをお知らせ頂いたのと休みにあわせやすいタイミングだったからだと感謝しております。

 当日 フォーラム・懇親会で色々と考えを述べさせて頂きました。 その時はプライベートの頭にスイッチ切替ができないままでしたので、十分伝えきれなかったかと思います。 その後 改めて感じたところをもう一度整理しました。

  1) 派遣留学生(特にフォーラムに出席していたメンバー)jは 選考・派遣された事が人生の節目となっており、それがその後 本人の強い自信につながっている。

 2) とは言え 彼ら・彼女らの貴重な経験が大学へ最大限にFeedback されたかについては?。 個々の財産をいかにみんなに還元するか、工夫が必要。
  → 私も派遣前は 派遣留学生・別科生は特別な関係がない限り、「別世界の 人」のイメージがあった。「語学の西南」にあこがれ、入学したにかかわらずきっかけができないまま卒業した人たちも多いのではないだろうか。

 3) 大学は「教育を行う場」であり、それを実践する為に「交換留学」「国際交流」が手段としてあると考えます。 企業的な見方では 投資を行い、キッチリ回収、利益を上げる事は その使命として当然の事です。 70年代からこのような画期的な国際交流プログラムを創設され、派遣を行っているのだから(投資)、もう少し貪欲に回収(在校生のモラルアップ・対外的なPR)、利益計上(Social Status Up)に励まれてもけして悪い事とは思いません。

 4) 個人的には「よくもあんな成績」で選考され、10ヶ月の留学生活を経て、卒業後は海外と向き合う仕事に従事できた事は ただただ幸運で恵まれていると思っています。 まるで田舎の高校が甲子園に出場したようなものです。今まで留学生活・その後の社会生活で身につけてきたものはできる限り還元したく思います。 留学生も教育関係を始め、各方面で活躍しています。集まらなくても後輩に対して、刺激を与え「化ける」きっかけ作りにお役に 立てたらと思います。 あの場で申したのは 大学は手取り・足取り教えるということでなく、学生に目覚めさせるきっかけを提供して欲しいという意味です。

 西南の学生は なかなかの素材だと思いますので ちょっとした工夫で「優 秀な人材」を続々と輩出する事はできると考えます。

Mr. Shinichiro Yokomizo Seinan to San Diego State University, 1983-84 April 6, 2002
 西南学院大学に進学した当時の私は、「なんとなく国際人になりたい」という程度の、漠 然とした気持ちで毎日を過ごしていまし た。大学2年生のとき、英会話の先生の紹介で、福岡市内の様々な大学への留学生とサッカ ーをするようになりました。世界各地か ら集まって来た彼らと、日本語又は英語でコミュニケートしながらサッカーをすることは、 私にとって全く未経験の新しい世界でし た(サッカーは下手でしたので、ゴールキーパーしかさせてもらえませんでしたが)。彼ら との接触を通して「自分も留学したい」 という気持ちが高まり、アメリカ合衆国の大学へ西南大から交換留学生として派遣されるこ とが私の大きな目標になりました。努力 の甲斐あって、1983−84年の間、カリフォルニアのサンディエゴ州立大学への交換留 学が実現しました。

 サンディエゴでの生活は、その後の私の人生に大きな影響を与えるターニング・ポイント でした。私が交換留学の間に学んだこと は数限りないのですが、5つ程それをご紹介したいと思います。

 まずは、アメリカに留学し たのだから当たり前かもしれませんが、 『英語運用力の向上』です。留学が始まったころ、私の英語でのコミュニケーション能力 は、現在から思うと、限りなくゼロに近 かったと思います。英語ネイティブの言っていることがまったく理解できなかったのです。 そんな状態だったのですが、日本を離れ る前に自分に課した『自分との約束』だけは守っていました。その約束とは『留学中は一度 も日本語を見ない、聞かない、使わな い』というものでした。この約束を守ることはかなり大変でした。毎日の日記は英語で書い ていましたし、同時期に留学なさってい た日本人の方々には『私とは英語で話していただけませんか?』とお願いしていました。ま た、家族への手紙も英語で書いていまし た(後で聞いた話ですが、その手紙は、弟が高校の英語の先生に訳してもらい、家族の前で 読み上げていたそうです)。もちろん、 日本語の本や歌も、自分の周りには置かないようにしました。こんなことを必死で続けてい たのにもかかわらず、1ヶ月、2ヶ月 経っても、相変わらず英語ネイティブの言っていることは理解困難で、寮で同室だったルー ムメイトからも『○○○○!』などと、 罵声を浴びせられたりもしました(そのときはショックでしたが、今思うと、狭い部屋の中 に意思疎通のできない図体の大きい異国 人がいつもいるのですから、彼のフラストレーションも頂点に達していたのでしょう)。そ んな状況でも『自分との約束の遂行』に 意地をはって、留学生活を続けていました。しかし、その時は突然やってきました。留学を 始めてから3ヶ月ほど経ったある日、な ぜか英語ネイティブの言っていることが大体分かるようになったのです。その日からは、う れしいことに、コミュニケーション上の 支障が消え去っていきました。英語で夢も見始めました。まさに、DRASTIC CHANGE でし た。その日からの留学生活は、それまでに も増して、充実したものになっていきました。留学生活が終わるころには、なんとか問題な くコミュニケートできる英語運用力が身 についていたので、西南大卒業後にハワイ大学大学院へ進学することもできました。現在で も「あの時『自分との約束』を守ってよ かった」と思っています。

 次は「感謝の心」です。上述のDRASTIC CHANGEによって、留学生活がより充実したものに なったころからですが、私自身の心に少 しずつ余裕が出てきたこともあり、自分自身の過去・現在・将来について(もちろん英語 で)考えるようになりました。そんな中、 いつも心に生じてくるのは「自分はなんて恵まれているんだろう。派遣してくださった西南 に、サポートしてくださった先生方に、 そして応援してくれる家族に、感謝の気持ちを伝えたい。そして、いつの日かその恩返しが したい」という気持ちでした。留学前の 「自分の人生は自分で切り開いていくもので、今までもそうだったし、これからもそうなん だ」というかなり気負った気持ちが、留 学中に「確かに自分の人生に責任を持つのは自分だけれども、他の方々に色々な形で支えら れているのも事実。自分も他の方々のお 役に立てるような存在でありたい。」という気持ちに変化しました。その気持ちは現在も変 わっていませんし、これからも大切にし たいと思っています。

 3つ目は「笑顔」です。私が留学したサンディエゴで、一番印象的だったのが、人々の笑 顔でした。早速真似してみたのですが、 行きかう人同士が笑顔で挨拶を交わすことが、こんなにも心地よいのかという、ちょっとし たカルチャー・ショックでした。この笑 顔の習慣は現在も続いています(どんな笑顔かご興味のある方 は、

広島大学 (http://www.hiroshima-u.ac.jp/index-j.html)
の研究者総覧
[English ver.: Hiroshima University]
で検索なさってください)。

 4つ目は「好奇心」です。留学前も色々なことにチャレンジしていたつもりだったのです が、色々なケースで尻込みしたり躊躇し たりすることも多かったように思います。留学が始まってすぐのころ、1982−83年の 間サンディエゴ州立大学から西南大への 留学生だった Mr. James Wagner から言われてとても印象的だったのが、「物事や人につい て、いい悪い・好き嫌いなどを判断する のは、まず自分が実際に体験してみてからにしたらどうだ?」という言葉でした。留学中は 「ちょっとばかばかしいかもしれないな あ」というようなことにも、進んでチャレンジするように心がけました。この心がけも現在 続行中です。好奇心を持ち続けているこ とは、毎日の新しい発見につながり、そのことが生活を豊かにしてくれると考えています。

 最後5つ目は「多文化共生能力」です。留学期間中、私が没頭したことにひとつに、スペ イン語の学習があります(母がペルー生 まれの日系人だったというのが、その大きな動機です)。八ケ月程のスペイン語を学習した 春休みに、メキシコに単身十日程旅行し ました。陽気なメキシカンとのコミュニケーションを通して、日本にいる間、又アメリカ滞 在時には考えもつかなかった物の見方を 学ぶことが出来ました。その体験から「日本に生まれ育った私は、自然に日本人の物の見方 を持っており、その枠組みの中で考え、 行動している」と考えるようになりました。そして、「このことに気付くことができたの は、スペイン語そして英語という言語を 使って現地の方々とコミュニケートしたからだろう。そのような機会を人々に提供する外国 語教師の仕事ってなんて魅力的なんだろ う。」という気持ちが強くなり、帰国後、日本語教師を目指すようになりました。西南大卒 業後は、まさに「日本語教育まっしぐ ら」で、現在に至っています。

 日本語教育の分野では最近になって、日本語教師の資質が議論されることが多くなってき ています。その中で、日本語教師にとっ て必要不可欠な資質として挙げられることが多いのが、「多文化共生能力」です。様々な国 からやってくる日本語学習者は、それぞ れの文化・社会で育まれた「ものの見方・価値観」を有しています。日本語の教室は、まさ にこの多文化が接触する場であり、教 師・学習者それぞれの価値観が揺さぶられる状況なのです。そんな中、授業をしていく日本 語教師には、「自分も含めた一人一人が ユニークで、変わり得る存在なんだ」という心構えを持ち続けることが求められます。金子 みすゞさんの有名な詩の「みんなちがっ て、みんないい」という気持ちが必要なのです。サンディエゴへの留学中に私が体験した 「異質の人々との出会い」や「自己内省」 は、この心構えや気持ちの維持に役立っていると思います。

 長くなりましたが、留学中に私が体験したことは、何物にも変えがたい、私の人生に大き な影響を与えてくれた「宝物」です。こ れからも「元交換留学生」であることを誇りにしながら、毎日の生活をエンジョイしていき たいと思います。

Ms. Yoshiko Kobayashi Seinan to San Diego State University, 1998-99 Amman JORDAN;
February 4, 2002
1. 外務省外郭団体、国際交流サービス協会の実施する「派遣員試験」に合格し、働き始めて4ヶ月しかたってないにもかかわらず旅行会社をやめ、合格通知電話口で「ジョルダンです」と言われて、そのまま赴任して在ジョルダン日本大使館で働き出してから約1年と4ヶ月が過ぎました。
 「ジョルダン」とは外務省の言い方で、通常「ヨルダン」と呼ばれる中東の一王国です。西南での留学で身に付けた英語力を生かして欧米の英語圏の国での勤務を希望していたので最初は驚きました。もちろんアラビア語も知るわけないし、まさか自分が中東に行こうとは全く想像していませんでした。

2. 赴任してから最初はやはりイスラムの国、ということで男性社会なんだろうなあと思い,町で歩くたびに彼らの自分に向かう視線に不快感を感じていましたが、今ではもうすっかり慣れて,普通にスカートをはくまでなりました。メイド等でフィリピン人や出稼ぎ中国人はいるので、彼らにすれば、こぎれいな格好をしているアジア人の若い女性が珍しかったのかもしれません。
 しかしヨルダンは国際化が進んでいて、首都アンマンのうち英語を話す人の割合は日本など目ではなく、普通に教育を受けている人ならば結構上手に英語を話すのです。国語はアラビア語なのですが、いまだに英語しかわからない私でさえ生活で苦労したことはありません。彼らの目がヨーロッパに向いているせいでしょう、どんどん知識や物を吸収していくパワーは何十年か前の日本のようです。一応発展途上国ですが、首都にいる限りは特に不自由しません。ただし娯楽と日本食をのぞいては。

3. 最近特に感じるのは、日本には中東に関してはごく一部、しかも欧米寄りの視点中心の国際情報しか入ってきていないということです。確かに距離的にも遠いところではありますが、それ以上にこれまでいかに、私自身も含めて、日本が「第三世界」として完全なる別社会としてしかアラブ圏を見てこなかったのではないか、ということです。アメリカの起こした「アフガン攻撃」にもアメリカに追随する形での情報・知識しか日本人には無いし、それくらいの関心しかいまだに抱かない日本人の「欧米好き」がはっきりしています。

4. アメリカは確かに巨大な国ですばらしいところもたくさんあるのですが、ことアフガニ スタンと中東パレスチナ情勢を見ると、アメリカの二重基準を嫌というほど見せつけられます。アフガニスタンでは即軍事行動を起こし、自国を攻撃したとされるテロリスト、ラディン氏をかくまったとされるアルカイダを殲滅したのに、元々はパレスチナ人の居住区だった西岸自治区を国際法に違反して侵攻しているイスラエルには何も言わない。クウェートがイラクに侵攻されたときには即軍事行動を起こしたのに、この違いは何だろうと日本人の私でも思います。
 ここ隣の国、ヨルダンの新聞にもほぼ毎日のように西岸で今日何人が殺された、と無残な写真入の記事が掲載されます。アメリカは自国に都合の悪いときには叩くのです。国際ネットワーク、CNNの報道も断然アメリカの視点がほとんどなのです。アメリカは大好きなのに、それでも大嫌いな要素があっ て、今の私の感情は複雑です。

5. 帰国直後はかなりアメリカナイズされ、「将来絶対アメリカに戻ろう!」と固く決心までしていた私ですが、このように欧米先進国の視点を離れた場所で物事を見ると違うものも見えてくるのです。残りの任期はあと8ヶ月程度で、任期が終わって親しい友人のいるアメリカに遊びに行くつもりです。しかし自分がその時にどういう反応をするのか少々怖い面もあります。アメリカより帰国された方の中には親米家の方が多いでしょうが、ちょっとたまには違う視点から違う世界にいる人々のことをも考えてみてはいかがでしょうか。

6. ヨルダンは東と西の中継点としていろいろ興味深い遺跡等あります。「インディ・ジョーンズ最後の聖戦」のラストシーンで使われたぺトラ遺跡、「アラビアのロレンス」で有名なアカバ、ワディラム地帯等があります。気軽に車でもよく行く隣国シリアにはパルミラ遺跡、ダマスカスのスーク等歴史的にも貴重な文化遺産が沢山あります。西南ではこのあたりを専攻する人はほとんどいないと思いますが、少なくとも中東に興味を持つことで新しい知識や視点を得られることもあるのでは、と感じます。

Ms. Tsuneko Ryu (Oga) Seinan to University of Rhode Island, 1974-75 Mayaguez, Puerto Rico, USA;
August 28, 2001
7月一時帰国の折りには、SIFAのメンバーの方々とお会いする機会が与えられ、とても楽しいひとときを過ごさせていただき、本当にありがとうございました。

***‘第2のふるさと'
さて 私の方は 一ヶ月間の休暇もあっという間に終わってしまい、7月末には University of Puerto Rico(UPR)に戻って参りました。こちらでの生活も3年目に入り、日本から戻ってくると、もうなつかしい‘我が街!'の香りで、今ではもう‘第2のふるさと'の感があります。ここはカリブ海に位置しており、熱帯性気候でほとんど一年中夏ですが、今年の日本の酷暑に比べたら、こちらの方がいくらかしのぎ易い感じがします。

***‘卒論を仕上げるまでは長く険しい道'
ところで、ここ数ヶ月間取り組んでいたペーパーの方は、どうにか最終日(8/20)に駆け込みセーフ!で、 ホッと一息というところです。このペーパーには相当手こずって、これでやっと、今までずーっと何をやってても 胸の奥底につかえていた‘重し'がとれたような気持ちです。でも‘一難去ってまた一難'で、このペーパーのあとはもっと大きな論文が控えていて、前途多難(^^;)。 卒論を仕上げるまでは長く険しい道になりそうです。‘アメリカ大学院留学はまさに血を吐かんばかり'の大変さだと以前に聞いたことがありましたが、ましてや 私の場合は、年齢が年齢ですので(77年卒)、その苦労たるや、みなさんの想像に難くないことでしょう。まさに‘老骨に鞭打つ'日々です。

***‘3年目の奨学金:日本語教育のSpecial Grant;英語教育のTA'
8/20(月)に、UPRでは (他の大学よりちょっと早く)もう新学期がはじまりました。学期のはじめの1週間はいつも慌ただしいのですが、今学期は特に、今までとはちょっと環境がかわるということもあって、いろんな手続き関係でバタバタでした。

実は、今まで私を派遣してくれていた団体‘北米教育交流委員会(東京オフィス)'、‘Exchange:Japan(米国オフィス in Pennsylvania)' [http://www.pat.hi-ho.ne.jp/hokubei/(よかったら覗いてみて下さい)] と当大学(UPR)との当初の2年間の契約が切れ、今年度(3年目)は 全く私個人と大学との契約になりました。でも、どうにか無事3年目の奨学金もおり、生き延びれそうです。

ということで、今年度は私の身分や奨学金も今までとはちょっと変わって、日本語のほかに英語も教えることになりました。 日本語教師としては今まで通り教職員扱いで (専用パソコン付)個室のオフィスが与えられ、プラス‘Special Grant'が支給されます。一方、自分の専門の英語(教育)の方では TA(Teaching Assistant)です。 TAというのは 院生の身分で 授業を教えている人たちのことで、GPA(Grade Point Average 学業成績)などのいくつかの条件がありますが、授業料免除の他、月々一定額の Teaching Assistanshipが支給されます。

UPRは大きな州立大学ですが、地域柄、日本人が私以外に一人もいないということで、日本語の方は完全に私一人の独壇場で、誰にも何も言われることもなく、結構気ままにやってきましたが、英語の方はそれとは全然勝手が違って、他の先生方との足並みや定例ミーティングや勉強会など、いろいろと細かい決まりごとなどもあり、慣れるまではちょっと大変です。 英語はずっと日本では教えてきましたが(ECC)、こちらでは当然終始英語だし、学生たちがどれだけ私の‘日本語訛りの英語'を理解してくれているのか等、はじめてのことばかりで、まだちょっと緊張気味です。

***‘日本語クラスは毎年すごい人気:教師冥利に尽きる'
日本語クラスの方は、2-5年生まで学年もバラバラ。 女子が少なく3人だけで、男子学生(特に工学部)が圧倒的に多いです(毎年)。日本語クラスに1年生が一人もいないのは、この日本語クラスが毎年すごい人気で、先学期の Pre-register(事前履修申込み)の時点で、すぐに定員に達してしまい、1年生が入学した時点(8月)では もう空きがなくなってしまっているからです。毎年 Pre-registerの時期(4月)には、満杯で入れなかった学生が何人も諦めきれず私のオフィスに泣きついてくるほどで、ほんとに 教師冥利に尽きるとはこういうことなんでしょうか。ありがたいことです。

でもこれは 私の努力というより 10年前から(上記団体 Exchange:Japanが働きかけて)この大学ではじまった、この日本語プログラムの先輩たち(過去に7名:みんな20代!)の尽力によるところが大きいと思います。みんな優秀で素晴らしい方たちばかりだったようで、その先人達の尽力のおかげ、またもちろんそれ以外にも、日本のアニメ人気や、車や電化製品などのテクノロジー面や武道などに代表されるその特異な文化等々、こちらの人たちは日本人および日本に対して憧れにも似た印象を抱いているようです。

***‘英語科のTA:ますます世界が広がっていく'
英語科のTAになれたということは、お金以外の面でもよかったと思っています。もしTAの仕事がなく、日本語の授業だけ担当してたとすれば、今学期は (自分自身が受けてる授業というのが全くないから)日常と言えば、けっこう孤独な研究と唯一日本語のクラスに教えに行くだけで、人との関わりが極端に少なくなっていったんじゃないかしら。 院の友人たちとも授業を一緒にとっていればこそ、必ず授業で会うし、お互い ‘同じ穴のムジナ'で‘苦労を共に担う'ことも多い。今学期、英語科のTAは全部で10名なんですけど、彼らとは今まで一緒に授業とったりしてたので全員顔見知りの仲間で、彼らともTAをやっているということで、何だかんだと会う機会も多いし、その他にも、今まで話すこともなかった先生たちとも勉強会などで知り合えて、いろいろ拘束されて忙しくなった面はありますけど、(TAやらなかったよりも)ますます世界が広がっていくように感じています。

***‘憧れのガウンとキャップで卒業式に'
あと半年で卒業することも十分可能ではあるんですが、今のところ、こちらでまだまだしたいことも山積みですし、また幸いにも、来学期分の奨学金もこのままいけそうな気配なので、2semestersかけてじっくりと卒論(その他諸々)に取り組み、来年6月には憧れのガウンとキャップで晴れて卒業式に臨みたいと願っています (何と、当大学はこちらでは最難関の名門校なので、卒業式の模様はその日終日、公営TVで 放映されます!)

***‘西南の交換留学(74-75)はその後の私の生き方の原点'
最後になりましたが、振り返ってみるに、西南のあの交換留学(74-75)の経験は、いろんな意味でその後の私の生き方の原点になっているような気がします。その若い時の経験がなかったなら、この年齢になって(先の留学から四半世紀も経って)、こんな突拍子もないこと(世間の普通の常識からいささかズレた、夫子供を残しての、いわゆる‘逆単身留学')にチャレンジするなんて、きっと考えられなかったんじゃないかと思います。全くの田舎育ちで、世間知らずだった私の眼を世界に啓(ひら)かしてくれるキッカケを与えてくれた西南には、言葉で言い尽くせないほど感謝です。

そして、このSIFAの輪が 国境や世代を超えて広がっていったら嬉しいですね。

Mr. Kozo Hongo Seinan to William Jewell College, 1990-1991 Columbus, Ohio, USA;
August 6, 2001
SHOOT YOUR AGE

Like other Japanese members of SIFA, I am a Seinan graduate; however, unlike them, I am also a Seinan dropout. My first enrollment (French major) was terminated in the middle of my second semester.

[College Dropout]
I would be a first college graduate from my family, so my failure totally disappointed my parents. I hated everything about Seinan. I hated myself, too. A college dropout. How nice these words sounded!

I decided to leave my parents in my 19th summer. I went to Hokkaido by motorbike and worked for a dairy farm as a cowboy until the next year.

Today, some of Seinan seniors may be complaining about the tight job market. When I was at their age (21), I engaged myself in a physical work at the Hakozaki Port warehouse six days a week with a 600 yen/hour pay. I had wandered all over Japan, and I dreamed of visiting other countries.

[First Oversea Trip]
I traveled in Europe by bicycle in 1986. At sightseeing spots, I often met Japanese college students. Interestingly, everyone had the same tourist guidebook in his/her hand. Of course, none of them had a bicycle. Many of them asked me which college I attended in Japan. They assumed I was traveling during the college breaks. I was embarrassed by their reaction when I told them I had dropped out. They actually regarded me as a man with guts? No. A loser, social outcast, geek, whoever. I was not ashamed because I knew my dream would not have come true if I had not left college.

At a tiny camping site located on the top of the mountain in Portugal, I met a German cycling tourist. We were the only campers that reached the top by bicycle, so we could share a sense of accomplishment. In Germany, he said, many people work their ways through college or attend college after working for several years. He finished his bachelor's degree at 26. His talks inspired me and made me interested in returning to college some day. I did not have any specific plans after returning to Japan except writing about my cycling trip.

[Second Seinan Life]
I took the second Seinan's entrance exam (English major) when I was 24. That was a tough year. If I was admitted, I would have to pay 350,000 yen for the first semester. With preparing for the exam, I worked at Royal Host and juku at night. I worked until ten on the exam eve. Immediately after my shift was over, I went home, drank some sake, and went to bed.

Miyahara-sensei, my freshman year's class advisor, gave me warm words on my comeback to Seinan on the first day, which made me comfortable with younger classmates.

When I was a sophomore, I applied for the exchange student. At the interview test, I found Nakamura-sensei in the room as one of the committee members. She was my former advisor in the French major. I was concerned that she had a bad impression of me and would ask me about the previous dropout, but she did not remember me at all, merci beaucoup.

When I attended William Jewell College, I was already 26. I graduated from Seinan at 28. Among the 1992 Seinan graduates, there were only two persons who were older than I.

[Working in the United States]
After working for three years in Fukuoka, I decided to return to the United States. I got a master's degree (journalism) from Ohio State in 1998. I got a job with a local recruiting company, and have worked as a public relations specialist and recruiter.

Working in a foreign country is not easy. I have faced visa and discrimination issues many times, which made me miss home. Two of the local managers in Columbus have suggested our headquarters fire me two times. They did not appreciate my performance, they said, but the fact is that my production is higher than theirs combined. They hate me? Maybe so. Because I am a Japanese? I do not know.

I remember one scene from my favorite American movie, Easy Rider. The riders on the choppers were not accepted by people in the South. Jack Nicholson talked to Dennis Hopper: They (local people) are scared of what you represent to them. What you represent to them is freedom. They talk to you about individual freedom, but they see a free individual, it is gonna scare them.

Freedom? I am not sure if I am a free individual. As a company employee, I worry about many trivial things every day. I am 37. I do not have an intention to quit a job and wander by motorbike or bicycle again, but I do not want to lose a challenger's mind. Without it, I would not be here.

Ms. Chikayo (Chika) Okumura Denison Seinan to Baylor University, 1982-83 Walnut Creek, CA, USA; July 7, 2001
 1982-83 Baylor の デニソン(奥村)周代こと、Chika Denisonです。現在、San Francisco 郊外の Walnut Creek に住んでいます。

 今年4月に、知り合いの結婚式のためTexasに行く機会があり、Wacoまで足を伸ばして来ました。かつて10ヶ月間暮らし、学んだ、Baylor University のキャンパスを18年ぶりに訪ねました。新しい施設も沢山出来ていましたが、私の住んだResidence Hallや、Student Unison, Book Store, Cafeteria, Tennis Court, そしてマスコットの小熊が居る所などは少しも変わっておらず、大変懐かしく思いました。学生として過ごしたあの頃が、まるでついこの間のことのように感じられる反面、主人と、4歳になる息子と一緒に歩くキャンパスはなんだか異次元の世界の様でもあり、不思議な感慨を覚えました。

 BaylorのTシャツを買ってかえり、いつものスポーツクラブで汗を流していると、顔見知りの人から「私もBaylorにいったのよ。」と声をかけられたり、Tahoeでハイキングをしていると、Texas A&M(フットボール等の宿敵)卒らしい人から、すれちがいざまに "Gig 'em!" と言われ、"Sick 'em, Bears!" と、やり返したり・・・と、楽しい後日談もありました。

 今年は秋に福岡へ里帰りしようかと考えておりますので、その際には、ぜひ西南に立ち寄らせて頂きたいと思います。

Ms. Masako Komori Seinan to Baylor University, 1993-94 November 6, 2000
「国連特別総会女性2000年会議」を傍聴して

 このたびSIFAのHPに投稿する機会を頂きましたことに、感謝申し上げます。私は95期生(英専)で、1993年8月から翌年5月までベイラー大学へ交換留学させて頂きました。その後、西南の大学院(法学研究科)へ進み、現在は、2000年4月より日本学術振興会の特別研究員という身分で国際法を専攻しています。

 その専攻分野とは別に、今年の6月に国連で開催された女性2000年会議へ派遣される機会を頂きました。ここではその一部を体験記としてお話いたします。この会議への派遣は、社団法人福岡国際ミズの会という、日本における女性の地位向上を目指す活動を行っている団体からのものです。当会は3年前に国連広報局のNGOとしての加盟を承認されています。この「広報局NGO」という肩書きのお陰で今会議への登録を認められ、現地でもスムーズに国連内へ入場することができました。今会議では、全体で10,000人ほどが世界各地から集まり、日本からも多数のNGOが参加しました。しかし入場に厳しい制限を課せられたため国連内へ入れた団体は少なく、外でワークショップを開催した団体が多かったと聞いています。当会はその少数派でした。

 会議の目的は、1995年北京で開催された第4回世界女性会議以後の進展をレビューするものです。会議は、各国代表が自国での取組みを紹介する全体会議、12の分野に分けて討議した総合委員会、そして各分野に分かれて議論されたパネルという、3部構造でした。全体会議で日本代表は、男女共同参画社会基本法といった立法面での進展をアピールしています。総合委員会では、この5年間の進展を成果文書という形でまとめる作業が連日続けられました。パネルは"平和維持と女性"というテーマのものを選び傍聴しました。紛争中の和平プロセス、そして停戦後の社会再建プロセスにおいて女性がいかに重要な担い手となりうるか、紛争での被害女性救済のために創られた制度は女性の視点を取り入れているか、などの点が議論されました。

 全体としての感想は、女性に関する様々な問題は、現在の国際社会が抱える問題でもあるということです。途上国での女性の貧困、教育、雇用の問題はそのまま国際社会全体で解決すべき問題でもあるのです。それを21世紀にかけて解決していかねば、女性問題の大部分は改善されていかないと思います。世界の人口の半分は女性です。その豊富な人材を有効に活かすためにも、今回世界各地から代表が集い再確認したことには大変意味があったと思います。そして、このような会議へ派遣して頂く機会を得られたことにも感謝したいと思います。

Ms. Hiromi Kuramoto Seinan to Universite Stendhal-Grenoble 3, 1984-85 Firenze, Italia; August 26, 2000
 今の私の基本はやはり西南での生活とフランス留学での体験でしょう。若く向こう見 ずで何でも吸収していた大学時代には、色んな人と出会えました。

 イタリアはまだ 統一されて百年少々。地域性が強く残っているため『イタリア人』なんて存在せず、 いるのは『フィレンツェ人』や『ローマ人』などです。(少なくともイタリアの住人 はそう考えています。)最初は言葉の壁が厚く、また考え方の違いで何度泣いたこと か。

 しかし、特に昨年まで勤めたフィレンツェのある旅行代理店での4年間の経験は、 イタリア人の真実の姿を肌で知ることができた点で、貴重でした。

 9年経ってようやくこの国にも慣れ、少しながら心を割って話せる親友もできた今日この頃、ふと思うのは国が変わっても人間に対する評価の基準は変わらないということです。 他人に対 しても自分自身に対しても真実であれ。西南で出会った人々から私が受け取ったこの メッセージは、どこに行っても私の生活の基本です。

 今年の4月からフリーの観光ガ イドの通訳及び翻訳を始めました。仕事の出来の善し悪しで次の仕事がもらえるかど うかという、いわゆる水(ものの)商売です。失敗もしますが、ちょっとした言葉や 態度に心こもったものを交換できるのは、この仕事の醍醐味ですね。

Mr. Edward Roosa SUNY, Oneonta to Seinan, 1983-84 August 13, 2000
Without a doubt, attending Seinan Gakuin University as an exchange student was one of the most significant experiences of my life. I cannot imagine a better way to experience a foreign culture in a country in which one does not speak the language. At any time, one could leave behind the security provided by the excellent staff of the International Exchange Office, our professors and, of course, the Japanese students who were always ready to help. Just a few steps would take one into a completely foreign society in which, initially, we could only observe or participate in at a most rudimentary level. And sometimes even a few steps were not necessary, as the foreign society would knock on our door.

Knowledge of Japanese was not necessary to be an exchange student at Seinan, so many of us arrived with little or no knowledge of the language. I clearly remember the complete feeling of isolation I felt when walking down a street on which I could read no signs, talk to no one and understand not a single loudspeaker's message; not even from one of the roving police cars with flashing lights. Was it telling us to run for our lives? No idea. However, as none of the local population seemed concerned, I ignored it as well.

Gradually however, language study in Japanese class and interaction with Japanese students, enabled me to begin to communicate with those around me. As my ability to communicate improved, I could learn about and participate in Japanese society slowly, like peeling an onion a layer at a time. Everyday offered a new and unique experience, a new taste, a new thought and a new memory.

Thanks Seinan!

Ms. Miki Yoshida Seinan to Baylor University, 1999-00 August 9, 2000
 私にとって留学は長い間の夢でした。その夢は西南の交換留学というかたちで現実となったわけですが、この留学によって、たくさんの貴重な経験をすることができました。特に、日本語クラスへの参加は大きな意味をもっています。

 以前から、日本語教師という職業に漠然と興味をもっていたのですが、派遣先の大学で日本語を教えている先生に出会い、いろいろな話を聞いたり、先生の出張中にはスピーチをしにクラスへ足を運んだりしたことによって私の"ぼんやり"とした日本語教師という職業は、"カタチ"を成してきました。自分が外国語や異文化を学んだ楽しさを、日本語教師として、日本語・日本文化を通して外国の人たちに知らせていけたら、それは私にとって、楽しく、また、やりがいのあるものになると思います。

 日本語教師として働いていくのは、難しいようですし、将来に対する不安も大きいのですが、その夢が実現するように"急がず、あせらず"努力していくことは、とても楽しいことだし、張り合いのあることだと思っています。留学という夢をかなえたときのように。

Mr. Akira Miyahara
Seinan to the State University of New York, College at Oneonta, 1976-77 July 11, 2000
 1976年だから、今からもう四半世紀近くも前の時代。当時1ドルが約300円。短期留学や語学留学のように比較的手軽に行ける最近とは違い、留学と言えば学校主催の交換制度を利用して行く以外には考えられなかった。ニューヨーク州立大学へ派遣されることが分かった時は正直言って期待より不安の方が大きかった。ニューヨークと聞くと「恐い、汚い、暗い」というイメージしかなかったからだ。

 しかし、オネオンタでの1年は私の人生に計り知れない影響を与えてくれた。その1年間はアメリカの楽しさがわかるのに十分ではあっても、ことばや文化的習慣を身につけるにはあまりにも短かった。「どんなことがあってもまた行きたい」という気持ちを植え付けてくれた。その後大学院、大学教員としてアメリカに10年近く住む結果になった。

 西南学院大学の交換学生の制度がもしなければ、今頃まったく違った道に進んでいただろう。交換学生として得ることができた多くの経験、刺激を、今社会でユニークな立場にいる卒業生が現役の学生に還元できるようなシステム、それがSIFAの役目だと考える。これからの活発な意見、情報の交換に期待したい。


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