(*2006年度卒業論文から終章の1部を抜粋)
・コレクションに見るイメージと身体
毎年、春と秋には春夏/秋冬の最新のファッションを提案するために世界主要都市ではファッションコレクションが提案され、ショーが開催される。
数々の華やかな服に包まれた何十人ものモデル達がかっこよくステージの上をウォーキングする。モデル達を見てみると、皆、9頭身ほどで顔は小さく、腕と足はすらりと長く、身長もとても高い。彼女達の身体はそれこそ制服を着たように、均等なサイズで揃えられてある。彼女達モデルは近年ますますスリムな身体を求められ、これ以上ないほどにやせているモデルもいる。最近では、ブラジル人のモデルが重度の拒食症の為に死亡するという事件があったりしたが、拒食症のモデルも少なくないようだ。また、やせすぎモデルがショーを出る事を禁止されるというニュースが報道されたりして、波紋を呼んだ。
そんな最新ファッションを身にまとったモデルたちを見て、私達は憧れの意を抱くものであり、誰しもあんな完璧な身体になりたいと思う。コレクションモデルや雑誌のモデルもそうだが、私たちは彼女達の身体を理想の身体として、それをもとに、またそれに自分を近づけるために自分自身の表面を加工したりするのである。
それでは何故私達はモデルに憧れるのか?なぜファッションショーを見て、感動するのだろうか?
まずモデルに着目したい。モデルの表情はマネキンのように無表情だ。まるで、そこからは感情など存在しないようにピクリとも表情を変えない。また、ウォーキングをしている姿も現実ばなれしていて、みな、同じように歩き、同じようにポーズを決める。
次にステージである。そこはまるで今から演劇でも始まるのではないかと思わせるほど、照明や設計にこだわるってあり不思議な緊張感と静けさや音楽に包まれている。服という私達に1番身近に肌に触れるものである物を見せるショーであるのに、まるでそれは私達の日常とはかけ離れている世界である。
しかしファッションショーの魅力はそこにあるのではないか。非現実という点だ。それは、「欠如」である。表情の欠如、生活感の欠如、内面の欠如・・・。
わたし達は、社会生活の中で 常に境界線を求められる。男か女か、子供か大人か、自分はどういう人間で、何を好んで何が嫌いか、どのような仕事をしているか。また身体においても、眼をアイライナーでくぎる、唇を口紅で輪郭を描く、隠すべきところとそうでないところを衣服を着ることで線を引く、常に私達はラインを引くことを求められる。そのラインをまたぐことや、ラインが曖昧なことは社会の中でも許されないし、また、ラインを引いていないと自分自身も自分が何者かということを見失ってしまう。常にその場に応じて、女、母、妻、社会人、学生、日本人、という様々な肩書きを私達は演じなければいけない。
ファッションショーの魅力はそれらのラインの欠如なのだと思う。モデル達は何者でもないし、内面から発信するものが無い、それら一切を消し去って、見るものに外面だけをただ見せるのがモデルの役割である。「らしさ」というものは存在しない。私達は全ての他者との生活で「らしさ」を演じることを求められているが、演じるということはラインを引くことである。ショーを見ていると、一切の「らしさ」を排除した、表現の自由がそこにある。もちろんそれはショーであるから、モデル達はその役割を演じている。しかし、その現実感、生活感、羞恥心が一切欠如した舞台の上に、私達は真の自分の姿を見いだそうとしているのではないか。完璧なる「演技」の中に私達のラインを取り除き、自分のあるべき姿をイメージしているように見えるのである。
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このように私達の存在自体がある種の想像力、あるいはある種の造形力によって支えられているのだとすれば、身体の加工や変形の営みも、まずはそういう視点から捉えることができそうである。それは流行の服飾という意味でのファッションそのものなのだ。身体の身体自身による自己解釈として、あるいは自己造型として。それは「存在のもっている像を変形させることによって、存在そのものを修正しようとする」試みにほかならないのだから。このとき、おそらく私達の存在は、物理的な形態を変えることで自己の本質そのものを変容したい、自己の限界を超え出たい、という欲望で疼いているのだ。
「わたしの身体」とはとても不安定なものである。それは、「わたし」自身による身体の断片的な体験と「イマジネールな外縁」として構成される身体の《像》との不釣り合いでアンバランスな関係として現象する。そしてこの身体の「縫合」は、意識による解釈としてなされるのではなく、むしろ無意識的なレベルで、身体が自らを変形し、毀損するという仕方で発生する。身繕い、たとえば化粧や刺青、装飾や着衣などはみな、身体の表面を分割し、一曲させ、歪形する営みにほかならない。ではなぜそんな手の込んだ変換作業をおこなうのか。それは体験としての身体の・断片性と《像》としての身体の全体性との不整合、つまりは《物質》と《意味》との不整合に由来する。要するに、これら二つの不可能な合致という夢をめがけて、断片としての身体をばらばらに分散されたままにしておくのではなくて、それらを「わたしの身体」の統一的な《像》のなかに必然的な位置価をもつものとして『システマティックに組み入れるために、私達は自分の皮膚を緻密に変形・加工する。身体を象徴的に切り刻み、印をつけることで、そこに意味を呼び込むのである。身体は人間の欲望の象徴である。それ故私達は、それを際立たせ、装飾して他者に発信したり、時には隠そうとする。こうした象徴としての身体地図が、いわば第二の皮膚として身体を覆うことになるのである。
ちくま文庫、筑摩書房
2005年01月
・ひとはなぜ服を着るのか 鷲田清一【著】
日本放送出版協会 1998年11月
・モ−ドの迷宮 鷲田清一【著】
中央公論新社 1989年04月
・顕わすボディ/隠すボディ 鷲田清一【著】
ポーラ文化研究所 1993年02月
・てつがくを着て、まちを歩こう―ファッション考現学 鷲田清一【著】
ちくま文庫、筑摩書房
2006年06月
・ひとはなぜ服を着るのか 鷲田清一【著】
日本放送出版協会 1998年11月
・1990年−新ファッション事情 関根 雅久【著】
誠文堂新光社 1988月12月
・羞恥心の文化史 H・シュライバー【著】
河出書房新社 1987年01月
・サブカルチャー スタイルの意味するもの D・ヘブディジ【著】
未来社 1986月11月
演習2006