☆生きている人間が、肉体の全感覚(視覚、聴覚、嗅覚、皮膚感覚)を使い、舞台の上で観客を前にして表現すること。・ 疑似行動、行動の模倣、人間の行動の表現。
☆人間の手によって現れた空間=劇場がある。→何もないとこらから、人間の意志、思想や感性によって作られた一つの世界。
劇場には、作者、作者によって作られものを演じる俳優、俳優をより作者の描く形に近づけるために、外見を整える衣装係、メークアップアーティストやより立体感を表し、俳優の感情を音や色でより豊かにする大道具係や証明係がいる。そして最後に、観客の存在がある。
☆俳優やスタッフなど、つくる側と観客が、同じ時に、同じ場所で、世界を共有する。
→観客たちは、目の前で転回されていく世界(視覚、聴覚、嗅覚、皮膚感覚的に決定されている文字のない世界)を、想像力を働かせて劇的宇宙=上演者と観客との間にその上演の間だけ舞台を通じてできあがる心的世界を感受する。
☆観客の想像力なくして、演劇は成立しない。
→一つの作品―固定された舞台の上で、生きている人間の肉体を用いての表現に、無限の世界を作り出せるのは、観客の想像力があるから。
☆演劇は消費。(集団的浪費),
*現在の演劇 →劇場・・・土地と建物が必要。
・ 人 ・・・裏方や俳優が何十人も動員される。
・ 時間・・・俳優の稽古、演技訓練などにさかれる。
これらすべてを労働力とみたとき、その他の生産的な労働をして、人間の生存の直接関わる食料、財物を生産できるはずの数十人数日分の労働力を失うことになる。また、彼らが生存していくためには、彼ら以外の人々が生産したものを消費することになるため、徒食の民ということになる。
観客も同様、人々がひたすら働くことを美徳としている社会や、働き続けなければ生存することが不可能な社会であれば、演劇を見に行く時間よりも、労働を重要視され、観客として劇場にいることもまた、生産労働からの脱落とみなされる。
→演劇を見に来る観客は、ある意味でスポンサーであるため、彼らがどのようなものを求めてくるのかを意識して、演劇的世界で表現していかなければならないから。
☆その他の特徴→瞬間に生まれ、瞬間に消えていく、現在進行形性を持っている。⇔映画は記録され残る
演技の基本は、ものまねである。ある具体的人物、あるいは動物、あるいは動き、を伴うすべての現象をモデルにして、そのままそれを模倣する→再現
また、ものまねされた対象が、現物とは違った方向性で読みかえられるとものまねに面白さが加わることになる。ものまねがさらに進歩すると、ドラマの中の人物という架空の存在をあたかも実在する人物であるかのように表現する、創造へと進む。
私たちが、目にみて演じているとわかるのは、俳優たちの演技だけではない。実は、私たちも、意識していないだけで、演じているのである。私たちが意識していない、「演技」には二つのパターンがある。
一つ目は、<日常としての演技>=役割演技
・ 生徒と先生、親と子、夫と妻など、その人に与えられた役割をきっちりと演じ、その役割としてふさわしい雰囲気を漂わせる“らしさ”の演技。
・ いろいろな儀式(結婚式、葬式など)、その場所にあったふさわしい演技をする
・ これらは、小さいときからしつけとして私たちの身体や意識の中に埋め込まれたもの
二つ目は、<習慣化された演技>
・ 意図的ではなく、無意識のうちに表に現れて出るもので、空気のような存在に近い。
・ 私たちの身体行動の隅々にまでしみついている型→お箸の持ち方、おじぎの仕方、など。
・ 日本という社会の型から離れてときに、自分の前に現れてくる。
演劇とは何かということから、演劇の特徴をいくつかあげ、その中で、その根本となる、表現としての演技(ある思想や観念、美といったものを肉体を用いて表現する技術)に注目してみた。
私たちは、複数の人間によって構成された集団(社会)なしには生きていけない。私たちが、その集団にあって、他者に自己の意思や内面などを伝達するためには、表現として演技が必要になってくる。ある人の肉体ぐるみの行動の中で形をもったあるイメージをとらえて他者はその人の人間像とする、つまり、自己が表現した演技行為以外に他者の中の自己像は存在しない。観念や肉体の二つが存在してはじめて自己の形を他者に伝えることが可能とある。だからこそ、私たちは、人間によって作られた空間で、人間の置かれた状況や人間関係を再創造する芸術形態(現実の人間の行動を最も具体的に模倣し、私たちが人間の状況について思いをめぐらすことのできる最も具体的な形式)である演劇、を通じて、それらから、自分の形を照らし合わせたり、新たに作り、また別の場所で表現することを学び感じとり、自分の姿を探しもとめていくのではないだろうかと考えた。
演習2006