世界で初めて地下鉄を走らせたのは産業革命の先駆者であるイギリスである。その5年後にニューヨーク、9年後にブタベストにて相次いで開通する。1863年のロンドンでの営業開始以来、ヨーロッパではついでベルリン、マドリード、ストックホルム、ローマの順番である。ちなみに日本で初めて地下鉄が走ったのは東京の27年である。当時のヨーロッパでは、時速8kmの2頭から3頭立ての馬車や9km前後の路面電車が主流であった。

<ふたつのプラン>
1853年、第二帝政の新しいパリを世界中に披露しようと、パリ市は万博を開催する。その時、当時のセーヌ県知事であったオスマンは都市の大がかりな改造計画に着手していた。しかし彼の努力の甲斐なく世界中から集まった大勢のパリ万博の見物客たちは、パリ中のあちこちにある催し物を歩き回って見物しなければならなかったため、大変苦労した。自尊心と特に裏望の念がフランス国民の心を動かし始めた。そして1900年、またパリで万博が開催されることが決定し、いよいよ入場者数数千万人を一度にたくさん輸送出来るだけの交通機関を建設しなければならなくなる。つまり、1900年のパリ万博の開催が長年叫ばれ続けた統一性のある交通機関の建設を決定させたのだった。
では「どのような交通機関を作ればよいのか?」という問題が出てくる。パリ中の建築家たちが様々なプランをたて、この新しい交通機関のコンペに参加する。1889年の万博でエッフェル塔を建設したエッフェルもこのコンペに参加したが、彼のプランは経費がかかりすぎるという理由で失敗する。交通機関建設に出たプランをいくつかあげると、例えばセーヌ川にフタをしてその上に列車を走らせようとするもの、街灯の柱にゴンドラ型の車を付けるロープウェー方式のもの、また地下道に昼間は悪臭を取り除くための大きな換気扇をつけた列車を走らせ、夜に下水を流すというものなどがあった。(駅はどこに作るつもりでいたのだろうか。)こういった、今考えれば少しバカげているようなプランもあったが、当の建築家たちは真剣であった。そして最終的に残ったプランは以下の2つである。

l 地上高架鉄道
建築家ルイ・ウーゼが奨励した「屋根付き歩行者用通路のある、地上7メートルの横断高架鉄道」。線路は切れ目ない屋根を形作り、しゃれたブティックが軒を連ねるプロムナーを覆い、支柱には高架鉄道の建設に重要な役割を果たした製造業者たちの名を刻む予定であった。「優雅で、見た目に軽やかでカルゼールの大アーケードのようにそびえ立つ」ような外観にするというプラン。

l 地下鉄道
ロンドンにならい、地下に鉄道を走らせようとするプラン。

この2つのプランには、長所もあれば短所もあった

長所
短所
地上高架鉄道

・ 建設に際しての技術的問題が少ない

・ 経費が安く済む

・ 町中を走る列車の音がうるさい

・ パリの景観を台無しにしてしまう

地下鉄

・ パリの景観はそのまま

・ 地下を走らせれば騒音が出ない

・ 建設に際しての技術歴問題が多い

・ 経費がかかる

・ 悪臭、下水など衛生面に関する問題が多い

<パリジャンたちの反応>
この2つの新しい都市交通機関に関するプランへの人々の反応はどのようなものだったのだろうか?
パリ市民の意見は様々であった。地下鉄にはまだ見ぬものへの不安からか反対派が断然多かった。地上高架鉄道を奨励したウーゼは地下鉄に対してこう述べている。「寒く、じめじめして、陰鬱で、煙たく、危険をはらんでいることは確かであるだけでなく、地下土壌をかき回すことによってどんな疫病や伝染病がまき散らされるか知れたものではない。」と。
またウーゼの意見に賛成の、ある人物は「地下土壌は何世紀もの間、蓄積された汚物の貯蔵庫であり、過ぎ去った世代が残した恐ろしく臭い遺産だ。」と述べ、地下鉄建設への反対を唱えた。実際、昔ヨーロッパ全土で多くの死者を出したコレラは当時のパリ市民にとって慢性的な悩みの種で、その猛威の記憶はまだ新しかった。よって多くのパリ市民が、また疫病を蔓延させるかも知れない地下鉄建設に反対したのも当然のことかも知れない。これに対し、地下鉄を指示し、高架線に反対する者もいた。かの有名なオペラ座の建築家であるシャルル・ガルニエも地下鉄賛成派の一人であった。高架線か、それとも地下鉄か、それぞれの提唱者はそれぞれの派閥活動をさかんに行った。歴史の街、パリの防衛にあたり、パリ記念建造物愛好協会が設立され、シャルル・ノルマン(のちの古都パリ市景観委員会の会長)とシャルル・ガルニエ(オペラ座の建築家)がその代表者となった。また、魅力ある地下の演出に貢献したヴィクトル・ユーゴーがその名誉会長に選ばれた。これに対し、高架鉄道派は“メトロポリタン高架パリ路線会”を設立し、会議や集会、パンフレットの配布などにより、公衆に対し広く嘆願運動を進めた。当時のパリジャンたちは、この新しい交通機関に関する大プロジェクトについて、デザートがでるまでこの話題の種が尽きることなく論じ合ったという。というのも市での交通ののろさ、列車の欠点、乗り合いの不便さや馬車に乗る人々の不作法などについて、誰もが言いたいことは山ほどあったからである。

<地下鉄に決定!!>
さて、ふたつのプランのどちらを採用するかという論争以外に、新しい交通機関の建設決定を遅らせたもうひとつの大きな要因があった。それは国とパリ市の対立である。国側はパリ市内の鉄道駅を結ぶことを目的とし、一方のパリ市は都市の足として駅の間隔が短い交通機関を考えていた。1880年に、各自治体はそれぞれの県の許可を受けなくても、独自の鉄道を建設できることを認める法律が出来たにもかかわらず、「パリ市の交通機関はパリ市のみならず,すべての国民の利害に一致している」として国はパリ独自の鉄道建設を許可しなかった。しかし1900年のパリ万博が間近にせまった1895年、とうとう時間切れということでついに政府はパリ市に地下鉄建設計計画を許可した。パリ市が勝ったのだ。

<いよいよ着工>
さて、いよいよ1898年11月、地下鉄建設の工事が始まった。当初は地下深くを掘るロンドン方式が採られたが、工事費がかさむうえ、万博までそれほど多くの時間が残されていなかったため、地表近くにトンネルを掘るベルギー式に変更になる。初期の工事には落ちぶれた実業家、アクロバットの一団、歯科医、侯爵など、意外な人々が参加している。パリは甲殻類期の白亜で形成された盆地に位置しているため、潮の満ち引きが置き去りにしたあらゆる種類の湖水や海水沈殿物がセーヌ川の沖積層に覆われているといった特殊な土壌であったため工事は難航するだろうと考えられていた。また塩毒気による窒息、足を滑らせての生き埋め、突発的な土砂崩れや川の流入など地下鉄工事には多くの危険もあった。1900年のパリ万博まで時間がないため、とにかく急げや急げで、なによりも地下鉄建設が優先され、そこらじゅうが工事のための仕事場や資材置き場が道路を占領したため、工事現場周辺の交通渋滞は大変なものだった。しかし工事は思いのほかうまく進行したのである。これらすべてはこの工事の主任技師フルジャンス・ビヤンヴニュの指導のおかげであった。

<豊富な考古学的発見!?>
メトロ建設において注目すべきものがある。それは豊富な考古学的発見である。1898年、シャルル・ノルマンを委員長として市の古都パリ市景観委員会が設立された。彼らはメトロ建設にともなう考古学的な発見を予想していた。予想は的中し、数多くの遺品、出土品が発見されたのであった。

ヴァンセンヌ門にて

(1899)

古代ローマの東方街道の1部であったアーチ型の天井をもつ回廊発見
シテ島の駅にて 古代ローマ時代の焼けこげた遺跡発見
ジュスイユー駅 パリ市最古の僧院のひとつ サンヴィクトール修道院の基礎発見
バスティーユ周辺 バスティーユの歴史を裏付ける建物部分の発見

  
以上の他にもたくさんの出土品があった。委員長シャルル・ノルマンはこれらの発掘品をその土地の駅に保存し、それぞれをパリの歴史博物館にしたいという構想を持っていたが、現在ほとんどの出土品がカルナヴァレ博物館に移されている。

<ついに開通>
1900年、7月19日、作業開始の20ヶ月後、予定より3ヶ月の遅れだけでメトロの1号線が開通した。路線は東のマイヨー門から西のヴァンセンヌ門まで、市の非常に象徴的な2つの門を結んでいた。開通は、本来、7月14日のバスティーユの日に予定されていたが、警視総監が混乱を恐れて延期させたものだった。しかし警戒の必要は全くなかった。というのも、テープカットもない式典は午後遅くに行われ、地元の役人が何名か出席しただけであった。せっかく念願の地下鉄が完成したのに、市民の関心は意外にも薄かった。当時の「フィガロ」紙も地下鉄開通に関する短い記事を載せているだけで、取材した記者たちは取るに足りないことばかりに注目していた。例えば「駅舎は地下倉庫に似ている」とか「消毒薬の臭いが強い」といったことである。ただ、開通したその日、偶然にも夏の非常に暑い日であったため、すべての記事は「トンネルは涼しくて心地よい」と強調している。それにそれまでのパリの人々の足であった馬車が時速7kmだったのに対し、地下鉄は25kmの速さで、客席もたっぷり設けられているため乗客は全員座ることが出来た。夏は涼しく、心配されていた悪臭や空気不足もそれほどひどいものではなく、だんだん人が集まるようになっていく。すっかり楽しんでいる乗客たちを見て、ビヤンヴニュはほっとなで下ろすと同時に、誇らしい思いを抱いたことであろう。また、それから後、移民を含む人口増加にともない、郊外に移り住む人も増えだんだん地下鉄の需要は増し、路線も拡大していくのだった。

<メトロの事故>
開通したばかりのメトロには思いがけない事故も多かった。創業の日(1900年7月19日)から翌年の7月30日までの記録を見てみると以下のようになる

乗り降りの最中扉でケガした人 82名
進行中に飛び降りてケガした人 94名
完全停止前に飛び降りてケガした人 11名
階段からホームに落ちた人 36名
ホームから軌道に落ちた人 21名

このような事故がおこった背景には、当時の人々がホームの高さをあまり意識していなかったためではないだろうかと言われている。また扉に体が挟まって死亡するという事故も相次いだため、ニューヨークの地下鉄にならって、扉の端にはゴムのクッションが取り付けられたりもして、安全面における対策もなされるようになった。

2.メトロ誕生までの道のり