2011年研究旅行

ニューカレドニアで暮らす日本人移民

原 楓

「ニューカレドニア」と聞いて、どんなイメージがわき、どれだけの情報を知っているだろうか。日本から最も近いフランス語圏であるニューカレドニアに、私は興味を持った。 日本では「天国に一番近い島」という異名を持つニューカレドニア。日本人にはリゾート地として非常に人気のある地でもある。だが、詳しいことについては、あまり知られていないのが現状だ。そんなニューカレドニアについて調べている中で、日本とニューカレドニアには歴史的に深い関係があることを知った。それは「移民」だ。そして今も多くの日系人が現地で暮らしていることが分かった。 このような日本とニューカレドニアの貴重な歴史についてもっと深く知りたいと思い、実際にニューカレドニアへ行って調べることにした。

1. 日本とニューカレドニアの関係

ニューカレドニアに行く前にまず、ニューカレドニア日本親善協会の方に連絡をとって、ニューカレドニアの日本人移民についての概要を聞くことができた。 

 

 1892年(明治25年)、海外で働きたいという600名の単身日本人男性が、移民社会の斡旋でニューカレドニアにやってきた。採用の際、ニッケル鉱山での5年間の労働契約書が用意された。1919年までに合計5575名にのぼる移民がニューカレドニアに到着。やがて、彼らは現地の女性と所帯を持つようになった。鉱山を離れた後、島のあちこちに定住し、様々な仕事で成功した(菜園、塩田、商業、漁、コーヒー園、あるいは散髪屋、仕立て屋、大工、鍛冶屋など)。日本人は、当時の経済生活に活気あふれる豊かさをもたらす存在であった。

 そして、真珠湾攻撃を境に、この第一世代の日本人たちは適性外国人として見なされ、そのほとんどが連行され、ヌー島に収容された後、オーストラリアの強制収容所に送られた。4~5年の抑留を経て、1946年2月に日本に送還された。太平洋を隔てた向こう側では、島に残った彼らの現地妻と子供たちが、一家の大黒柱を失い、とてもつらい日々を送った。また、現地人と結婚しそのまま帰化した人も少なくなく、現在は約8000人の日本人入植者の子孫がいるとされる。

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2. Musée de la Ville Mouméa①日本人兵士

ニューカレドニア・ヌメア市内のココティエ広場のすぐそばにある、ヌメア市立博物館の中に日本人移民の歴史に関する資料が展示されているコーナーがあった。

 

まず、日本人兵士が写っている写真であるが、彼ら自身が武器を持って戦うようなことはなく、日本の軍艦は物資供給のための輸送隊や、地中海や太平洋にある同盟国の軍隊を護送していたのである。

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3. Musée de la Ville Mouméa②露天掘鉱夫

ニッケル鉱業がさかんになるにつれ、国内・フランスからの労働者だけではまかないきれなくなり、「le Nickel」という会社は日本政府と、600人の労働者の代表団を送ることを取り決め、1892年1月25日にチオ鉱山のための労働者を乗せた最初の護送船が、長崎から到着した。主に九州・沖縄からの移民で、特に熊本・沖縄出身者が多かった。彼らは5年間の契約で、契約では彼らの権利(罷業権を含む)の尊重がきちんと保証されていた。この当時、本島東海岸の町・チオでは全住民1800人のうち、1300人ほどが日本人であったという。この契約が切れた後の彼らは、日本に帰った者、現地で開拓者としての地位を確立した者、洋服屋、鍛冶場、理髪師、市場向け菜園経営者、パスタメーカーなどの貿易など、さまざまだった。最後の護送船が到着した1919年までに6879人の日本人が露天掘鉱夫の契約の下で、ニューカレドニアへやってきたのである。このほかに、このような契約なしで移民としてニューカレドニアへやってきた日本人移民も2000人ほどいたようだ。

 しかし1941年12月8日、日本が真珠湾を攻撃した直後、状況は一変する。フランスおよびニューカレドニアは連合国側だったため、日本国籍の人々は敵国人として、オーストラリアの収容所へ入れられ、戦後に日本へ強制送還された。この際、彼らが所有していた財産のほとんどが没収され、家族とも生き別れになってしまった。

 今日、ニューカレドニア人で日本人の名字を持っている人は珍しくなく、そんな人々のほとんどがこのような日系移民労働者の子孫である。

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4. ニューカレドニアのニッケル鉱業

ニッケル鉱業は、ニューカレドニア地域経済の基幹産業である。1863年に発見され、埋蔵量は世界有数、現在の年間産出量はロシア、オーストラリア、カナダに次いで世界第4位。ニッケルの輸出先は戦前・戦後を通じて日本が第1位。第二次世界大戦では敵国となり、厳しい時代もあったが、現在、双方の信頼関係はより強固になっている。1964年当時のニューカレドニアを舞台にした森村 桂さんの作品「天国にいちばん近い島」にも鉱石運搬船や日本商社の駐在員など、ニッケルに関したシーンが登場する。

 またニューカレドニアは観光客がある程度多いにも関わらず、ニューカレドニアの観光業がそれほど発展していない理由も、このニッケルにある。観光業に力を入れて、観光業に頼らなくてもよいほど、ニューカレドニアの経済はニッケル鉱業に支えられているのでる。

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5. 日本人墓地

ヌメア市の大きな市営墓地の敷地内に日本人用の墓が1つあった。墓石には「日本人之墓」と大きく書かれてあり、その下には「COMMEMORATION DU CENTENNAIRE DE LA PRESENCE JAPONAISE ニューカレドニア日本人移民百年記念」とフランス語と日本語の両方で書いてあった。このような立派な墓・記念碑があることから、ニューカレドニアにおいても日本人移民は重要な歴史の一つだと考えられているようだ。

 そこで私はたまたま一人の男性に話しかけられた。その男性は、墓石に書いてある日本語の意味を私に聞いた。詳しく話を伺うと、その男性も日系移民の子孫であることが分かった。その男性は祖父が日本人で、名字はやはり日本人の名前でYoshizumiさん。19世紀終わりに熊本からやってきたという。顔も決して日本人っぽくなく、もちろん日本語も全く分からない。でも名字は日本人の名前というYoshizumiさんのような方がニューカレドニアにはまだたくさんいるのである。この男性に会えたのは偶然であったが、とても貴重な話を聞くことができた。

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6. まとめ

日本でもあまり知られていない、ニューカレドニアへの日本人移民についての歴史的事実が博物館の資料、また墓地としてニューカレドニアにはきちんと証拠が残っていた。今回、時間と経費の関係で行くことができなかったが、実際にニッケル鉱山があったチオにはもっと多くの証拠が残っているかもしれない。墓地で出会ったYoshizumiさんだけでなく、現地でタクシーに乗った際、そのドライバーの奥さんも日系人であると話してくれた。私が予想していた以上に、ニューカレドニアにはまだ多くの日系人が残っているようだ。

 日本とニューカレドニアの間にこのような貴重な歴史的事実があることをもっと多くの人に知ってもらいたいと思った。来年2012年はちょうど120周年であり、さまざまなイベントが催される予定だ。そのようなイベント等を通して、少しでも多くの人がこの歴史を知り、ニューカレドニアを日本と親密な国であると、もっとニューカレドニアについて理解を深めてくれたら良いと思う。

 

 

参考文献

「ニューカレドニア観光局」http://www.newcaledonia.jp/info/basic/history.html

「天国にいちばん近い島」森村 桂(角川文庫)

「ニューカレドニア島の日本人」小林 忠雄

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