新谷正彦

 

『タイ国農家家計の合理的行動 ―スパンブリ県の農家経済調査による分析―』

 

西南学院大学 研究叢書 No.37


 

 

 

本書の目的は、タイ国が低所得国から中所得国への経済発展下において、タイ農家家計の行動が合理的であった点を、農家経済調査の個別結果表の分析を通じて明らかにすることである。筆者が、以前に、タイ国農業の投入・算出・分配について、1950-1997年の期間の長期系列を推計・整備し、その集計値であるマクロデータからタイ農家家計の行動が合理的であった点を示した(Masahiko Shintani, The Process of Agricultural Growth in Thailand: Analysis of Long-Term Economic Statistics for the Period of 1950-1997, Kyushu University Press, Fukuoka, 2003.)。本書の目的は、筆者のマクロデータから得られた結果を、農家経済調査の個別結果表というマイクロデータからチェックすることを意味している。そして、本書の結果が、マクロデータの結果を支持するものであれば、筆者の推計・整備したタイ農業の長期の投入・算出・分配系列の妥当性を支持することになるといえる。

 経済発展下で農家家計が合理的行動をとるために、農家家計は、経済発展による要素価格の変化、特に、賃金率の上昇に対応した技術の採用を要求されることになる。その結果として、農業における要素所得が変化し、農業の要素分配率の変化が生じることが想定される。筆者の推計・整備したマクロデータ系列において、労働分配率の減少と、資本および土地分配率の上昇とが観察された。農家家計が合理的行動を行っているのであれば、家経済調査の個別結果表というマイクロデータからも、同一の分配率の変化を確認できるはずである。この点のチェックも、本書の研究課題である。

 本書における農家家計の合理的行動の分析は、水稲生産の労働投入の合理性に焦点を合わせて行われる。具体的には、農家経済調査の個別結果表を用いた農家家計レベルの農業生産関数を計測し、その結果を用いた労働の限界生産力の推定値と賃金率との比較から、農家家計の労働投入が合理的かどうか判断し、本書の研究課題に接近する。

 分析に使用した農家家計のサンプルは、農業県であるといわれながらタイ国の首都バンコクに近く、経済発展の影響を大きく受けたと想定されるスパンブリ県における4か村の農家家計から選定された。選定された農村のうち、Wang Yang村とRai Rod村とは、潅漑水が利用できる潅漑地域であり、Jora Kae Yai村は、洪水常襲地域であり、Sa Ka Chom村は、農業用水の制約の厳しい非潅漑地域(天水田地域)である。Wang Yang村とJora Kae Yai村とSa Ka Chom村との農家経済調査は、2003年年末と2004年年頭に行われた。また、Rai Rod村の農家経済調査は、2004年晩秋に行われた。これらの村が選定された理由は次のとおりである。すなわち、Wang Yang村とJora Kae Yai村とSa Ka Chom村との3か村については、タイ国カセサート大学のIsvilanonda等が1987年と1998年とを調査対象年として行った農家経済調査の個別結果表が利用でき、比較分析ができるからである。また、Rai Rod村については、東京大学の山田等が1983年を調査対象年として行った農家経済調査の個別結果表が利用でき、前3か損の場合と同様に、比較分析ができるからである。

 以下、第I部において、問題の所在についてさらに詳しく記述する。

I部第1章において、筆者の推計・整備したタイ農業の長期の投入・算出・分配系列を用いて、タイ国経済発展下で、タイ農業がどのように変貌したかを明らかにし、経済発展という与件変化に対応して、タイ農家家計が合理的に行動した結果を、労働の限界生産力の推定値と賃金率との比較から明らかにした。また、この結果は、要素分配率の変化、すなわち、労働分配率の低下と資本および土地の分配率の上昇となって現れたことを示した。これらマクロの集計値レベルで明らかにされた結論が、農家経済調査の個別結果表を用いたマイクロレベルの分析において、同一の結論を得られるかどうかという設問を行った。

I部第2章において、1984年より2年毎に調査された結果であるタイ国内務省の「農村開発データベース」( Kor Chor Chor 2 Kho )を用い、経済発展下の農業経営環境の変化に対応したスパンぶり県の農村の変貌と農家家計の構造変化とを数量的に明らかにした。すなわち、各村落の名目賃金率が時間の経過とともに上昇を示し、賃金率の上昇は、種々の形で生産面や雇用面で波及を示した。すなわち、村落内の世帯の所得を上昇させ、平均世帯員数を減少させ、村落内における全世帯に対する農家世帯比率を減少させた。そして、賃金率の上昇に対し、農家家計は農業生産における労働生産性の上昇を、土地生産性の上昇と土地・労働比率の拡大とによって達成した。その一面は、時間の経過とともに、各村落の平均水稲単収の上昇となって現れた。水稲単収の増加のために、高収量品種の採用や、化学肥料の使用とその増投、および農薬の使用等が確認された。しかし、「農村開発データベース」から得られる情報は、ここまでで、より立ち入った分析は、第II部と第III部に回された。

II部は、Wang Yang村とJora Kae Yai村とSa Ka Chom村との農家経済調査の分析を行ったセクションである。

II部第3章は、Wang Yang村とJora Kae Yai村とSa Ka Chom村との農家経済調査の個別結果表を用いた記述統計の分析部分であり、3か村の特性を抽出し、以下の第4章と第5章との分析に使用できることを示した部分である。調査サンプルの分布形は、経済データの分布形と良く近似しており、分析に使用できる点が示された。そして、水稲作を分析対象として、時間の経過とともに、労働生産性、土地生産性、および土地労働比率の上昇が確認された。また、土地労働比率の上昇に、単位面積当たり水稲の各作業別時間の減少が明らかにされ、それぞれの減少は、それぞれの時点で現れた農業機械や栽培技術の採用で達成されたことが示された。

II部第4章は、農家経済調査の個別結果表から、直接、要素分配率の変化を確認し、生産関数の計測結果の生産弾性値からそれを確認し、労働の限界生産力の推定値と賃金率との比較から農家家計が合理的に行動した点を明らかにした章である。すなわち、労働分配率は趨勢的に減少し、資本および土地の分配率は、趨勢的に増加を示した。計測された平均コブ・ダグラス生産関数は、1次同次を示し、生産弾性値を分配率に読み替えるならば、労働の生産弾性値は、減少傾向を示し、資本と土地のそれは、増加傾向を示した。これらの結果は、集計値で示された結果と同一であった。そして、推定された生産弾性値を用いた労働の限界生産力の推定値と賃金率とを比較した。その結果は、個別サンプルにおいて過剰労働投入を行っているサンプルも存在するが、村落平均でみた場合、水稲作農家家計の労働投入は合理的であったという結論を得た。この結果も、集計値で示された結果と同一であった。

II部第5章は、第4章と同一のサンプルを用いて、フロンティア生産関数を計測し、第4章と同一の分析を行った章である。第4章の生産関数は、平均的経営の生産技術に対応した生産関数であるのに対して、フロンティア生産関数は先進的経営の生産技術に対応した生産関数であるため、分析結果は、より厳しい結果となる。すなわち、その結果、2003年になると、多くのサンプル農家において、過剰な労働投入をおこなっているという結果を得た。この結果は、平均生産関数で表された生産技術に比べ、今後、普及すると考えられる技術を示すフロンティア生産関数の技術では、多くのサンプル農家は、過剰労働投入をすることになり、今後、農家家計に対して、より経営技術の合理化が求められることを示すこととなった。

III部は、Wang Yang村とJora Kae Yai村とSa Ka Chom村との場合と同一の分析を、Rai Rod村の農家経済調査の個別結果表について分析を行ったセクションである。

III部第6章は、Rai Rod村の農家経済調査の個別結果表を用いた記述統計の分析部分であり、Rai Rod村の特性を抽出し、以下の第7章と第8章との分析に使用できることを示した部分である。そして、水稲作を分析対象として、時間の経過とともに、労働生産性、土地生産性、および土地労働比率の上昇が確認された。また、土地労働比率の上昇に、単位面積当たり水稲の各作業別時間の減少が明らかにされ、それぞれの減少は、それぞれの時点で現れた農業機械や栽培技術の採用で達成されたことが示された。

III部第7章は、第4章と同様に、農家経済調査の個別結果表から、直接、要素分配率の変化を確認し、生産関数の計測結果の生産弾性値からそれを確認し、労働の限界生産力の推定値と賃金率との比較から農家家計が合理的に行動した点を明らかにした章である。すなわち、労働分配率は趨勢的に減少し、資本および土地の分配率は、趨勢的に増加を示した。計測された平均コブ・ダグラス生産関数は、1次同次を示し、生産弾性値を分配率に読み替えるならば、労働の生産弾性値は、減少傾向を示し、資本と土地のそれは、増加傾向を示した。これらの結果は、集計値で示された結果と同一であった。そして、推定された生産弾性値を用いた労働の限界生産力の推定値と賃金率とを比較した。その結果は、個別サンプルにおいて過剰労働投入を行っているサンプルも存在するが、村落平均でみた場合、水稲作農家家計の労働投入は合理的であったという結論を得た。この結果も、集計値で示された結果と同一であった。

III部第8章は、第7章と同一のサンプルを用いて、フロンティア生産関数を計測し、第7章と同一の分析を行った章である。第7章の生産関数は、平均的経営の生産技術に対応した生産関数であるのに対して、フロンティア生産関数は先進的経営の生産技術に対応した生産関数であるため、分析結果は、より厳しい結果となる。すなわち、その結果、2004年になると、平均生産関数を用いた場合に比べて、多くのサンプル農家において、過剰な労働投入をおこなっているという結果を得た。この結果は、平均生産関数で表された生産技術に比べ、今後、普及すると考えられる技術を示すフロンティア生産関数の技術では、多くのサンプル農家は、過剰労働投入をすることになり、今後、農家家計に対して、より経営技術の合理化が求められることを示すこととなった。

本書において、結論を述べる章がないので、本書の結論を、次のように述べることが出来る。農家家計レベルのマイクロデータを用いた労働分配率は、趨勢的に低下を示し、資本分配率および土地分配率は、趨勢的に上昇した。これらの点は、同一のマイクロデータを用いて計測した平均生産関数とフロンティア生産関数とから確認された。そして、推定された生産弾性値を用いた労働の限界生産力の推定値と賃金率とを比較した結果は、個別サンプルにおいて過剰労働投入を行っているサンプルも存在するが、村落平均でみた場合、水稲作農家家計の労働投入は合理的であったという結論を得た。以上の結論は、農家家計の行動を、水稲生産に限って、かつ特定の村のサンプルに限って観察した結論であるが、これら結論は、筆者が別の機会に、推計・整備したタイ農業の投入・産出・分配に関する長期系列より得られた集計レベルの結果を支持するものであるといえる。そしてまた、それら長期系列の妥当性を支持しているといえる。

本書の分析に使用した、2003年と2004年とを調査対象年としたWang Yang村とJora Kae Yai村とSa Ka Chom村とRai Rod村とにおける農家経済調査の実施に際し、タイ国カセサート大学経済学部Saroj Aungusmalin助教授から、調査票のタイ語訳、調査許可等調査地での一切の手配、調査員雇用および調査方法の教育、および調査の個別結果表の点検等に関する全面的な助力を得た。

1987年と1998年とを調査対象年として、スパンブリ県でおこなわれた農家経済調査の個別結果表の利用に際して、政策科学大学院大塚敬二郎教授、タイ国カセサート大学経済学部Somporn Isvilanonda助教授、および国際稲作研究所社会科学部Mahabu Hossain部長から個別結果表の使用許可と個別結果表の提供を得た。

「農村開発データベース」( Kor Chor Chor 2 Kho )の利用に際し、タイ国カセサート大学のSaroj Aungusmalin 助教授を中心とした Rangsan Pitypunya助教授等、カセサート大学経済学部協同組合学科の先生方から多大の援助を得た。

データの記述統計の計算や回帰計算等に、西南学院大学情報センターのSASソフトウエアが使用された。その利用に際し、センター職員の方々から助力を得た。

 加えて、本書の内容は、平成14-16年度の日本学術振興会科学研究費補助金(基盤研究(C)(2))(課題番号:14560193、研究課題名:農村開発データーベースを用いたタイ農業部門の過剰就業に関する数量分析、研究代表者:新谷正彦)の援助の下に行われた研究の成果である。

以上の支援がなければ、本書における研究が実施できなく、かつ、本書の内容の成果を挙げられなかったことを記し、支援してくださった方々および機関に感謝の意を表す次第である。しかし、本書に含まれる誤りは、すべて筆者の責任であることは記すまでもないことである。

平成1810

新谷正彦

 

 

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