困難なことが起きたとき、
自分の弱さを認めながら、
神そして希望から得た勇気をもって
誰かのために行動する。
それが、聖書の「優しさ」です。
自分の弱さを認めながら、
神そして希望から得た勇気をもって
誰かのために行動する。
それが、聖書の「優しさ」です。
- 神学部神学科
- 濱野 道雄教授
-
アメリカ・太平洋神学校大学院
牧会学博士課程修了。
研究分野はキリスト教倫理、新約聖書学、教会形成論。
-
「優しさ」は曖昧でぶれやすい。
だから、神や希望という普遍的なものが支えになる。 -
聖書の中にも、「優しさ」と訳せる言葉がいくつかあります。その1つが、ギリシャ語の「プラウテース」です。多くの聖書ではこれを「柔和」と訳しています。ただし、聖書の言葉には、「日本語に訳すことはできるけれども、日本語のニュアンスとは異なる」ものが多くあり、「プラウテース」もその1つです。
日本語で「柔和」と聞くと、「穏やか」「落ち着いている」といったイメージを思い浮かべる人が多いでしょう。しかし、「プラウテース」にはそれよりも積極的なニュアンスが込められています。
では、聖書で語られる「優しさ」「プラウテース」とはどのようなものなのでしょうか。私は、「神に信頼し、暴力を放棄し、他のいのちのために奉仕する神からもらう勇気」と考えています。ここで大切なのは、「勇気」です。「プラウテース」は、ただ穏やかにニコニコとしている態度を指しているわけではありません。私が考える聖書が語る「優しさ」とは、理不尽な出来事に直面したとき、「自分では何もできない」と感じながらも、そこで諦めて何もしないのではなく、「神」のような存在から勇気を受け取り、誰かのために一歩を踏み出そうとすることです。言い換えれば、自分の弱さを認めつつも、他者のために行動しようとする姿勢こそ、聖書が語る「優しさ」なのだと思います。
しかし、このような優しさをいつも変わらず持ち続けることは簡単ではありません。相手やその時の心の状態によって、優しくできないこともあります。優しさは非常に曖昧で、ぶれやすいものなのです。だからこそ、神や信念、あるいは希望といった簡単には左右されない自分を超えるものから勇気を受け取り、優しさを行動として実践するのだと思います。 -
痛みを痛みで返すのか、優しさにつなぐのか。
痛みは、真の優しさへの曲がり角。 -
敗戦から80年がたちました。私たちは本当に「優しい国」をつくってきたのでしょうか。「人は悲しみが多いほど、人には優しくできる」という言葉をご存知の方も多いでしょうが、痛みや悲しみを知っていれば、おのずと人に優しくなれるかというと、私は必ずしもそうではないと思っています。優しさはやはり曖昧でぶれやすいのです。痛みを経験したことで、「今度はやられる側でなく、やる側になろう」と考えてしまう可能性もあるからです。実際、日本は「唯一の戦争被爆国」であることを、「日本には原子力を使う権利がある」という論理に利用してきた歴史があります。
イスラエルでは、高校生が修学旅行でドイツのアウシュビッツ収容所を訪問します。それは本来、悲しい歴史を二度と繰り返さないための学びであるはずです。しかし、その学びには「二度とやられないために、やる側になる」という方向へ向かわせてしまう危うさもあります。実際、この2年間でイスラエルがガザに行ってきたことを振り返ると、人は痛みさえ利用してしまう現実があります。一方で、「この悲しみを誰にも経験させたくない」と勇気を持つ人たちが、イスラエルにも広島にもいることも忘れてはいけない事実です。
痛みをきっかけに、誰も犠牲にならない優しい世界を目指すのか。それとも、やられないためにやる側へ進んでしまうのか。痛みは、本当の優しさに気付く「曲がり角」なのかもしれません。そして聖書は、この問いに1つの答えを示しています。ローマ帝国の抑圧に対し、イエスは「誰も犠牲にならなくてよい」と語り続けました。その結果、十字架に架けられてしまいます。しかし、神はイエスを復活させ、「イエスは正しかった」と示しました。この出来事が教会の誕生につながり、「イエスは、ただ一度の犠牲であった」と聖書に記されています。
皆さんも痛みや悲しみに直面することがあるでしょう。その時、「なぜこの痛みが起こったのか」と考えてみてください。学問には、同じ問いを抱いてきた人たちの言葉や考えが残されています。それらを学ぶことで、痛みや悲しみを優しさへつなぐ道が見えてきます。また、留学生を含め、さまざまな背景を持つ人たちと出会うことも大切です。その出会いが実体験となり、自分なりの価値観を築く足場や土台になるはずです。
会計監査の視点から考えると、
経営者によってゆがめられた
会計情報にだまされず、
忖度することなく叱って正すことが
「優しさ」といえるでしょう。
経営者によってゆがめられた
会計情報にだまされず、
忖度することなく叱って正すことが
「優しさ」といえるでしょう。
- 商学部商学科
- 堀古 秀徳准教授
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関西学院大学大学院
商学研究科博士課程修了。
研究分野は会計学、会計監査論。
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数字のチェックだけではない。
企業の信頼性を支える会計監査。 -
「優しさ」と聞くと、何事も大きく受け入れる包容力を思い浮かべるのではないでしょうか。では、私の専門分野である会計監査の視点から見たとき、「優しさ」はどのようなものでしょうか。
元々、会計は英語でaccountingといい、「説明する」という意味を持つ動詞accountに由来します。また、監査は英語でauditingといい、その語源であるラテン語には「人の話を聞く」という意味があります。つまり、本来の会計監査とは、誰かの説明に耳を傾け、その内容を確かめる行為といえます。
現在の会計監査では、公認会計士などの監査人が、企業の業績を一覧にした“企業の家計簿”ともいえる財務諸表を、公正かつ独立した立場でチェックする役割を担っています。内容は正しいか、数字に誤りがないかを確認し、その会計情報が信頼して利用できるものであるかどうかを調べ、確かめます。
そして、もし会計情報に嘘や偽りを発見した場合、監査人は経営者などの情報作成者に対して、修正を求めなければなりません。さらに、情報作成者がその修正指示に従わない場合には、監査人はその会計情報に嘘や偽りが含まれていることを、監査の結果として報告する責任を負います。
一見すると、会計監査の仕事は事務的で当たり前のことをしているように見えます。しかし、現実はそう簡単にはいきません。指摘した修正事項が単純なミスに起因する誤りであれば、情報作成者は素直に監査人の指示に従うでしょう。ところが、それが経営者によって意図的に仕組まれた嘘や偽りであった場合、経営者は修正に抵抗することが予想されます。時には、あの手この手で監査人を懐柔しようとするかもしれません。また、修正を指摘したことによって、監査人と経営者との関係性が悪化する可能性もあります。
こうした状況において、監査人がだまされたり、情に流されたり、あるいは相手との争いを恐れて、経営者の肩を持つようなことをしてしまえば、その時点で監査人は経営から独立した第三者ではなくなり、監査は不成立となります。
では、監査人は、このような場面でどのように対応すべきなのでしょうか。相手の立場や事情に耳を傾けつつも、安易に迎合することなく、間違った方向に進もうとしている情報作成者を叱り、正しい方向へ導く。その姿勢こそが、会計監査という仕事に求められる「優しさ」といえるでしょう。 -
社会全体の公正を守るために、
「優しさ」という信念を貫く。 -
会計監査という仕事において、嘘や偽りを叱って正すという「優しさ」が重要な理由は、それらが見逃されることで不利益を被る人たちがいるからです。不利益を被る人たちとは、投資家や株主です。嘘や偽りが含まれた会計情報を利用して何らかの意思決定を行えば、彼らは不測の損害を被ることになるでしょう。その場合、問題のある会計情報を発信した企業や経営者だけでなく、それをチェックする立場にある監査人への信頼も失われてしまいます。企業・経営者、監査人、そして社会全体の三者を守るためには、ルールに則って善し悪しを正しく判断する会計監査のフェアプレー精神が不可欠です。そのために、監査人は揺るぎない公正さと、偽りを叱って正す「優しさ」を貫く信念を持つことが大切なのです。
監査人が専門家として信念を持って仕事に向き合うように、学生の皆さんも信念を持って学生生活を送ってほしいと思います。「信念」というと少し大げさに聞こえるかもしれませんが、「この1年、こんな風に過ごそう」という目標に言い換えれば、身近に感じられるでしょう。目標を持たずに過ごしてしまうと、糸の切れた凧のように流されるまま、4年間という長くて短い時間を過ごしてしまいかねません。ぜひ、何か1つでも目標を持ち、最後まで貫いてほしいです。そして、信念や目標を持つきっかけは、身近なところにあります。さまざまな人と関わり、話を聞いてみる。本を手に取り、読んでみる。その中で、面白そうと感じる何かに出合うかもしれません。他者の目を気にしがちな時代ではありますが、自分の人生を他者に委ねすぎることなく、自分自身が「善い」と思った方向へ勇気を持って進んでみてください。