幸せを求める個人 受け入れる社会

 
 注:1994年11月1日に西南学院大学で行われた、チャペルの講話として話したものです。

 ただいまご紹介にあずかりました、法学部の奥と申します。民事訴訟法、裁判法という科目を担当いたしております。先週の統一テーマは「結婚・家庭・子供」ということで、児童教育学科の坂口先生のお話をはじめ、いずれもほのぼのとした温かみのあるお話だったとうかがっております。なかにはほほえましいおのろけ話もあったようですが。

 それに対して今週の統一テーマは「幸せとは?」というものであり、話し手によっては、先週同様ほのぼのしたもの、となるのでありましょう。しかし、日頃から、人と人との争いをどのように処理するのが望ましいか、ということを考察することをなりわいとしていることもあり、また、私個人の性格もありまして、先週とはおもむきの違った話、例えて申しますと、先週があまいケーキであったとすれば、今日は、苦いコーヒーのような話をさせていただこうとおもいます。しばらくおつきあい下さい。

 さて、本論に入りますが、我々はいろいろな意味での社会集団の一員として暮らしております。家庭、という集団、仲良しグループ、という集団、学校や、勤めはじめると職場という集団にも属します。また、地域社会、や、広くは、市町村や都道府県、さらに国、また国際社会の一員でもあります。この、社会、というものは、通常、それなりの秩序を保っております。このことは、普段は当然のことのように感じていますけれども、考えてみれば不思議なことです。この不思議さは、新聞の国際面を開き、例えばボスニア・ヘルチェゴビナ等の紛争地帯のニュースを目にするとき、実感することができます。幸いなことに、大雑把に言って我々の社会は、一応の秩序がなりたっています。その際、公共的な権力、というものが直接、間接に活躍しています。しかし、この、権力なるものが秩序の維持を名目にやりすぎを行いますと、非常に窮屈なことになり、また、時には悲劇を引き起こします。皆さんも、ナチスの行ったアウシュビッツや、戦前の日本の特高警察のことをご存じだと思います。ご存じですよね。もしご存じ無い方は、是非、最低限の現代史の勉強をしておいてください。

 少し話がそれましたが、公権力、というものは、全くなくなると困るけれども、やりすぎも困るというものです。公権力の典型は言うまでもなく国家権力であり、きょうも、国家権力を念頭に話を進めますが、きょうの話は別に国家に限った話では有りません。例えば、学校における教師と学生の関係は、ある意味では権力的な関係です。そのなかで、学生が「もっと自由を認めてください。」というのに対して、堅物教師が「いや、秩序というものも必要だ。」と、学生の言い分を押さえつける、という事例は、皆さんも体験されたことがあるかも知れません。私の知るかぎり、本学ではあまりそういうことはないようですが、高等学校当時は、その種の不満を持たれた方もおられるものと思います。ともかく、我々が社会のなかで生活するに際して、秩序の維持を目的に、公権力の名の下に何らかの行為を強制されることは、ある範囲で認めざるを得ない、しかし、やりすぎは困るのであって、公権力の行使に対する制約、いいかえれば、我々個々人には自由が認められなければならない、そういうものだろうと思います。

 では、どの範囲で公権力の行使は正当化されるのか、いいかえれば、個々人にはどの範囲で自由が認められなければならないのか、ということが問題となります。次に、その問題についてお話しようと思います。なお、しばしば、秩序、の問題を論じるときには、「正義は実現されるべきだ。」ということがいわれたりします。今日読んでいただいた聖書の箇所である、アモス書第5章24節には、「公道を水のように、正義をつきない川のように流れさせよ。」と書いてありますが、これも、そういった意味のことなのかもしれません。もちろんこのことを私は否定するものではありませんが、問題は、この「正義」の中身です。今日の問題は、この、「正義」という理念を考察する、といいかえることができます。もちろんこの種の問題に明確なただ一つの解答があるはずもなく、おおざっぱな方向づけという程度の議論であることは理解しておいて下さい。また、この問題は、法哲学、政治哲学の分野で主として議論されており、実は私はとても専門家といえたものではないのですが、逆に、素人の特権として、大筋だけをかい摘んでお話させていただこうと思います。

 公権力の行使の正当化の問題について、大きく分けて二つの考え方があるといわれています。俗に、共同体論とリベラリズムの対立、といわれます。共同体論とは、個々のメンバーの属している集団には、その集団をその集団たらしめている価値、その集団固有の守るべき価値があり、その価値を守ることが公権力の行使を正当化する、という考え方のようです。それに対して、リベラリズムとは、次のような考え方であるといわれています。つまり、各人各人にとっての人生の意味や目的、これを、善悪の「善」の理念と呼びますと、人々はその意味での善にかなった生き方をしようといたします。しかし、当然、社会には他の人がいるわけで、その他の人の善にかなった生き方を侵害することなく行う必要はあるでしょう。そこで、そのための前提条件としての「正義」という理念を、今申しました善の理念とを区別し、公権力は、善と区別された正義の理念でのみ正当化しうる、という考え方です。

 リベラリズム、ということばは、最近の政治の動きのなかで、「社民・リベラル勢力」の結集、ということがいわれており、皆さんも耳にされたことがあると思います。また、宗教の分野でも、原理主義とリベラルの対立という図式があるようにうかがいました。しかし、今日私が「リベラリズム」の名のもとで論じる考え方と、今申しました文脈で使われる考え方とは、雰囲気は似通っていますが、同じ「リベラリズム」でも微妙に意味が違うようですし、また、同じ政治哲学の分野に限っても、「リベラリズム」という名称でよばれている考え方が、国によって、例えば、イギリスやドイツでは少し内容が異なっているようです。私の今日の話は、主としてアメリカでの言葉の使い方のようです。なお、私の言う「リベラリズム」は、単純な自由放任主義やいわゆる小さな政府論、何でもかんでも規制緩和、ということを主張するものではありません。人が充実した生活を行うためには、例えば、ある程度の衣食住の確保が必要であり、場合によっては、まわりからの援助が必要となります。そのことを、ここでのリベラリズムは否定するものではありません。その意味で、今日の演題は「幸せを求める個人 受け入れる社会」ではなく、「支える社会」でもよかったかもしれません。また、同じ意味で、この「リベラリズム」を、自由主義、と訳すのは適切ではないようです。、ちょっと難しいかもしれませんが、ともかくそういう議論があります。

 この考え方は、実は、各人各人にとっての「幸せ」とはどのようなものか、という議論と関係があります。その議論の概要につきましては、おてもとのパンフレットに簡単に触れておきました。いま申しました共同体論は、そこでの二番目の考え方によっているわけです。しかし、幸せな人生とは、周りから強制されてつかみとることができるものでしょうか。確かに、我々は、己の属している集団の一般の考え方や伝統から自由に生きられるわけではありません。しかし、伝統、だとか、社会常識といったものを、自分なりに解釈し取捨選択してはじめて自分にとって意味のある、幸せな人生を得られるものだと思います。他の人にとってどんなに良いことであったとしても、自分自身にとって良いことでなければ、その人の幸せにはつながらないでしょう。逆に、各人各人は、自分にとっての幸せというものを自ら考え抜かなければなりません。

 例えば、こういったところで、自分の話を持ちだすのも適当ではないかもしれませんが、おかげさまで私はそれなりに充実した生活を送ることができています。しかしそれは、自分自身の特性やものの考え方からいって、社会のなかの司法制度の役割についての研究とそれに基づいた大学教育という、この二つの営みに時間を使うことが、自分にとって幸せな生き方だと自分自身が選択したからだと思います。これが、仮に、第三者から、大学の助教授としての人生は幸せな人生だよ、といって押しつけられたものだとすれば、それが、一般の人にとってどんなにいい生き方であったとしても、今ほどの充実感は得られないのではないかと思っています。

 その意味で、各人の幸せとは、各人各人が自発的に掴みとるべきものであって、決して強制によって与えられるものではなく、従って、公権力の行使として人々に強制するにふさわしいことは、その基盤整備に限る、という考え方に、私は共感を覚えています。

 私はクリスチャンではなく、その意味では必ずしも話し手としてふさわしいとも思えなかったのですが、せっかくのお話ですので、お時間をいただき、お話をさせていただきました。今日の話は抽象的でわかりにくかったかもしれません。ともかく、社会人の、有権者の一員として、我々の属している社会、国家、というものがどのようなものであるべきか、ということを、皆さん自身にとってどんな人生が幸せな人生なのか、という問題とともに考えていただきたいと思っております。今日の私の話がその一つのきっかけになればたいへんうれしく思います。
 

以  上

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