映画における対人間コミュニケーション

対人間コミュ二ケーションでは、メッセージは発している側でなく、受ける側がその意味を決める。発している側の伝え方というよりも、受けて側が、そのメッセージをどう取りこみ、受け取るかで、そのメッセージの意味が決まる。

メッセージを発する側でなく、受けて側が決めるという「reflection」という性質は映画にもいえるのではないか。

つまり、映画は監督がつくって何らかのメッセを発するものだけれど、その評価を決めるのは、受けて側、見ている人一人一人である。映画の作品そのものはひとつしかないものだけれども、見る側にとってそれぞれの評価がある。10人居れば10人それぞれが取り込んで、評価した映画がそれぞれにあるのであり、他の人が評価した映画とは質が異なるものなのではないか。同じ映画でも、観客(受けて)の年齢・国籍・性別・文化・見た時期・見た状況・心情によってその映画の評価は変わる。同じ人物でさえ、再度 同じ映画を見ても評価が変わることがある。評価というものは流動的なのである。

ここで紹介するのが 

小津 安二郎 日本映画界を代表する巨匠 による

「東京物語」  昭和28年に撮られた、黒澤明の「7人の侍」に並ぶ有名な日本映画。

世界歴代映画ベスト10に入る名作である。 

あらすじ

この作品は尾道の風景から始まる。尾道に住む平山周吉70歳(笠 智衆)と、とみ67歳(東山千栄子)が、東京で暮らす子供たちの所へ旅をする話である。東京で病院を営んでいる長男幸一夫婦(山村聡、三宅邦子)や美容院をやっている長女志げ(杉村春子)、戦死した次男昌二の未亡人で28才の紀子(原節子)の所に遊びに行く。しかし子供たちはそれぞれの生活、仕事を持っており、なかなか老夫婦の面倒を見ることができない。唯一東京見物につきあってくれたのは血のつながりのない戦死した次男昌二の未亡人紀子(原節子)だった。それでも二人は元気で働いていている子供たちを見て安心して東京を去る。しかし とみが帰りの列車の中で体調を崩し尾道に帰ってから死去する。子供たちは母危篤の電報で尾道に呼び戻される。葬式の後、子供たちはそれぞれの仕事に戻っていく。

この映画の見所

1、カメラワークがなく静止画をつなげて、シーンをつくっている。

決してフェードイン・フェードアウト、オーバーラップをせず、カットとカットを直接つないだ。それによって、写真のように、調和のとれた美しい情景を描くことに成功している。

2殺人事件等のなにか大事件が起こるわけではない。ただ老夫婦が東京の子供を訪ね、妻が死ぬ。それだけなのである。言うなれば、特にメッセージというものは存在していない。

しかし方言・仕草から伝わる純朴な優しさから伝わる人情。老夫婦の絆。死とは老いとは何か、という問いかけを、受け手が感じることによって初めて、この映画は意味を与えられるのだ。

1、映画のメッセージを受け取る側がそのメッセージの意味を決める

今では、この作品は秀逸だと評価しているが、高校の頃この映画を見て、10分足らずで退屈で寝てしまった。しかし、最近、再びみたら涙が止まらなくなるほどの感動を覚えた。この変化は、受け手である私が変わったからなのである。

もちろん、映画そのものは同じものである。しかし、私が成長したこと、つまり「老い」を真剣に考える経験をつんだことで、この映画に描かれている老夫婦のしぐさ・言動が心の琴線に触れたのである。受け手(私)が、変化したことによって、映画の発するメッセージ(意味されるもの)の捕らえ方が変化したということである。

2、文化が違うことで評価も違う。

小津の作品が、ハリウッド映画に影響されているのはあまり日本では知られていない。彼が監督になってからしばらくは、ハリウッドのどたばたコメディや犯罪アクションを意識した映画を数多く作っている。その経験が、突然にあの小津スタイルをひらめくきっかけとなったわけであるが、ここまで自分らしさを表現できるようになれた監督は世界で小津をおいて他にはいない。一度確立させたスタイルは、小津は死ぬまでやり通した。

海外では、小津はハリウッド映画に影響されながらにして、もっとも純粋な「日本の伝統」を語る庶民劇を映画にし、東洋と西洋映画の長所を混ぜ合わせた独特のスタイルを確立した。それは日本だけでなく映画の歴史に残る偉業である、ということで高く評価されている。

日本では混ぜ合わせたというよりも伝統的日本文化 家族の絆を描いている巨匠という認識が強い。このように文化圏が違えば評価も違うのである。

映画は何百年前にとられてようと、それ自体は全く変わらない。映像と音と照明とが記録されているモノである。しかし、受け取るメッセージは人によって違う。国籍・年齢・状況・性別等によってひとりひとり違った取り込み方をするのである。作品は1つでも見る人間の数だけ映画があるといいかえてもいい。他人と評価がちがってあたりまえなのである。むしろその映画を自分がどう捕らえているのか、なぜ他人と受け止め方が違うのかを考えることが大切である。それによって自分のしらなかった自分の考え方や性質を見出せたりする。それこそが映画の醍醐味なのである。

したがって、対人間コミュ二ケーションにおける「reflection」と映画の発するメッセの意味を受け手がきめるというの「reflection」は 同質のものである。

しかし、映画の場合は 対人間コミュ二ケーションと違って、何年でも残るので、これから自分が変わることによってまたすばらしい作品に出会える機会があるのである。生きている間に、多くの作品に出会い、大いに議論していきたいものである。

 

東京物語

1953年 小津安二郎監督作品

溝口 優