池森 藍子

 私は映画の中のコミュニケーションの容態を見つける、という作業で、2つのテーマが入っている「ビフォア・サンセット」という作品を選んだ。この2つのテーマとは、恋愛とリアルだ。私たちのいる現実に身近であり、私たちも経験していく恋愛について等身大に描かれているこの作品の中で2人のコミュニケーションの様子を考察したいと思った。また、授業中に習ったミードの、「受け手の反応が送り手の行為の意味を決める」そして「se parler」の定義がシンプルに現れている作品として発表したかった。

 まず、この作品は9年ぶりに再会した恋人たちの会話で成り立っている。ジェシー(イーサン・ホーク)が飛行機でNYに飛び立つまでの85分間、二人は9年前の恋の結末を確かめたい気持ちを秘めながらお互いのことについて話していく。映画自体も85分間、そしてほとんどBGMもなく、他の出演者もなく、二人の会話を追っていくリアルタイムな展開で映画は進む。

 二人は場所を変えながら、歩きながら、様々なことを話していく。本当はお互いの気持ちを確かめたいのにそうできない間のとりとめのない会話として、二人は人生について、恋愛について、セックスについて、社会についてお互いの考えていることを話す。私は発表でも「とりとめのない会話」という言葉を使ったが、本当はそうではないのではないかという気持ちが芽生えてきた。スピードのあるジョークを交えた会話もたくさんあるが、ジェシーは自身の結婚生活を通しての結婚観を話すし、セリーヌ(ジュリー・デルピー)は恋愛に対して臆病になっている自分をさらけ出す。そして二人は今まで生きてきた中で生まれた考えをぶつけ合う。それはお互いを知り、自分を知る行為、つまりコミュニケーションと言える。

 そして二人の会話に欠かせないのが、二人の「関係」である。昔愛し合った、そして今も・・・という「恋愛」を通した関係が二人の会話を広げ、また制限していく。二人の間に恋愛がある(もしくはあった)からこその見栄、想い、という様々なファクターが二人のコミュニケーションと密接している。それは恋においてだけではなく、友情、家族、異性、同性、などの各関係にも言えることである。

それらのコミュニケーションは私たちも経験していることであり、この作品では中には状況が似ていたり、二人に共感できる人も多くいるだろう。現実に存在しうるコミュニケーションの形がリアルに描かれていて、この作品を見ることで私たちの身近にあるコミュニケーションの形の1つを見つめられたと思う。

 

 次にミードのコミュニケーション理論と作品を照らし合わせたいと思う。

 送り手の発した言葉を受け手がどう受け取るかでその言葉の意味は決まる、この作品は二人だけの会話なのでこの定義を見出すには都合が良いと思った。顕著に現れていたのは、二人が会話をジョークにしてしまうところである。送り手が9年前のことや今の二人の関係に触れようとすると、受け手はジョークとして返し、その会話はジョークとして成立する場面が多く見られた。しかもお互い受け手にも送り手にもなっていた。それを私は「駆け引き」として興味深く感じたわけだが、今では二人にコミュニケーションを操ろうとするそのような余裕はなく、コミュニケーションが終わった後で「そうなるしかなかった、そうならざるをえなかった」というような形だったのだと思い直した。「意味」は人間の心的状態に生じるものではなく、コミュニケーションのプロセスの中に客観的に存在するもの、というミードの考察が少しだけ理解できたような気がした。「意味」を見出せるのはコミュニケーションからであり、私たちはコミュニケーションを振り返ることで初めて「意味」を掘り出せるのだ。

次に、「se parler、コミュニケーションを通して自我ができる」という定義をこの作品の中から見出したいと思う。

二人は人生や社会、恋愛について様々なことを話し合う。男女や個人で違う物の見方が浮き彫りになっている等身大の会話だ。その中で、自分の発した言葉は相手に聞こえるように自分自身にも聞こえている。そして相手の反応を自分自身に取り入れることができ、相手の反応を相対的対象として自分の発した言葉の「意味」を理解する。

二人はお互いの意見をぶつけ合いながら、お互いの鏡となり新しい自分を形成していく。しかしそれは確固たる個人というよりかは、コミュニケーションの中から浮かび上がってきたsoiである。この定義は私にはまだきちんと理解できていないが、イメージは何となくできる。soiは自分だけのものというよりかは客観的に見た自分に近く、soiである限りコミュニケーションを続け、自分を浮かび上がらせていけるのでないかと思う。逆にmoiになると自我が固まり、閉じた状態となり、相手の反応を受ける柔らかさがなくなるように思う。相手の話を真剣に聞き、また自分の価値観を出していく二人のコミュニケーションの後には様々な二人の人物像が見えてくる。

最後に「映画の中のコミュニケーション」ということで、観客と映画のコミュニケーションについて考えたい。

まずこの作品が観客に与えた最大の発信はラストである。二人がどうなるかは見せないで終わるからだ。その後どうなったのかは観客の受け取り方次第ということになる。自分の恋愛経験や解釈の仕方からどんな結末でも当てはめられるようなゆとりを持ったラストだ。等身大でリアルな二人と会話を描いてきたのだから、観客はそれぞれに思い入れを持ちラストを見守ることになる。そのそれぞれに応えるためにラストを観客に委ね、観客と映画とのコミュニケーションが成立している。

また、映画は作られているものである。今まで見てきたこの二人の会話も考えられたものである。考えられ、作られたコミュニケーションを不自然なく見せるには作り手がコミュニケーションの定義と構造をよく理解していなければならない。今回、人間のコミュニケーションをただ見つめていくのではなく、演戯の中、映画の中から見つめた意義の1つにこのことがあると思う。これからも数々の映画を見て、コミュニケーションについて考察し、ミードなどコミュニケーション理論を述べている研究者などの定義を理解できるようになりたいと思う。そして自分なりに考察していきたいと思う。

ビフォア・サンセット Before Sunset

2004年リチャード・リンクレイター監督作品