監督ジム・シェリダンのこの作品は、アメリカへ移住した際の彼自身の実体験に基づいた作品です。実の娘たちとの共同で執筆した脚本には、癒されない過去の記憶や笑うしかないどん底の生活とともに、現代のアメリカの抱える人種差別などの社会問題が織り込まれていて一見悲痛極まりない映画物語ですが、シェリダンは少女たちの無邪気で純粋な視線から出会いや再出発についての物語へと変貌させています。そしてさまざまな角度から人物の奥深くに迫ることで、《家族》という普遍的なテーマを浮かび上がらせています。

映画は未知の世界ニューヨークで彼らが出会う人々や出来事を通して、家族の絆の美しさを描きます。常にビデオカメラを持ち歩く長女クリスティが、物語の視点となり、彼女のナレーションが随所に挿入されています。活発な妹アリエルに比べると静かでおとなびているクリスティは両親の心の奥にあるものを見抜いていて、哀しみのあまりどこか妄想の世界に生きていて、なかなか現実を見ようとしていない部分がある両親を冷静に見つめています。映像には両親の夫婦愛、娘たちへの愛、失った息子への絶望、先の生活への不安と恐れが映しだされている。

映画は、二人が息子フランキーを病気で亡くした衝撃から立ち直れないまま娘二人を連れてアイルランドからニューヨークへ移り住むその入国シーンからはじまります。

新鮮な生活に“未来”を見つける娘たちに対して、ジョニーとサラは息子フランキーの死という“過去”に縛られているのが印象的なシーンです。

 

こうして移り住んだアパートの環境は最悪で極貧と酷暑に悩まされ、汚いアパートには鳩が巣くい、近所にはジャンキーが群れています。くすんでゴミゴミしたマンハッタンの悲惨な日常は、アメリカ映画で見る華やかなNYとはまったく違いった印象を映しています。その悲惨な日常のなかで映像とのコントラストでユーモアを出しているのが幼い姉妹の明るさです。本当の姉妹ならではのリアルなはじけっぷりは、それだけでも無条件に心が癒されます。

この作品にはこのようにコントラストがいくつも登場します。未来と過去、夢と絶望…。例えば、移民と白人もその一つです。登場人物のほとんどは、ハーレムに暮らす移民で、彼らの間でさえ、人種差別が横行しています。劇中の白人といえば、オーディションの審査員(ジョニーは売れない俳優だ)や病院の医師、冷たく医療費額を告げるだけの女性職員など、いわば“優位に立つ人々”。当然、貧困と富という対比もあり、それが象徴的な描かれ方をしているのが、二人の娘が通う学校のハロウィン・パーティーのシーンです。

そしてこのハロウィンの夜、同じアパートに住む黒人・マテオと主人公家族とが始めてかかわりあうこの映画のターニングポイントとなります。アパートに暮らす黒人アーティストのマテオはどこか神秘的ではあるが、実際にはニューヨークのあらゆる抑圧を一身に浴びる現実的な人間の象徴といえるとおもいます。不気味な雰囲気をかもし出すマテオとクリスティたちとの出会いのシーン。最上階の家族の部屋からひとつずつ降りていって、扉をたたきながら「トリック・オア・トリート」と叫ぶクリスティたちに返事をする住人はいませんでした。ただ一人扉を開けてくれたのが、周囲から叫ぶ男と呼ばれていた変わり者の黒人マテオです。

 

最初はかすかに警戒していたクリスティだったが、もう一人の家族、一番下の弟フランキーが引っ越してくる前に死んだことを告げたとき、涙したマテオの姿を見たときから、彼に心を許すようになります。

このあとからマテオと娘たち、妻のサラの交流は深まっていきます。特にマテオとの出会いにおいて心に残るのは、彼とジョニーの出会いです。もうすぐ生まれてくる子供の危険を娘たちに隠そうとするサラと隠しきれないジョニーが衝突し、ジョニーが家を飛び出していくシーン。

日頃の不満をあたり構わずぶつけるジョニーに対して、画家マテオが静かな還る覚悟を告白します、このときの二人のコミュニケーションの中では、数少ない言葉の中からマテオの人間性の深さが垣間見え、さらにそこからマテオが不治の病気(恐らくはエイズだと思いますが)に冒されていることを見抜くというジョニーの鋭さをうかがえるシーンがあります。

 

そしてここから少しずつ娘たちに変化が起こります。

どちらかというと始終無口で、ビデオを手離さずに構えるクリスティと、よく話しよく笑うアリエルが、新しく生まれる子どもが危険で母親が病院に入院し、父親だけを目の前にしたときです。

どこに逃げて移り住んでも、生きた子どもを前にしても、失った子どもを捜し続けて目の前の子どもを見ることを忘れた父親への痛烈な非難が娘たちからの一言から感じることができます。

さらにそれまで強く見せていた妻は、出産で錯乱したとき、「アナタのせいであの子が死んだ」と自責を誰かのせいにせずにはいられない程の苦しみを吐き出します。

父親は初めてそこで目覚め、自分達なんかより、ずっとずっと苦しんでいたのは子供達だった事に気づきます。
子供にとって親は絶対的存在ですから、みんな自分を愛して欲しい、自分の方を向いていて欲しいものです。
例え兄弟の一人が不幸にして亡くなってしまっても、私達がいるんだよ、もう哀しまないでと言いたかった、そんな想いが彼女のセリフと表情、カメラを止める一瞬まで胸に響きました。

 

最後にクライマックスのシーンです。生前、死ぬときはきちんとさよならを告げるというマテオとの約束を果たせなかった妹アリエルに姉と父親が嘘をつきます。このうそに妹は、姉と父がうそをついていると理解して、そのうそに報いるためにうそをついたのか。あるいは自分だけ見えないということを知られたくなくてうそをついたのか。アリエルにとってはどっちなのかはわかりませんが、その嘘につられるように父が、「グッバイフランキー」と言わされます。決してさよならなどできるはずはないのだが、自分に嘘をついてグッバイという。嘘だと知って、その嘘のその奥にある人間の悲しみを共有しているそのシーンには、画家のマテオが死に瀕して「生きているもの全てを愛している」と叫んだ静かな還る覚悟が、父親にフランキーの「死」ではなく、たとえ短くとも一つのライフサイクルであったその「生」を認め、フランキーの死を見送る力を与えていたということがわかります。そして、フランキーの一生を認めることができた時、父親は凍りつき固まった感情を解き、ようやく涙を流すことができます。

この映画では、父親、母親の目線と娘である姉妹の目線がそれぞれ並存しながら、描かれているのが印象的で面白いと思いました。親の目線で過去に対する悲しみをリアルに捉え、さらに、子供たちの目線で捉えることで、あまりに悲しい色合いが強くならぬよう調和が取れた作りとなっているとおもいます。だからこそ、親の抱える悲しみと素直に胸に染み込み、話に引き込まれました。子供の抱える悲しみの微妙な違いが表現され、それぞれがそれぞれで悲しみを乗り越えるということが伝わってくるのだと思いました

 

アイルランド人が制作した米国NYの映画です。この映画は、あくまで優しく「家庭」という普遍的な問題を描いています。長男フランキーの「死」を契機に、「家庭」のアイデンティティを喪失した家族が、それを取り戻すまでを、あくまで「優しく」、ユーモアをまじえて、その根本に普遍的な「愛」を置いて描いています。それを日常的に描くこの監督の手腕と、何よりもこの映画の性格を象徴するようなサラ、エマの姉妹の演技が

素直に胸に染み込み、話に引き込まれました。

イン・アメリカ In America

坂本千紘

2002年 ジム・シェリダン監督作品