誰もが自分とは何なのかという問いに戸惑う思春期の女の子を主人公にした映画「花とアリス」。
この映画の中のコミュニケーションと自我の変化に注目してみていきたい。
花とアリス(2004/日本)
≪監督・脚本≫ 岩井俊二
≪出演≫ 鈴木杏 蒼井優
幼なじみのハナ(鈴木杏)とアリス(蒼井優)。ハナは落語研究会に所属する高校生・宮本(郭智博)に一目惚れ。同じ部活に所属し、なんとか宮本に近づこうとするハナ。そしてある嘘をついたハナは、宮本と急接近する。宮本に自分自身が記憶喪失だと思い込ませ、自分たちは恋人同士であると思い込ませるのである。しかし、その嘘がバレそうになり、さらに嘘をつくはめに。しかもその嘘がきっかけで宮本がアリスに恋心を抱いてしまう。微妙に変化していくハナとアリスの関係。友情と恋のはざまにとまどいつつ、ふたりは少しずつオトナの階段を昇っていく。
そもそも自我とは何か?--G.H.ミードの見解—-
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ミードは、人間のコミュニケーションが、相手の態度を取得し、相手の立場から自己を対象化するという自省的能力に基づいたものであることを発見した。人間の「自我」(そしてその「意識」や「思考」も)、そのようなコミュニケーションを通じて形成されてくるものであると考えた。
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自我の中身としての「主我」(Je)と「客我」(me)
客我me=態度取得された他者によって期待・検閲されている自我(→習慣)→自我の行動を規制、因習的、
主我I=自発的行為する自我、客我に対して反応→自発的・創造的、予測不可能・
「花とアリス」の中のコミュニケーションと自分探し
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嘘をつくというコミュニケーション
「私に告白しこと覚えてないなんて、先輩記憶喪失ですよ!!」
この映画の中で、話の軸となるハナの嘘。ハナはこの嘘によって、宮本の中に宮本の恋人である自分を生み出した。この「自分」とは宮本が記憶喪失だと信じている限り存在できるが、嘘がばれてしまえばどこにも存在しなくなる。しかしこの物語では、嘘がばれた最後の最後に、本当に宮本の恋人になるという大どんでん返し待っている。
ではその宮本の変化を、ミードの自我論を参考に分析してみる。
・自分は記憶喪失で、ハナの恋人だと思い込まされる(客我1の取得)
・本当に記憶喪失なのか疑問に思う(主我1)
・ハナは嘘をついていると確信し、ハナを問い詰める(主我2→<「客我1→主我1」=客我2>)
・ハナが嘘をついていたことをアリスに知らされる(客我3の取得)
・ハナの泣きながらの告白に結局心奪われる(主我3→客我3)
人とコミュニケーションをとる中で人はこんなにも自我が揺れ動くのだ。自我というのはあやふやで、固体のように完全な形で存在するものではないのだ。
・ コミュニケーションに刺激され変わっていく自我
しばしば挿入される番外編的なエピソードは個々に独立した短編映画のようですらあり、それが予想外の引力となって物語に鮮烈な化学反応をもたらしている。この化学反応が、「自我」を創るプロセスになっている。
私たちはみんなひとつのコミュニティーだけで生活しているわけではない。学校、アルバイト、サークルなどなど・・・さまざまな団体の中に身を置いている。それぞれに違った客我を取得し、その客我が主我と刺激しあって新しい「自我」が生まれる。この作品の中にも3つの違ったコミュニティーそれぞれに、違った顔を持った主人公がいて、そこでのエピソードが本編の主人公自身に影響を与えながら少しずつ変わっていく主人公を観ることができる。
番外編には3つのエピソードがある。
@
アリスと家族
A
アリスのスカウトとオーディション
B
バレエ教室
@の中のアリスは自由気ままな母親に翻弄され、離れ離れの父親には寂しいような恋しいような気持ちをアリス自身も気づかないまま秘めている。Aの中では大人たちの前で「自分」をどう表現すればいいのか、「自分」とはいったいなんなのかがわからず戸惑っている。Bでは同年代の仲間と戯れながら楽しく踊るアリスがいる。
本編で宮本の元恋人を演じ、デートをするシーンがある。
ねぇ。覚えてる?
ここで帽子落としたの。
きっとこの下に沈んでると思う。
ねぇ。覚えてる?
海でトランプしたこと。
風でトランプが飛ばされちゃったよね。
ねぇ。覚えてないの?
アリスは記憶喪失である宮本のもと恋人を演じている。一方でこれは父親との思い出であり、それは父に対する問いかけでもある。宮本の元恋人を演じる中で父に対して抱く恋しさや寂しさを抱く自分と出会う。違う自分と出会うことでオーディションでも自分を少しずつ表現できるようになっていく。そしてそのことが、ただ楽しみで踊っていたバレエを自分を表現する手段に変えた。
3つのエピソードの中のアリスが、周りとのコミュニケーションによってそれぞれに刺激を受け、アリスの中の「自我」が変化していった。
ミードは「自我」とは「構造」ではなく「過程」として捉えなければならず、絶えず主我が客我を採光性していく過程が自我の正体であると述べている。私たちもアリスやハナと同じように色々なコミュニティーのなかでの自分を持ち、それが本来の自分と反応し合いながら、新しい自分に少しずつ変化している。人は人とコミュニケーションをすることによって自分を創造しているのだ。これからどんな人と出会い、どんな自分を見つけていくのだろう。知らない自分に出会うのが楽しみだ。
2004年岩井俊二監督作品
中尾ふみ