『スペーストラベラーズ』におけるコミュニケーション
映画『スペーストラベラーズ』は、孤児院育ちの幼なじみ3人が銀行強盗として閉店間際の銀行を襲撃し、しかしたび重なるアクシデントゆえにその中に居合わせた銀行員や客を人質にとり、そして彼らを自分たちの仲間だと偽って、包囲する警察を翻弄してゆくコメディである。主な登場人物は、銀行の中にいる3人の犯人と巻き込まれた人質6人の、計9人。彼ら9人は集団で、あるいは場面により対面している特定の人数でコミュニケーションを成り立たせていくのだが、詳しいことに触れる前に、彼らの名前と特徴を挙げておくことにする。
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西山保 幼なじみ3人のリーダー。頭が良くて頼られている
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藤本誠 幼なじみ。アニメオタク。
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高村功 幼なじみ。無口。
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相田みどり 銀行員。結婚を控えているが現在も未来も不安。
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坂巻隼人 指名手配されている国際的テロリスト。娘に会いにこの街に来た
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清水孝宏 銀行員。自分に自信がなく人前に出るのが苦手
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深浦巧一 離婚寸前の夫婦。
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深浦公子 離婚寸前の夫婦。
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倉沢慎太郎 近所の電気屋。カードの暗証番号を忘れて店内で粘っていた
保・誠・功の3人は孤児院育ちの幼なじみなのだが、そうはっきりと言葉に出てくるわけではない。映画の冒頭で、幼い3人が孤児院の前で並んで撮っている色褪せた写真が1枚うつるだけで、あとは「お前小さい頃からなんもかわんねーな」だの「シスター怒ってんのかな」だの、それらしいことを覗わせるやりとりがあるだけだ。さらに言うならば、映画の中で3人が一緒にいるシーンというのは、銀行に向かう車の中と銀行の中でピザを食べているだけという少なさだ。だがその少なさこそ気心知れているもの同士の1つのコミュニケーションであるし、逆に、彼らだから成り立つコミュニケーションと言えるだろう。
その対極なのは深浦夫妻だ。深浦巧一と深浦公子は、離婚の為に貯金通帳のお金を2等分するために銀行にやってきた客で、登場シーンからとにかく2人は言い争いをやめない。嫌い合っているのに近くにいて、口をきかなければ良いのに文句を言い合う。そういう部分が仲の良い幼なじみ3人とは対照的である。彼ら2人のやり取りで一番印象的なのはみんなで円になってピザを食べているシーンで、これもまた仲が悪いくせに隣の席に座っているのである。そして離婚の話になったとき、子供には親は必要ないと何気なく言った言葉に保が「どんな親だって子供はいて欲しいんだよ」というシーンがある。このときバツが悪そうに、申し訳なさそうに、そういった感情を滲ませながらも声にすることなく顔を見合わせる夫婦、というのが印象的だった。思っていることを何でも口にしているような夫婦だったからこそ、その沈黙には意味があった。口げんかは当然ながら言葉を必要とするコミュニケーションの形態だが、また彼らも言葉無しの繋がりを、幼なじみ同様に持っているのだ。
銀行員の相田みどりは自分がこれで良いのかと不安に思いながらも、適当な学校に行って、適当に就職して、適当な人と結婚するところだったのを、この出来事を転機に、自分は変わるんだと意識を持った人物である。同僚の清水孝宏も、人前に出るとあがってしまって何も出来なくなる自分を厭いながらもどうしようもなかったところで、自ら名乗り出て1つの大きな仕事をやり遂げたことを機に、少しずつ自信を持ってゆく人物である。坂巻隼人は自分が指名手配犯であることを負い目に、街に来たは良いものの会ったことの無い娘に今更会いに行くのに躊躇っていたところを、保の「どんな親でも子供はいて欲しいんだよ」という台詞に背中を押された人物である。倉沢慎太郎は子供うんぬんの話を聞いていて、忘れていたカードの暗証番号が自分の子供の誕生日であると思い出した人物である。
彼らはみな立場は違うが、程度の差こそあれ、変身願望があった。変身とまで言わなくても、良い方向への変化を欲しがっていた。ある者は口にし、ある者は口にしなかったけれど、映画を最後まで見ると、そういう部分を持ち合わせていたのだろうと思う。そしてその変化の切っ掛けはやはり9人全員の、集団でいたからこそ産まれたものだと思う。銀行という1つの限られたスペースに、その同じ場所に存在した人間だからこそ、目と目を合わせて向き合い、互いが影響しあって得られたものなのだ。
『スペーストラベラーズ』はコメディである。したがってそこは削ってもストーリーには何ら影響が無いといったやり取りも始終散りばめられている。だがそれはコメディの基盤ともなる、深い意味を織り成す目的があるわけではない、コミュニケーションが存在することがすでにコミュニケーションの目的となっている遊びの部分である。そしてコメディであってもストーリー全体のキーとなるのは『子供』で、それに関しては言葉を発する人と言葉を受ける人の間で意味を噛み締めながら繰り返すという、影響力のあるコミュニケーションになっている。映画の登場人物はどれもタイプの違う人間で、それぞれがタイプの違いそのままに違う役割を持ってコミュニケーションを成り立たせていた。たくさんのタイプの人間がいたから、たくさんの種類のコミュニケーションが成り立つ。そしてそれが成り立っているからこそ、その映画と、その映画を見ている人間との間のコミュニケーションも成り立つのであると言える。『スペーストラベラーズ』に限らず、そういったロジックを持って、大衆うけする映画というのは存在し得るのだろう。それこそが最終的に映画のコミュニケーションの醍醐味なのかもしれない。
2000年本広克行監督作品
三宮 麻衣