モーパッサンの短編小説『A cheval』に見られるパリ



北條 明日香

 ギィ=ド=モーパッサンは、1850年8月5日にノルマンディーで生まれた。母、ロールはブルジョアの出身で、文学や芸術についての教養があり、息子ギィにもシェイクスピアの作品によって、空想や想像の世界を学ばせた。父ギュスターヴは成り上がり貴族の出身で、1846年、貴族の称号「ド」の権利を法的に得た。彼は絵画を好み、絵画のコレクションがあり、自分でも描いていた。ギィは芸術上の影響を両親から受けているといえる。
 1850年代、モーパッサン家はノルマンディー地方とパリに滞在した。1859年、モーパッサンが9歳のとき、父がパリの銀行に就職したため、家族でパリに移り住む。しかし、その後両親が離婚し、父は一人パリに残り、モーパッサンと弟と母はノルマンディーの小さな町に引っ越す。13歳の時、寄宿学校に入学するが、そこでの教育に反発を感じる。その校則の厳しさは、モーパッサンを文学へと向かわせるきっかけとなった。彼は、寄宿生活の息苦しさを、詩を書くことによって紛らわせるようになっていた。しかし、学校や教員をからかうような反抗的な詩を書いたため、退学となった。
 1869年、バカロレアに合格し、10月にはパリ大学の法学部に登録する。しかし、1870年の普仏戦争で召集を受け、ノルマンディーを転戦することになる。戦争後、海軍省で働き始めるが、仕事には自分にはあっていないと感じていた。その陰気な役所時代、セーヌ川でのボート遊びが唯一の楽しみであった。役人生活(海軍省の後、文部省)にうんざりしていた頃、フロベールのもとで文学の修行を始めることにする。
 1877年頃から体調を崩したため、長期休暇を取り、その休暇を利用して執筆活動を活発に始める。その頃から、南フランスや北アフリカ、イタリアを旅行し旅行記も描くようになる。作家としての成功を収めていたところだったが、1889年に弟エルヴェが精神病院で死亡したショックや発狂の恐怖から精神が不安定になり、自殺未遂を図るようになる。そして、1893年7月、43歳という若さで亡くなる。
 30歳前後から10年の間に、なんと長編小説6編、中・短編小説300編、戯曲7編、詩集1巻、紀行3巻を書いた。発表作品のうちでも、短編(contes)は、どれも傑作と認められ、フランス国内だけでなく、世界的にもモーパッサンの名は知られるようになった。中・短編小説に描かれているものは多彩で、人物としては男女、家族、役人、乞食など、風景や地理としては、海岸、農村、都会(パリ)、郊外(セーヌ河畔)などがある。
 モーパッサンの生きた19世紀後半は、フランスが近代国家形成の最終段階にあった時期である。モーパッサンがパリに住んでいた頃のフランスは、第二帝政期で、派手で浮ついた時代といわれている。中小実業家や、商人たちが経済力を持ち始め、そういった新興ブルジョア階層のためのオペラ、コメディの舞台が流行っていた。モーパッサンも、そうした劇場や歓楽街に魅力を感じて、たくさんの作品を出した。

 A CHEVAL
 1883年、ゴーロワ紙に掲載された短編小説。紹介する一節はパリの街、特にシャンゼリゼ通りの賑わいを馬や馬車の描写とともに描いている。フランスは道路の改善が18世紀から積極的になされ、馬車のスピードものびていった。そのため、馬車は人々の主要な交通手段であり、馬車の時刻表まで出版されるようになっていた。この時代のパリは、第二次帝政期の混乱などを反映し、街は人や馬車で非常に賑わっていた。モーパッサンはその様子を、凱旋門やコンコルド広場、オベリスクなどのパリを代表するものを登場させながら描写している。
 主人公、エクトル=ド=グリブランは貴族だが、田舎育ちで、あまり金持ちではなかった。20歳の時、海軍省に雇われる。しかし、仕事は彼に合っていなかった。そのため、毎日をなんとなく過ごしており、唯一の気晴らしといえば、妻との散歩であった。この主人公は、海軍省で働き、その仕事が好きではなかったモーパッサン自身を描いているようである。
 ある日、エクトルはボーナスとして300フランを受け取る。そこで、妻と子供二人を連れ、4輪馬車と馬を借りて田舎に出かけることにする。そこから帰るとき、シャンゼリゼを通って、家に戻ることにしたのだが、次の部分は、そのときの様子を表したものである。シャンゼリゼの賑わいを描写した部分を特に取り上げてみた。
 
La vaste avenue fourmillait de voitures. Et sur les c冲市, les promeneurs師aient si nombreux quユon e柎 dit deux longs rubans noirs se d屍oulant,depuis lユArc de Triomphe jusquユ la place de la Concorde.
 その大きな通りは、馬車でひしめき合っていた。通りの両側には歩行者が多く、凱旋門からコンコルド広場まで、2本の黒いリボンが広がっているようであった。
 シャンゼリゼ通りが、どれだけ混雑しているのかを、切れ目のない人通りをリボンに例えることで表している。ここに出てくるvoitureは、この時代、車ではなく馬車であった。

Une averse de soleil tombait sur toutce monde, faisait 師inceler le vernis des cal縦hes, lユacier desharnais, les poign仔s des porti俊es.
 太陽の光が、みんなの上に降り注いでいた。馬車のニス、馬具の鋼鉄、馬車のドアの取っ手を輝かせていた。
 シャンゼリゼ通りの明るさや華やかさを、太陽の光やその反射(ニス、鋼鉄、取っ手などの光るもの)による輝きで表している。

Une folie de mouvement, une ivresse devie semblait agiter cette foule de gens, dユ子uipage et de b腎es.Et lユOb四isque, l-bas, se dressait dans une bu仔 dユor.
 往来の賑わいは、人々を活気づかせる。向こうにあるオベリスクは、金の靄の中にそびえ立っていた。 
 人々の往来の賑やかさとは対照的に静かにそびえ立つオベリスクが印象的である。午後4時から5時くらいのシャンゼリゼを描いているCraftyの絵にも、混雑の様子が見て取れる。現在、パリの街にそびえ立つエッフェル塔は、1889年に建てられたものなので、この小説が書かれたときにはまだ存在していない。エッフェル塔が建設されるのを多くの作家や文化人が反対していたが、モーパッサンもそのうちの一人であった。しかし、建設後は女の人を連れて、エッフェル塔に通っていたとも言われている。

Le cheval dユHector, d峻 quユil eut d姿ass四ユArc de Triomphe, fut saisi soudain dユune ardeur nouvelle, etil filait travers les rues, au grand trot, vers lユ残urie, malgr師outes les tentatives dユapaisement de son cavalier.
 エクトルの馬は、凱旋門を過ぎると突然、騎手のなだめにもかかわらず、厩舎に向かって激しく、通りを走っていった。
 このとき、エクトルの馬と馬車はコンコルド広場へ向かって、凱旋門をちょうど過ぎようとしていたところだった。しかし、馬は、シャンゼリゼ通りの活気に圧倒され、興奮してエクトルも止めることができないほどであった。馬の動きや興奮が、通りの熱気を反映している。

La voiture 師ait loin maintenant, loinderri俊e ; et voil quユen face du Palais de lユindustrie, lユanimalse voyant du champ, tourna droite et prit le galop.
 馬車はいまや,かなり遠くに、後ろのほうに見えた。馬は、Palais de lユindustrie の正面で、広場から見えたが、ギャロップで右へ曲がった。 
 Palais de lユindustrie は、エリゼ宮の向かい、今のグランパレやプチパレがあるところにあった。グランパレとプチパレは1900年の万博のために建てられたので、この小説が書かれたころには存在していなかった。

 ヒ cheval という短編小説のこの部分には、その当時のパリの賑やかさや明るさが見られる。それは、馬、太陽の光などを通して描写されているが、華やかさと同時に、混乱した様子も描かれている。その描写の中には、オベリスクや凱旋門、コンコルド広場などのパリの主要な物や場所が出てくる。これらは、今でもパリを代表するもので、100年以上もその地位を保っている。この小説が書かれた1883年、モーパッサンは、人気作家となり、パリの社交界にも出入りするようになっていた。そうした自分自身の成功を、パリの華やかさを描くことで、表しているようにも思われる。また、シャンゼリゼの混雑の様子は、当時の第二帝政期のフランス社会の混乱をも表しているようである。これらの描写からも、パリがいかにフランスで重要な都市であり、昔から長い間、その地位を保ってきたということがわかる。