社会と言語と性差別(八) ●「女・子ども」というグループー〜タイタニックが問いかける 人命救助において女性・子どもを優先させることについて、チャールズ・クラウトハマーがタイム誌(一九九八年四月一三日号)に「タイタニック号の謎」と題して興味深いエッセイを寄稿している。映画の人気に関連する話である。読者がタイタニック二(世)号の乗員となり氷山にぶつかり沈没することになったらどうする?という問いかけである。「女と子どもをいっしょくたにするやり方はとんでもないアナクロニズム(時代錯誤)ではないか」とまず問う。また「レディーズ・ファースト」は女性自身に対して恩着せがましく(patronizing)、品位を落す(demeaning)ことになるのではないかと指摘する。子どもが特別の庇護を必要とするのはわかる。子どもは無力(helplessness)と無知(innocence)の状態におかれているから。しかし大人の女性はそれに当てはまらない。暮らしのあらゆる領域で性的平等が相当程度に達成された今日のアメリカ社会において、なお女性に席を譲る理由は考えられないだろう。そうだ、百歩譲って、子どもには父親より母親がより必要だと考えてもいい。でも親を必要とする子どもがいないシングルたちのタイタニック三世号の航海だとしたらその時どんなシナリオを想定したらいいのか。それは、男たちは不合理な騎士道精神から女性に救命ボートの席を譲ろうとし、他方女たちはフェミニストの自尊心からそれを拒絶することだ、結果はどうなる?急げ、船は沈むぞ!という話で終わっている。 階級差や性差を超えて、生き残り組を選抜する方法は二つしかない。一つは抽選である。はずれたら諦めるしかない。二つ目はだれも乗らないことである。みんなが利他性(altruism)を発揮すれば、譲り合いを果てしなく続けるうちにタイタニック号は沈む。そして誰も乗った形跡がないままに救命ボートだけが浮かぶのだ。これはもっともすばらしい光景かもしれない。もったいないと思うだろうか。 ●女のねだん タイタニック三世号より現実的な話題として考えてみよう。女性の命の重さはどの程度のアファーマティブ・アクション(積極的差別解消策)やクオータ(割り当て制)に匹敵するのだろう。現実を見ると、日本の現状はまだアメリカ社会の水準にまで到達しているとはいいがたい。たとえば米国三菱自動車の従業員(約二〇人、すでに解雇済)による女性従業員へのセクハラに対し訴訟に持ち込まれた事件が提訴から二年を経て、最近和解で決着した(朝日新聞九八年六月一二日付夕刊)。その内容は全体でおよそ三四〇〇万ドル(四九億円)、一人当たりの受取最高額は三十万ドル(日本円で四三〇〇万円)にも達する。関係者はおよそ四、五〇〇人と言われる。一方日本ではじめてのセクハラ訴訟で勝訴した原告に認められたのはたったの一六五万であった(『職場の「常識」が変わる 福岡セクシュアルハラスメント裁判』インパクト出版会、一九九二年)。 その背景には日本における命のねだんの安さがある。四〇歳の女性と男性が事故で亡くなったとして遺族に支払われる損害賠償の平均額は男性の七四〇〇万円に対して女性は四七〇〇万円程度。女性の平均賃金が男性の六割しかない現状を反映したものとなっている。日本の女性の命の値段はアメリカのセクハラを受けた女性への賠償金額に近いという「日本のゆたかさ」が皮肉にも明らかになった。 たしかに、人権の値段はその社会の人権状況をよく表している。北京での世界女性会議で一層注目されることになった女性の「影の働き」(シャドーワーク)、「不払い労働」(アンペイドワーク)について見てみよう。これまで女性の「影の働き」は、貨幣経済の体制の下で、ただ給与が支払われないということのために、一人前とみなされず、「食わしてもらっている」ということで女性自身が不当に軽視されるという風潮を助長してきた。世界的潮流としての「不払い労働」再評価を受けて経済企画庁も試算してみた。例えば日本人の家事育児老親介護その他に対する代価は、女性一六一万円、男性二九万円、女性の中でも専業主婦は二七六万円、兼業主婦は一七七万円と算定されている(一九九七年)。それを高いと見るか、低いと見るかは議論が分かれるであろうが、愛という名の無賃労働をもし外注すれば、経企庁の試算ぐらいではすまないのが現実である。というのもこの計算の根拠は日本女性労働者の平均賃金つまりボーナスぬきでの二三五万円という金額である。(男性の平均賃金を元にすれば二倍近い数字になり、それこそ実際の家事の外注時の金額に近くなるはずである。)経済企画庁がこの試算に基づいて「影の働き」分の給与を女性自身の銀行口座に振り込む夢は実現しそうもなく、女性の地位がこれで向上するわけもないが、女性たちが決して「食わしていただいている」存在ではないことを公に知らしめたという点では少しは意味があった。それはまた日本における女性の値段、女性の働きについて客観的評価の低さを明確にした点で、また男性に相当の差をつけられていると認定した点で、すでに述べた裁判所の判決に呼応するものである。女性の値段はその社会における女性の地位や尊敬の程度を如実に反映していることがわかる。 ●ドリーが鳴く、男が泣く イギリスでクローン技術により初めて誕生したドリーと命名される羊は、男性にとって脅威である。クローン技術の進歩は、再生産の過程において人間の半分が不要になったことを暗示するからである。クローンは母親さえいれば作ることができるという発見は、男の存在自体と見えなくし、男を「見えない存在」と化してしまう危険な技術でもある。母親と遺伝上まったく同一の性質体質をもつ子孫を創りうるということは、母とそのクローン娘は親子であるというより、一卵性双生児の姉妹関係にあることになる。さらに、クローン娘の母は実の母であると同時に実の母を生んだ両親(クローン娘の祖父母)でもあるということでもある。 いずれにしても男は「必要のない人」になる可能性は高い。そうなると、タイタニック号の救援者リストのますます優先順位はますます下位にくることになる。そうならないために、男たちにできることは簡単である。つまり種付けオスでしかない現状を改めればよいだけのことである。そのためには子孫に後天的な能力を付与する仕事に関与することである。そしてその実績を世の女性たちに知らしめることである。男どもが存在しなくては人類は育たないということを。 逆に、「男だって出産できる」との見出しの下、報道されている事実(朝日新聞一九九九年二月二二日付夕刊)は男性にとって朗報だろうか。構造上子宮をもたない人類の半分にとっては常に「子宮外」妊娠を覚悟しなければならないが、受精卵を内臓に着床させることができれば、流産の危険は伴いこそすれ理論的には出産可能であるという。その試みは一九九四年に作られたアメリカ映画『ジュニア』の中でアーノルド・シュワルツネッガー演じる妊婦によってなされたし、動物の世界ではタツノオトシゴが男性が出産することですでによく知られている。人間での実現可能性についておそらく男性の誰かがこの方法を試みるだろうが、命を賭けるこの方法で男の存在意義をしらしめることよりも、それほどのリスクを背負わないで可能な、男性の子育てへの「参画」を積極的に求めたい。そうしなければ男性は人類の歴史上「見えない存在」にされるかもしれない。ドリーが鳴いて、泣かされるのは男性という人類の半分かもしれない。 ●「買春・売春」と結婚制度 「売る」当事者の性に焦点が当てられ、「買う」男性が無名で済む関係を「売春」という表現は表している。そこで「買春」が必要になった。ここでは「買う」当事者に焦点が当てられ、「売る」当事者は無名である。東京都は淫行防止条例を設置する過程で買春を「カイシュン」とする新しい読み方を示した。「バイシュン」が同音異義語であるため耳で聞いても混同しないように配慮した新たな工夫である。(「回春」と混同する人がいそうではあるが。) さて、「売春」や「買春」がふつうの法律婚とどうちがうのかについて考えてみてもいいだろう。経済的なものだけで成り立つ関係と、経済的なものに(愛という名の分析不可能な)情緒的なものが加わって成立する関係と一応分けて一般的には済ましているが、愛の有無という二分法では単純に答えられないのではないか。握手とマッサージとその他のビジネスとどう違うのか、資本主義下の結婚制度における女男の関係と、結婚制度外のそれとどう違うのか。結婚制度だけは批判されない聖域のように見られているものの、本質的にどうちがうのかと尋ねられると返事に困るであろう。愛ある性は法律婚にあり、愛のない性は法律婚の外にあるという考えは単純すぎる。愛ある性の結果としての離婚の多さという現実は、その単純化をすぐに裏切る。結婚生活が経済制度、あるいは経済的保証に支えられた人間の契約だと考えれば、基本的な差はないとみなせる。なぜなら離婚は端的に金の支払い問題に行き着くからである。これは結婚がすぐれて経済関係でもあることを明確に示す、と考えることもできる。一方に、性と人格の一致があり、他方に性と人格の分離状態がある。しかし、現実には、その間に私たちの性は浮遊しながら存在するのだろう。大事なことは、現在の制度的結婚のいろいろな様相や矛盾に目を向け、自らの「性」と「生」と「制」度について今一度考え直してみることだろう。 ●ピルとバイアグラと性の「自己決定」権と少子化 過去二千年で「史上最高の発明は?」という見出しの記事(一九九九年二月四日付朝日新聞夕刊一面)がある。米国の作家が欧米の自然科学者に問いかけた質問だ。その中でオックスフォード大学生理学教授が避妊用ピルを選んでいる。理由は「家族構造や女性の役割を一変させた。」他の発見で女性の視点を持つ発明はなかったようだ。階級、人種、性差から自由な社会を作る可能性がある、ということで「民主主義」という発明を挙げた人もいた。しかし、歴史の示すところ、その概念は女性に十分な味方をしたとは言えない。一方(ピルを買えるようなゆたかな先進国においては)ピルはたしかに性の自己決定権を女性に与える状況を作った。そして少子化という現象に大きく貢献しただろう。それは開発途上国における人口爆発と対照すれば明らかである。 ところで、少子化は個人のそのような選択になんの責任もない。少子化は国の問題である。そもそも少子化は人口ピラミッドのアンバランスを別のことばで述べているに過ぎない。アンバランスを生み出したのはだれか。大戦争さえしなければ多くの人間を死なせることもなく、戦争だからと結婚するのを押しとどめることもなかっただろう。戦後のベビーブームもなくてすんだ。第一次ベビーブームがあったから、ベビーブーマーたちは二五年後に超高齢社会の高齢者として肩身の狭い思いをするだろう。ベービーブームの人口を基準にするから少子化だの超高齢化だのをうんぬんしなければならなくなる。「生めよ増やせよ、国の宝」という無責任な国策は戦前のことではあるが、医療事情の悪い時代に女性に度重なる出産という重い負担をかけてきた国の責任は重い。そして今また「少子化」の話題である。さすがに「生めよ増やせよ」とは言えなくなった今、子育て支援と称していくつかの対策を打ち出そうとしているが、少々くらいの支援では成功しそうにない。女性たちの静かな反乱が、少子化や晩婚化現象として進行している。 また一方では、女性たちの固有の権利「リプロダクティブ・ライツ」(産む産まないの権利)が女性差別撤廃条約に謳われ、そして北京での世界女性会議でも大きく取り上げられた。これまで女性が男性の野望や計画の手段として使われてきたこと、現在まだそのように利用されていることに対する異議申立てである。子どもを産む産まないの決定権を女性が握ることはジョディー・フォスターのような子孫確保の方策、自立的な生き方の選択を奨励するかもしれない。そのようなライフスタイルもあっていいだろうと思う。ただ一般的には、男性にも半分の意思決定への参画の権利があると思う。それは「協働」参画社会を形成する元となる、すべての領域についてあてはめられるべきだからだ。もちろん家父長下のこれまでの男性のみによる意思決定権を否定することは当然である。 この点に関して付言すれば、ピルに関連してバイアグラにふれないわけにはいかない。厚生省はこれを「申請から半年という異例の早さで承認した。」(朝日新聞一九九九年二月四日付朝刊) 男にとって朗報かと思われるその裏の問題としての妻の苦悩が明らかにされた。「障害が出る前、望まない性関係を夫から強いられ続けた。治療で性機能が戻れば、またあの日々が繰り返される。もうたくさん」(同紙) という女性の小さな声がある。それは関係者には届かず無視されてきた。重要なのは、他方でピルが一九九〇年に申請されて以来議論されつづけながら、いまだに結論が出されていないことである。ここに厚生省の性差別ぶりがあぶり出されている。女性による性の自己決定への道はまだ充分に拓かれていないというべきである。 ●「性同一性障害」〜ジェンダーバインドからジェンダーフリー社会へ 一方に男性になりたい女性がいて、他方に女性になりたい男性がいる。これらは《障害》と名付けてよいのだろうか。生物的性にとらわれずに生きたい人たちがカミングアウトする。「性同一性障害」はセックスをジェンダーが超えていることの証明と見ることができる。人間はセックスによる支配ではなく、逆にジェンダーによる支配が可能であることを、私たちはこれによって目撃している。まさに「人の人たるゆえんは、セックスによらず、ジェンダーにて生くるにあり。」人間においてセックス由来の「メス」性よりジェンダー由来の「女性」性が優勢であるということはある意味では当然である。なぜなら人間は後天的な情報を自己の内部にインプットすればするほど、立派になるとふつう信じられているから。遺伝情報だけで生きることはできないし、なにもしないでのびのびした自然児が将来大成すると思う人は少ない。逆に子どもの教育に異常なほど熱中する親たちは多いし、「生涯教育」とネーミングした中高年向けの講座が人気である。つまりこのような社会では、生まれたあとにどのような情報をどれだけインプットし、多様に利用するかで、人生が豊かになったり、決まったりすると、多くの人は経験的に納得しているということである。このことは、用語矛盾的であるが、人間が「人間化」し、あるいは「社会化」する動物であることを物語る。「性的」に言えば、セックスという生物学的性差情報にジェンダーという社会的(性差)情報が加えられて、人間の女性、男性が出現する。セックス情報だけではゴキブリにしかなれないが、ジェンダー情報を内在化すると台所大好き「ゴキブリ」亭主(あるいはその逆、「男子厨房に入らず」亭主)になるということである。 考えてみれば、アイデンティティ・クライシス(自我同一性の危機)というものも人間であるゆえの高級な(あるいはぜいたくな)悩みである。ゴキブリがアイデンティティ・クライシスに悩んだなんて聞いたことがない(ひょっとしてあるのかもしれないが)。「ヒトの分類、先に在り。故にわれ悩めり。」というのは本末転倒であろう。というのも「民族籍」がいい例である。日本人か韓国人かなんて悩まなければならないのは、現実の制度として国籍を選ばなければならないという排他的制度あるからだ。二重国籍を選択できる自由があればその悩みは悩みでなくなる。つまり帰属集団を二つ持ってかまわない社会を作ればいいのだ。高度に排他的な集団に属していることが自己の存在証明やこれからの社会にとって相当に重要であり有用だとは思えない。むしろその逆である。国籍は国民国家の名残である。国民国家より広汎なEUなどの地域連合においては、国籍の壁こそ無用の長物、諸悪の根源という考えも成り立つ。弥生時代の「吉野ヶ里人」のアイデンティティと二〇世紀末の「日本人」のアイデンティティ、さらに「地球人」のアイデンティティを排他的にしか受けとめられない世界を私たちは望むべきだろうか。むしろ異なる個人が互いに入り組んだ複数のアイデンティティを内在化させ、複眼的な物の見方を所有することで、あらたな、ゆたかな文化、集団の再構築・発展が望める。異文化の相互交流を拒否する排他的文化は新しいものを産まず、おのずと干からびてしまう歴史的運命にある。政治や宗教における同一人の複数入党・帰属は仲間うちから見れば論外であろうが、それさえも外部から見れば、野合集散であり、それらの主義主張が大同小異でしかないと映る時代でもある。同じ文脈で「性同一性障害」なども生涯かけて悩むほどのことではない----というような社会が出現するだろうし、その可能性を探ることがこれからは必要になるだろう。その時、女であるとか男であるというのは、人間であるということの前にかすむにちがいない。 ●性的二元「制」〜 パスポート・メンタリティのゆくえ セックスとジェンダーのちがいをオス・メスと男・女のちがいとして述べてきた。別の用語で言いなおせば、女・男とは女「制」、男「制」を生きさせられている存在である。そのような「制度」こそが今問われている。制度は、時空間にしばられ、多様な形態を示す。美の基準も「制度」である。女「制」における美しさは、たとえば「纏足」である。中国王朝貴族階級に見られる、女性の足を細く、小さく見せるための仕掛けである。ある民族文化では、下唇にお皿をいれる。それも大きければ大きいほど美しい。またある民族文化では、首にはめた首輪の数を競う。首輪が多ければ,首が長く(て細く)なり、美しさが増す。江戸時代のちょんまげは男性の美を表すものだった。二〇世紀末の今、通りをちょんまげで歩けば、チンドン屋かおかしなやつと思われるだろう。相撲部屋と土俵上は例外である。時空間の隔たりがこのような違和感を人々に覚えさせること自体が、私たちの常識という怠惰な意識慣習の浮遊性を証拠立てし、制度の普遍性を否定する。 「女の仕事は家事育児、男の仕事パソコンいじり」というのは一九六〇年代以降の「一億総会社員化」の過程で定着した新役割分業制度である。それは資本主義社会、大量生産大量消費のライフサイクル中でますます強められた「私生産する人、私消費する人」のライフスタイルである。数千年の歴史をもつ伝統などでは決してない。男性は、一九六〇年代以降の日本の国家目標、高度経済成長政策の下、「作る」側(第二次産業従事者)の歯車・部品として、会社へ、工場の生産ラインへと集められた結果、女性は、戦後版企業戦士の妻、つまり「銃後の妻」として、男性に課せられた賃労働以外のすべての仕事の受け皿になった。るとそれは女と男の関係の急激な変化として生じ、それが性別役割分業を強化した。加速する情報化、国際化の流れの中で、男たちの仕事の内容は、第二次産業からさらに第三次産業へと変り、サービス、情報関連の、目に見えず、手で触れられない付加価値労働に重点が置かれるようになり、男性は鍬で耕したり、旋盤を回す代わりに、今やパソコンの前に座るだけの存在と化した。文字通り「たんぼの力」であった「男」は語源的意味から程遠く変質を遂げてしまった。 つまり私たちが手にしている性別役割分業は現代の「労働の急激な変化」に呼応するものであって、それを考慮しない「伝統」は事実に基づかない誤解である。それは夫婦同姓が伝統であると主張するのと同レベルのいいがかりである。すでに述べたように、会社員にさせられる前には、ほとんどの人々は当然ながら第一次産業、農業漁業などにいそしんでいた。特に従事者の多かった農業の特徴は住職接近にあった。農機具を担いで徒歩で仕事場に行くというのが平均的農民であり、昼食時には家に戻り、また仕事場に行くという暮らしであった。「晴耕雨読」では必ずしもなかった。カッパを着てたんぼの雑草取りに行ったり、納屋で筵を編む仕事は雨の日の決まりであったという体験は私自身裕福でもない農家の出身で、原風景として浮かぶ。テンニースの社会学用語でいうゲゼルシャフト(地縁・血縁)的社会とゲマインシャフト(目的・利害)的社会が共存していたのが農村社会の特徴である。そこでは仕事(あえて賃労働と呼んでおく)と暮らしが溶け合って、分離できない。仕事をしながら暮らしのようすを見、暮らしぶりを考えながら、仕事をする。「晴耕雨読」というより「生耕有読」である。「生活しながら耕し、互いに有(在)って共有しながら、世の中の流れを読む」ということであったような気がする。異論があるかもしれないが、私の個人的経験を言えば、女と男の仕事や役割が固定していない。少なくとも家の外にも家の中にも性に無関係にそれぞれ労働し「家事する」家族のメンバーの姿があった。会社員と専業主婦の組み合わせがしているようなすっきりとした性別役割分業はなかった。子育ても子どものしつけや教育にもいっしょにかかわった。そういう暮らしがどこにもあった。ところが、現代の限られた時空間に暮らしながら、自らの環境に普遍性を見出してしまうゆえに、農耕民としての暮らしと伝統は無視され、現代的な役割分業があたかも一世紀以上の、あるいは数千年の伝統であるかのように錯覚されている。 話を本題に戻そう。人間の場合は他の動物と異なり、生物学的条件によって決定されていたはずの「性」(セックス)が、歴史的条件に支配され作られた価値観や文化によって左右される「性」(ジェンダー)に圧倒されることとなった。これが人間「進化」における「性」の変容である。「パスポート・メンタリティ」と私が命名する物の見方であるデジタル方式の認知方法は、すべてをプラスかマイナスに還元してしまう欠点を持つ。なぜなら、パスポートでは、女か男かを選ぶ欄があり、性的アイデンティティが個人の特定化の決定要素のひとつになっているからである。現実には、誕生日や写りの悪い添付写真などよりも、個人の趣味とか思想信条の方がよほど個人を特定する役に立つはずなのに。国家の間の壁は、その程度に非人間的なのである。人間存在、人間行動はパスポートを超えて、もっと複雑で重層的である。「脳死は生か死か」という問いがそれぞれの文化の問題になりうるのと同様に、人の性の問題も答えは多様である。 言語が「女」・「男」という表現を持つことが、今後の私たちの暮らしをゆたかにすることにつながる場合もあるかもしれないが、場合によっては制限することにつながるかもしれない。大事なことはそれを絶対視してしまわないことだろう。言語は自分たちの暮らしのありように応じて、それにふさわしい意味や用法を付け加え、廃止し、また発明することがよい。レディーメイドの服を着るために、自分の身体を削ったり、やせたりしなければならないとすれば、それは本末転倒である。「女らしく」や「男らしく」の言説は、それに近いものがある。そのような価値基準を決して強制せず、共生していくことこそ、互いによい関係を保ち、暮らして行く知恵であろう。自らを表現しうる最適の「ことばの服」を創ることは、個々になしうる創造的な営みのひとつではなかろうか。 ●募集広告と雇用機会均等法 『朝日新聞』(一九九九年一月二六日付朝刊)には一面全部を使っての広告が掲載された。広告主は労働省である。その真中には四月一日から「男女雇用機会均等法が改正され、「男性のみ」「女性のみ」求人が禁止されます。」という文言が掲げてある。具体的表現としていけないとされているのは「女性秘書募集」「店長候補男性歓迎」「女性パート募集」「男子営業スタッフ募集」「女子派遣社員」「女性営業アシスタント」など性別の募集形式である。四月からの求人広告の表現として(推奨される)次のような言い換えがある。 「保母 ⇒ 保育士、ベルボーイ ⇒ ロビーアテンダント、 スチュワーデス ⇒ 客室乗務員、フライトアテンダント、 セールス・レディー ⇒ セールススタッフ」 これは男女雇用機会均等法の改正によって、性別募集・採用が原則として禁止されるための措置である。労働省が言い換えを示したガイドラインを作ったのは、表現を変えるだけでなく、実態を変えることをねらっているからである。もちろん言い換えただけで済まそうとしているのではない。現に実態を変える方向で性別労働システム全体を見直し、監督していこうとしているのだ。 もうひとつの記事がある。(西日本新聞一九九九年一月九日付朝刊四面)「ユーロは男か女か」である。「ユーロ」は新しく導入された欧州単一通貨名である。この単位をめぐって、欧州各国の文法上の取り扱いが違う。英語以外の各言語は、名詞について文法上、男性か女性か(中性か)いずれかに分類する必要がある。このような性を文法的性、別名ジェンダーという。本シリーズをご覧の方々はすでにセックス(生物学的性)に対比される文化的・社会的・心理的性としてのジェンダーという用語に馴染んだはずである。まさに、文法的性を、比喩的に応用したのが女性学のジェンダーである。「ユーロ」はギリシャ語では中性名詞、その他の言語では男性名詞が多い。"-o"(オ)で終わる語は男性的であるからという理由付けがなされている。人名のシルビオ・シルビア(女性)/シルビオ(男性)や「マリア(女性)/マリオ(男性)」などの対比を見るとそういう連想も当然と思われる。とはいえ、ドイツ・スペイン・イタリアでは女性名詞として扱うという。これについてのEU本部のコメントは「EUは男女差別に反対なので、コメントしかねる」であった。 このシリーズのはじめにもどることになるのだが、ことばひとつの問題が私たちの規範意識、常識を形成するゆえに、些細な問題と思われる部分にも注意がいることをEU本部の対応にみてとることができる。イングランド代表サッカーチームの監督だった人が身障者に対する差別発言でサッカー協会から解任された事件(朝日新聞一九九九年二月四日付朝刊)は、世界の人権意識の昂揚と関係している。世界の潮流からして、このような「見直し」についてことば狩りなどと感情的に反発している時ではないことがわかるだろう。「たかがことば、されどことば」である。実態がそういうことばを許さなくなる日は近いだろう。 以上、性差別的言辞に関わる雑多な現象を腑分けし、日常言語と日常生活に巣くう性差別的知覚・行動様式をシステムとして検証してみた。それによって、性差別的「染脳」作用がいかに多様な形態で、人と人の関係に入り込み、人々を分断するのに一役も、二役も買っているかをつぶさに見た。特定の表現は特定の価値観を随伴させ、かつその価値観に基づいた社会的行為、実践を表現者に対して強いる。言語行為が社会的行為の一部をなすことが明らかであるゆえに、二一世紀に向う生活者としての責任がますます自覚されるべきだろうと思う。日常的な場面から差別を考えることは、部落差別や民族差別、「障碍」者差別、国籍差別、能力差別などを自分の問題として考えられるかどうかの試金石であるとも言える。もちろん、それぞれの差別は、それぞれの社会的背景をもち、一事が万事というわけではない。性差別を取り除いた後の世界にどんな問題が出現するのか、部落差別を根絶したあとにどんな人生の問題が残るのか、それが問題であり、今は見えないその問題に私たちの次の挑戦があるだろう。絶え間ない批判と実践がますます大切になる所以である。読者の批判を仰ぎたい。 《完》 |