川柳にこめた想い:ジェンダーフリー(バイアスフリー)の社会を! ―――【A】家庭・地域・学校――― A 〇〇〇〇て きた妻がいる 成功者 {尻に敷い,泣かされ,叩かれて,我慢し,昼寝し,家出し} どれを入れてもいい句ですね。正解以外の選択肢を私が捻り出したんですから、当然です。さて問題は、どっちが加害者でどっちか被害者かということをあいまいにしちゃいけません。もちろん成功者が加害者、妻は被害者です。解釈の仕方によっては逆転もしかねません。例えば私の場合は・・・(夫を)尻に敷いてきた妻がいる成功者・・・って私です。そんなことした覚えがないと逆襲されそうです。本人にそのような自覚がない・・・だからいいんですよ。とにかく結果として、逆境が男を鍛えるってこともある。でもどっこい、平均的なカップルではその逆が普通でした。若い世代で変わりつつあることを期待していますが・・・。妻が「されて」きたことを男もされてみるなり。(正解は「泣かされて」) 会社につくすこともちょっと前までは大事でした。喜びでした。幸せでした。「滅私奉公」は戦前の価値観でしたが、戦後、バージョンアップされ、生き延びて、高度経済成長を助ける人生哲学になりました。ところが国際競争とリストラのせいで、それも命運が尽きようとしています。髪の毛が抜け落ちるほど会社のためにつくしても、会社のために手となり足となっても、最後は首となり、「無芸大食」ならぬ「無毛退職」という悲運に見舞われています。「滅私奉公」を信じてここまでやってきた自分が馬鹿だったと悔やむリストラ世代の怨念がたまっている世紀初めです。 関連句 ★ 「オレの金 オレの稼ぎだ オレの家」(入選) そう言い張る男がいて、それに負い目を感じる女がいて、世界はうまく回っているようで、だからいつフーフ間「下克上」が起こっても不思議じゃないんです。女がそばについていなきゃパンツもはけないくせに、いばるな男!食事時に「ママ」がいなくて「飯(ママ)」がもらえないとイライラというか不安というか落ち着かないくせに、いばるな男!そういうのを「オツムにおむつ男」って私は呼んでるんだよ。「おむつ男」に限って女を「私物」扱いしたがる、「おれのものだ」って。たいした稼ぎもないのに、家族を「食わしてやって」る、「飼ってや」って思ってる。ならお前、自分で家族に手料理作ってやってるのか、っていいたくなる。ツマからすれば愛しているからただでやってあげてるだけなのに、感謝の気持ちがない。こっちががまんしてりゃ付け上がる。平気で神経を逆なでする。介護保険法が成立して現実が見えてくる。愛していない他人が同じ家事・介護をすれば、とても高くつくんだよ。だからツマにも年俸払えよ。8年前の経済企画庁の計算では、「専業主婦」の一年間の労働はだいたい300万円に価するそうだ。だから300万円妻に渡したあとで、「だれが食わしてやっているのか」論争しようじゃないか。銀行口座振込みの金額を半分こに分けてから、議論しようじゃないか、と言おう。(300万円の根拠は、会社で賃労働する女性たちの平均年俸をあてがっただけといういい加減さなんだけれどね。) ★ 「理解ある 上司も家では お殿様」 どの世界にもタテマエとホンネのギャップ、理論と実践の差があるわけです。タテマエと理論は並みの頭の持ち主ならだいたい習得できますが、実践は悪銭なみで、なかなか身に着かないものです。タテマエだけでは生きられない。いばって出世しても、所詮会社を離れればただのヒトでございます。「おれは殿様だぞ」っていばっているうちに下克上、クーデターにより妻から離縁されずとも、ひとりさびしく孤独な死を遂げることは可能です、じゃなくて、相当確実です。現役時代にもらった年賀状の厚さがしきりに思い出されて、定年後の老体には堪えます。今じゃだれも呉れないんですから。頭も薄い、年賀状の束もうすい、飯は冷えてる、妻も冷えてる、ってなもんです。そういう想像がつく方は、今からでも遅くない、妻のしわを数えましょう。そして自分のしわも合わせて、額と額を擦り合わせ、これがほんとのしわわせ(しわよせかな?)妻のいいなりになりましょう。それを私は「妻人(サイジン)」と呼びます(広辞苑には載っていません,念のため)。夫の付き人を「夫人(フジン)」と言うのと対照すれば分りやすいでしょ。妻人になりきるのが成功者への道です。妻人は「才人」にも通じます。柔軟な生き方、処世術才覚をもつ人は、不確かな未来のリスクを避けることができます。 ★ 「強すぎる 女は演歌に 唄われず」 男好みの歌を男が作って、女に歌わせ、男が宣伝し、流行らせ、男が儲ける世界がメディア業界、音楽業界であった事実を浮き彫りにしています。女が世界を牛耳っていたら、価値観は180逆転しているでしょう。女に都合のいい歌が演歌で歌われ・・・とどのつまりは「あなた好みの男♪」になりたい・・・なんて,すばらしき新世界が登場することには残念ながらなりませんでした。とはいえ,若い人たちの感性は新たな歌を歌い始めています。男が牛耳っていたこの世界も,女性のシンガーソングライターの登場で代りつつあります。 歌を歌うというより、自分の人生そのものを歌にするってことですよ、そこが奥村ちよさんとちがうところです。(ちなみに「あなたごのみの女になりたい」と奥村ちよさんが歌っていた「恋の奴隷」の作詞者は阿久悠という男です。) 私は,強い女が好きです。強い男が好きです。強い人間が好きです。強い女とは,人生の節目節目で,人に頼らず,自分で決断できる「自己決定権」をきちんと行使できる女です。デートでもわりかんをする人です。考えても見ましょう。自分の人生だってどう生きるか決定するのがむずかしいのに,他人の人生に指図するどころじゃありませんよ。ひとりひとりが自分の人生の主人公です。他人に決定してもらうなんてうっとおしいじゃありませんか。 強い男とは,支えがなくても立っていられる人です。みなさんの予想に反して、サダム・フセインさん、ジョージ・ブッシュさん・キム・ジョンイルさん、小泉純一郎さん、いわゆる権力者のだれも強い男の範疇に入りません。なぜなら、部下や妻がいないと生きていけない孤独な人だからです。ほんとうに強い男は指図しません。命令しません。支配しません。肩書きや軍事力、暴力で人を脅したりしません。 宮沢賢治があの有名な詩群(「春と阿修羅」)で描いた,「欲はなく、決して怒らず、いつも静かに笑っている、寒さの夏はおろおろ歩き、みんなにデクノボーと呼ばれ」て、見た目には強そうに見えない人間こそ、私の考える強い人です。(ちなみに宮沢賢治は自身が病弱で37歳で亡くなったぐらいでしたから、そのような生き方に対する強い憧れがあったのでしょう。)柔よく剛を制す、北風より太陽政策の勝ち,そういう人に私はなりたい,とつねづね思っております。家庭内暴力に走る男は弱い弱い弱虫です。おとなの姿をした子どもです。情けないことです。 自分は自立していると錯覚している男はたいへん多いけれど,それは大きな誤解です。妻がだれかと駆け落ちしたらおたおたするくせに。妻が家出したらおろおろするくせに。妻が夕食の時間にいないと,さびしくてパニックになるくせに。いっときも妻なしで生きられないくせに,いばるな男! 男性は経済的にはいちおう自立していると(百歩譲って)認めよう。でもそれ以上じゃない。生活的自立ができてないために、メシタキ女や洗濯女がいないと生きていけない。 妻がいないと怒り狂うのはその証拠です。(メシタキ女や洗濯女や専用の世話係がほしくて結婚したのですか?)その結果精神的に自立しているかどうかもあやしいものです。なぜなら妻に先立たれた夫が長生きしたためしがないからです。逆に、夫に先立たれた妻の生命力の強さ、これがほんとの強さです。ひとりになった時にどれだけの力が残っているか、胸に手を当てて自問自答してみましょう。ほんとに強いと自覚できた男だけがエラそーにしていましょ。そういう男は希少価値があります。 ★ 「ポットより 遠い私に 湯のみ出し」 自分のことさえ自分でできない男を非難する句です。そんな男に誰がした?って開き直りたい男性は多いと思います。良妻賢母しすぎた女のせいです、とまでは私は言いたくないんですが、結果的にそうなっておりますね。 さて、そこで女性がどう対応するかで、男の運命が決まります。もちろんあなたの人生も決まります。「お茶ぐらい自分で飲んでくださいよ,私はあなたの部下じゃないんですから!」バッドですね。「たまには自分でしてみたらどうですか?」グッドですね。「たまには私に淹れてくれてもいいでしょ?私が先に逝くってこともあるかもしれないし」ベターですね。ずばり「死ぬ前に是非一度あなたの淹れたお茶が飲んでみたい。」ベストですね。「40年苦労の連続だったけど、これで私が先立っても、いい想い出をもって死ねるわ、ありがとう!」と付け加えることを忘れないでくださいね。たった一回のお茶ぐらいでちゃらにするなんて、腸(はらわた)が煮え返るくらいでしょけれど。それとも、カチンと来て離婚請求しますか。「夫殺すにゃ刃物は要らぬ、三行半を書けばいい」という結論でございます。 私的には――私の父は足軽男、別名「腰軽男」でした。口よりも体が動く父でした。「まめ男(お)」でした。ぼーとしている(おっとりしている)母の代わりに気付きの早い父がお茶の接待係だったからです。7年以上も前に死にました。あの素早い腰の動きが止まってしまいました。涙が出ました。母親もほとんど時期を同じくして死にました。相思相愛の仲だったんですね。涙が出ました。それがせめてもの慰めです。 両親が生きていれば、妻の両親「舅・姑」と同居することもなかったでしょう。運命は皮肉です。運命は試練をわれに与えました。親孝行したい時に実の親はなく,したくないのに義理の親がいる…もちろん真面目な冗談ですよ。 元に戻って、血のつながった父母のどちらも死因はガンでした。私もガンで死ぬでしょう。最近肝臓腫瘍の手術をしました。そろそろ再発するはずです。父はいわゆる「婿養子」でした。婿入りしてめでたく第一子に私という賢い息子を産んだのに、人並みにさんざん「婿いびり」され、一時は離婚も考えた、でもおまえという子がいたから我慢した、と死ぬ前に言っておりました。よほど悔しかったのでしょうね。父の「婿心」がいじましいです。涙が出ます。真似できないほどすばらしいおやじの長所は、高齢化しボケた姑(私の祖母)をいびり返して復讐するどころか、実の娘の母の代りに,彼女の下の世話をしたことです。私にはできません。父は料理も得意でした。私の想い出には「おふくろの味」がありません。でも「おやじの味」があります。あんかけ風中華煮込み料理です。おいしくて涙が出ます。私にも娘のために「おやじの味」を伝えます。それは具沢山の焼きサバちらし寿しです(サバは具のひとつに過ぎません)。こころにズシっときます。何杯もお代わりするから腹にもズシっときます。だからむすめ二人から感謝されます。私は死んでも私の想い出は「おやじの味」として末永く娘たち(二人います)にまとわりつくでしょう。 |