ことばの働き2001〜2002 ことばを,正確な情報を与えたり,受けたりする(だれにも肩入れしない)公正で中立的な媒介と,単純に考えていいのか.答えはノーである。(そういう意味では、私がここで、ことばを駆使して展開しようと企てている「言説についての言説」に関する説得もマユツバものである、と懸命な読者には気付かれるだろう。) しかし、外国語を勉強する人々の出発点には,このような点に関して、素朴で偉大な誤解がある.その誤解とは――正しい文法,正しい発音の先に,正しい意味解釈,過不足ない意思疎通能力が獲得される――ということであり、それは人間性善説に基づく素朴な言語理論の研究者にも当てはまる.現実の社会は性善説に従う人間ばかりによって営まれてはいない。「コミュニケーション」という概念がしばしばストラテジーという名とグルになって使われていることに少し注意してみれば、その辺りの理由が少しはわかろうというものだ。 一方で、ことばという森羅万象を「理性」で理解する道具を手に入れた(正確には、「脳に入れた)とでもいうべき)ことで万物の長として、進化の頂上に立ち、世界に君臨しているもっとも高等な動物だと自己評価する人間たちであるが、他方では、逆説的だが、ことばという媒介さえなければ,こういうことは起こらなかっただろう,という例はたくさんある.まずことばがなければ、食品パックに張ってある品質表示のラベル問題はそもそも存在しないはずだ.点検すべきは、印刷されている文字ではなく,味なのだから.文字情報に左右されず、味そのものを確かめることで、商品の価値を判断すべきなのだ。英語の表現にもこうある―――Don’t judge a book by its cover. 「下等」動物と違い、人間は、逆に、じかに味という現実そのものに向き合わず、(だれかの)ことばによって間接的に「味」の味を味わっているのだ。本末転倒とはこのことだ。現実をことばがひっくり返すのだ。 情報と現実はちがう.情報は,現実についての情報にすぎない.その差は、写真と実物,地図と実物の差と言えばいいだろう.「なんていい天気だ!」「なんてすてきな…」という言説は,その言説が発話される場で,言説の真偽が試される。いい天気が「土砂降り」を指し、「すてきな」○○が「醜悪な」○○を指すことはしばしばだから。 しかし,「ブランド」商品に対抗する「偽ブランド」商品については事態はそう簡単じゃない。そもそも多くの人々は「ブランド」商品自体にアクセスできない、あるいはそれ自体のよさを享受する機会を奪われてきたからこそ、安い「偽ブランド」を「ブランド」と間違えないようにすることが困難なのだ。スーパーマーケットの売場で商品に貼ってある「国産牛肉」や「松坂牛」というラベルや,ティファニーで買った宝石を誰かから安く買ったという話の真偽について,ことがらが簡単じゃないのはそういう理由だ.モノにかぎらず、「コロンビア大学卒」などの目に見えないありとあらゆるブランドの中で暮らす人間の宿命というものだ。 輸入肉を国産肉と言い換えるだけで儲けが出る流通業界は「ことばの魔力」を実感するし、ことばに感謝しなければならない.この商売は昔からの諺「安物買いの銭失い」のパロディー――「安物買いの銭儲け」を信仰する。安いからとだまされる買い手はハッピーな人々であるし、そういう人たちがいるから業界は甘い汁が吸えるのだ。突き放したような言い方をしているが、だれもが「安物買い」の傾向は持っているし、逆に「高値で売り」たい欲望をもっている。市場原理がますますはびころうとする現在の商品経済の下、自分自身もまさに「商品」としてどれだけの価値があるのか、試されているのだ。 さて、商品の値打ちとことばとの(一般的に信じられている)密接な(あるいは逆説的にうつろな)関係に話を戻そう. 人の説得に折れるとか、感動するとか、煽動されるとか、騙されるとか、人間はことばによって自身の行動を左右されることが多い。それが人間というものである。そこで、冒頭の疑問を呈するのだ。ことばがあるから、 情報を得られ、正しい判断ができると思うのは誤りであり、それは、多数の言説を比較することによってのみなしうる「根拠がないわけではない」程度の推論が幸運にも可能になっただけだ。 「私たちは何者の視点によって世界を見るのか」――これは『テロ後・世界はどう変わったか』(藤原帰一編;岩波新書,2002年2月刊)に寄稿した岡真理氏のエッセーの副タイトルである。 私たちもまた、メディアで報道されるこうした地図や立体模型を通して出来事を理解するうちに、知らず知らず偵察衛星の視点に自らの視点を重ね、合衆国首脳陣の視点でアフガニスタンを、そして、そこに生きる人々を眺めているのではないか。だが、そのようにして理解される「人々」とは、いったいどのようなものなのだろう。それは、個々の顔や名前をもった生身の、笑ったり、泣いたり、怒ったりする現実の人間ではなく、数に還元される「アフガニスタンの人々」という抽象的存在でしかない。このような視点に立つ限り、私たちはいとも容易に、テロ撲滅のためなら軍事攻撃は避けられない。そして、少々の住民の犠牲もまたやむを得ないと考えてしまうのではないだろうか。(上掲書 p.60) 端的に、映像とパラレルなことばの機能をも語る、わかりやすいメタファーだ。あるできごとに関して、ことばを使う人の視点を共有するかしないか――共有するとすればどのような世界を共有するのか、が問われる問題なのだ。3月上旬の寒さと半年前からのくすぶりのかすかなにおいが残るワールドトレードセンターの跡地に立って、「9・11」そして「9・11」をめぐる言説が指すものの、どの部分が共有でき、どの部分が共有できないかを私は考えていた。 ここまで大脳新皮質の機能を拡大強化してきた人間の歴史からみて、加齢や事故によらない限りは大脳機能停止ないし後退は起こらない。つまり、ことばを離れてヒトは生きてはいけない。だからこそ、ことばの利便性に伴う危険性については、いつも警戒をしつつ、発信し、また受信する必要がある。だから、忘れないでおこう――ことばは常に現実を書き換えようと企てていることを。この話題はますます拡大していくインターネットによる情報洪水の時代に新たなよろこびと苦しみの物語を作り続けるだろう。 (22 March 2002) |