教育方針

 教育方針は、一言で言うと、「ガチンコ」です。「ガチンコ」は相撲用語で、「八百長なしの真剣勝負」の意味ですが、数年前に流行したテレビ番組のタイトルにも使われているので、ご存知の方も多いかもしれません。
 「失われた10年」といわれた1990年代も終わり既に21世紀に入ったわけですが、景気は幾分明るくなってきたものの、構造改革という割りにどこがどう改革されているのか良くわかりません。かつてはジャパン・バッシング(Japan Bashing)が困った問題としてありましたが、現在はより深刻な問題としてジャパン・パッシング(Japan Passing)が指摘されます。強すぎて批判されたジャパン・バッシングから重要でないとされるジャパン・パッシングへの移行は、言葉付の相似性とは裏腹にわが国の置かれた状況の深刻さにおいて、決定的に異なるものです。
 残念なことですが、教育についても、ジャパン・パッシングが見られるのではないでしょうか。海外からの留学生が日本の教育に失望して、アメリカの大学などに転校するといった話を聞きます。様々な問題があるのでしょうし、最近になって教育に携わるようになった私に何がわかるのかという気もしますが、自分の学生時代も振り返って日本の大学教育に感じる問題は、「あたりまえのことがあたりまえのようにやられていない」ということにあるのではないでしょうか。すなわち、入学試験の勉強が大変すぎるという反動もあるのでしょうが、勉強する場であるはずの大学において、十分な勉強がなされおらず、また、勉強をあまりしなくても卒業できてしまうという問題です。こうしたあたりまえのことが十分なされていないというのは、どこか八百長くさく、そうした点が教育におけるジャパン・パッシングの要因の一つになっているのではないでしょうか。この点を重視して、私の教育方針は、「あたりまえのことをあたりまえのようにする」、換言すれば、「ガチンコ」の講義です。当然、学生諸君には、それ相応の勉強をすることを求めます。
 つい最近までビジネス・マンをやっていて、ますます厳しくなる世の中を見ていると、やわな教育で教え子を送り出して大丈夫なのかと、非常に心配になります。学生諸君にとっては、簡単に単位が取れる先生が「良い先生」なのでしょうが、社会に出て振り返ったとき、いわゆるそのような「良い先生」は「どうでも良い先生」に成り下がっているのではないでしょうか。なぜなら、卒業するのに必要な単位は与えてくれましたが、生きていく上での力を何も与えてくれないからです。やはり、生きていく上での力を与えるのでなければ教育でないと思いますし、そのためには評価も当然八百長なしのガチンコとなるでしょう。
 こうした私のガチンコ評価から学生諸君には人気がないようですが、真剣勝負を求める学生諸君の受講を待っています。