10. ムダが許されない時代
 コスト削減、不正防止、合理化、近代化の名の下にあらゆる ”ムダ“が省かれる時代になった。企業をはじめあらゆる組織予算や経費のムダは容赦なく削られつつある。終身雇用、年功序列には多くのムダが含まれている。職場のシステムや個人の行動に関してムダや不正を取り除くために次々に法律や規則を改正する。コンピュータ処理、交通、通信のスピードアップ、e-business, e-governmentの発達がこのことをますます加速しているように見える。
確かにコスト削減、不正防止、合理化のねらいは望ましいことではある。しかし、目的達成の手段としての一連のムダ削減措置の背景には明らかに"人間不信“すなわち性悪説の発想がある。その結果、組織人としても、個人としても金銭的、時間的なゆとりがなくなり、「せちがらさ」が増してくる。
 自動車のハンドルにはある程度の”あそび“がないと危険である。人間の生活の中でのムダ話やムダな時間は必要である。文章を書くときは欄外の余白、行間には十分なスペースがないと、めりはりがなくなりその文は死んでしまう。同様に、社会生活の中でも規則、仕事、議論にもある程度の時間的、費用的なムダとあそびが必要である。ムダとは予備、余裕、ゆとりに通じる。これを省いてしまったら人間関係の潤滑油がなくなり、生活もギクシャクして危険度が増してくる。ムダと考えられる終身雇用時代には、企業は社員だけでなく、厚生施設や冠婚葬祭など社員の家族もすべて面倒を見たのは、自社のファミリーという意識があったからで、代わりに社員は可能な限り献身的に定年まで勤め上げることができた。職務上の技能だけでなく、連帯感、信頼感、忠誠心といった重要な人的資産、独自の企業風土もはぐくむ誇るべき日本文化というものがあった。しかし拡大再生産、右肩上がりの経済成長が望めなくなった今の社会では、何事においてもゆとりのないギリギリの生活を強いられるようになった。不慮の犯罪、事件、事故が起こったことを受けて安全対策、不正対策、プライバシー対策が講じられるが、その裏に膨大な費用がかかり、不便さが増し、個人裁量の余地がなくなり、信頼関係が損なわれることを忘れてはならない。行き過ぎると「角を矯めて牛を殺す」ことになりはしないか。
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