4. ケータイを持ったサル? |
チャイムの音とともに教室から学生が流れ出てくる。廊下に出たとたんに、あっちからもこっちからも「もしもし….」「もしもし….」の声が聞こえてくる。電車が駅について扉が開くと、いっせいに乗客がホームに降り立ち、改札口に向かう階段を下りながら「もしもし…」が始まる。バスや、公共の場で突然「もしも〜し…」と大声で話し始める人、携帯片手に運転しているドライバーも相変わらず多い(違法、罰金)。数人で打ち合わせ会議中に、あるいはレストランで食事中に一人が突然立ち上がり、ボケットから取り出した携帯電話を開きながら「失礼!」と言って飛び出していく。コンビニの店先の駐車場で、3,4人の若者が輪になっていわゆるXXコスタイルでしゃがんでいる。いずれも地べたに缶コーヒー、両手で携帯電話をいじくり、お互いに見せ合いながらなにやらひそひそと話している。薄ら寒い夕暮れのとある街角。ビルの玄関階段に高校生らしき女の子がたった一人しゃがみこんで必死に携帯電話を押し続けている。繁華街のS何とかと言う有名コーヒー専門店。20代後半と思われるOL風のセンスのいい女性が、あるいは真っ黒のリクルートスーツに身をつつみ黒いのかばんを提げた女子大生が一人で入ってくる。コーヒーを買い、灰皿を抱えて自分の席を確保する。コーヒーを一口すすり、やおらタバコに火をつけ、足を組みなおしてからゆっくりと携帯を開く。その流れ煙に巻かれて窒息しそうになることも多い。 どれもこれもよく見かける光景である。町も職場も、学校も携帯電話で溢れている。これを情報化(IT)時代の表われと称するのだろうか。2004年3月現在でわが国の携帯電話の普及率は68%だという。しかも今やこのマシーンを携帯電話と呼ぶにははばかられるほど電話以外の多機能を持つようになった。したがってケータイというのがもっともぴったりくるのであろう。 ![]() 昨年、京大霊長類研究所比較行動学教授の正高信男氏による「ケータイを持ったサル」と言う本が出た。この本によると、若者の携帯メール現象は、ニホンザルの群れが互いに「クー」と鳴き合うクーコールに似ているという。森の中で姿が見えない同士が存在を確認し合い、情緒的につながって安心を得るシステムだ。クーコールは意志の伝達でも、情報通信でもない。若者のケータイコールも似たようなものである。3分前まで一緒にいた友達に送る携帯メールに何か具体的なメッセージが込められているわけはない。ただひたすらいつも誰かとつながっていたい。飛び交うメールの背後には、そんな不安がある。著者はこれを「コミュニケーションのサル化」現象とよぶ。さらに最も原始的で最も私的な言語であるクーコールの方向へと若者が回帰している以上意味を伝える社会的な言葉、公の日本語が乱れるのは防ぎようがない、「現代日本人は人間らしさを捨て,サルに退化してしまった。」と。そう言えばケータイを握った茶髪の若者は、以前はやった名作映画「猿の惑星」に出てくるサルにそっくりであることに誰もが同意するだろうであろう。 ケータイの技術は日進月歩で進化している。これによって行政も、日常生活も、確実に便利で効率化しているのは間違いないが、一方で、上に述べたような、マナーの問題はいうまでもなく、日本語によるコミュニケーションとそれに関連して家族や社会の中の重要で人間的な側面が損なわれつつあるのも事実であろう。 ![]() |
![]() |
戻る |