6. 今どきのことば
 最近巷で見聞きする言葉使いの中には大きな抵抗感と、違和感を覚えるようなものが多く、あたかも英語の新語に出くわしたようで、意味や、用法も不可解なものが結構ある。教室で、学生食堂で、電車の中で、テレビの中でよく聞くことばであるが、おじさんの感覚では何とも不快、不可解であり、直接意味を尋ねたこともある。いくつか拾い上げてみると。
 「げろむか」(とてもむかつく)、「げろうま」(とてもおいしい?)、「バリ」、「超うれしい。」、「昨日はぼく死んでました。」(調子がよくない)、「ありえない」(信じ難い) 強調の意味だろうが、状況はそれほど大げさに言うことではない場合が多い。同意や相づちを打つときは「だよね。」「へぇ、そうなんだ。」「その話最初はおいしいと思ってたんだが」。あるタレントが料理番組の中で舌鼓を打ちながら「これってやばいかもしれない。」やばいとは不良少年かやくざの言葉だと思っていたが、美味しい、素敵だ、すばらしいの意味でも使うらしい。また最近は何にでも「はまる」人が多い。「なにげに」(さりげなく)、「私的には…」(私は)。美しい、美味しい、大きい、高い、うれしい、上手い、速い、気持ちいいなど何でも「すんげぇ」「めっちゃ」の一言でかたづけてしまう(でしか表現できない)若者が多い。「マジ(で)」(本当に)。「彼女もう就職モードに入っている。」(状態、体制)。
「1万円からお預かりします。」(1万円お預かりします。)「メニューの方お下げいたします。」(メニューをお下げいたします。)これらはみなレストランのマニュアルにあるのだろう。
 「私、いぬ嫌いなだから」(私は犬が嫌いですから)。「免許証見せていただいてよろしかったでしょうか。」(免許証を見せていただけませんか)。有名女優「うわぁ、この部屋すごい気に入るかも。」(この部屋とても気に入ったわ)。「その会社とりあえず受けてみようカナみたいな。」(と私は思います。)「一生懸命がんばるんでみなさん応援して下さい。(サッカー選手)(がんばりますので)「…んで、」が非常に多い。「ファンの皆さんに見せてやりたい」。(うぬぼれなのか、無知なのか。見ていただきたい、あるいはせめて見てもらいたいぐらいの敬語が使えないのか)。「これまで英検?一度も受けたことないんです。」途中の語の後ろを上げる半疑問形。「食べれる」「出れる」「しゃべれる」「信じれん」などの「ら」抜きことば。ある100円ショップで「いらっしゃいませ〜ぇ」と最後を3秒ぐらい長く延ばして言う。
 これらは現代の若者にとってはごく普通に共有しているボキャブラリーには違いないかもしれないが、すべての現象に感覚的な言葉だけで反応することに慣れると、抽象的な問題や複雑な心の問題を表現する語彙力や表現能力は低下してしまうだろう。感覚的で、ぶっきらぼうなコミュニケーションは、大人の感覚からすれば、何とも耳障りで違和感が残るし、若者ないし一部の業界の流行り言葉のようにしか映らない。いまやテレビ、パソコン、携帯電話のような情報ツールによって文化も言葉もあっという間に日本中に伝播してしまうので、このような若者用語も決してローカルなものではなくすべて全国版である。
 言葉は、日々そして時代とともに変わり行くものであって、今は感覚的で、パンチがあり、現代の生活スタイルに適したものだけが、より合理的な言葉として好まれるのであろう。しかし、これらは同世代の若者、学生の間では便利で、当たり前のコミュニケーションスタイルであるとしても、感覚的な表現だけの、あるいは誤用に慣れてしまうと、世代をこえて、いわゆる大人世界でのコミュニケーションにおいてはさまざまなあつれきを生じかねない。両者を区別するためには、自分の日常の言葉使いは若者言葉であり、必ずしも世代を超えた共通語ではないということ、すなわち自分たちの用語、用法の成否を客観的にとらえることが必要である。あるいは何が正しいか、何が標準なのかを知った上で、学生の間は一種の遊び感覚で会話を楽しめばいいのではないだろうか。それがけじめというものである。さもないと会社の中、大人社会で、いつまでたっても若者言葉でしかしゃべることができない人間になってしまう。これではマナーを知らないとか、教養がない人間と評価されてもしかたがあるまい。このままだと誤った語法が定着し、代々受け継がれ、語彙や表現力がますます貧弱になってしまう危惧さえある。
 昨今のように何でもありの日本語世界の中で、たとえば文学、芸術の老大家、中年の福祉の専門家、クラシック音楽に秀でた若い女性などが、落ち着いた口調で、正しく、表現力豊かに語っているのを聞くと、日本語がとても新鮮で、美しい言葉のように響いてくる。かつては誰もが当たり前のようにしゃべっていたはずなのに、同じようにしゃべる人が今はごく少数になってきているのは間違いない。 英語を学ぶのもいいが、その前にお互いに少しでもきちんとした日本語が使えるように心がけるべきではないだろうか。日本語をもっと大切にしよう。信頼できるNHKアナウンサーに倣って豊かな表現力を身につけよう。
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