1. ガキ大将のふるさと |
私のふるさとはには山と畑と田んぼがあった、川もあった、家の前には海が広がり、遠く水平線まで見渡すことが出来た。一言でいうと典型的ないなかである。高校に行くために家を出て、一人で街に移り住むまでの15年間をこのいなか村で過ごしたことになる。地理的には長崎県のほぼ中央に位置する七ツ釜村は、極端に交通の便が悪く、高校時代の友達は私のふるさとのことを陸の孤島とか酷道202号などと言ってからかった。 今にして思えば、赤貧にあえぐ農家の次男であった私は、厳しい父親の連日の叱咤の雨の中で萎縮していたが、学校に行くのが、というより友達と一緒にいるのが何よりも楽しい典型的な「外弁慶」であった。小、中を通じて2クラスずつしかない小さな学校だったので、いつも7,8人の同じグループが遊び友達だった。毎朝学校に行くときは近くの神社に集まり、ひと遊びして全員そろってから動き出し、途中で友達を一人ずつさそいながら登校した。まじめに歩けば20〜30分の距離だが、下校時には寄り道をして遊びながら帰るので2時間も3時間もかかってしまう。学校から帰る道すがらにはイチゴ畑、みかん畑があり、いなかの少年たちは何の躊躇もなくつまみ食いの誘惑に乗ってしまう。ヤマモモが色づき、椎の実が枝いっぱいにはじけている。、ちゃんばらごっこに興じたり、林の中に入ってターザンごっこをしたこともある。潮が引いたら海に直行し、空になった弁当箱一杯あさり貝を拾って帰ることもあった。夏には学校帰りにみんなで近くの岩場で飛び込み、水泳を楽しんだ。水着など誰も持っていないが、パンツ一枚になればいいし、海から上がってパンツが乾いてから服を着て帰れば何も問題にならない。 このようにわが中学時代には季節感溢れるスリリングな下校時間があった。もちろん村のおじさん達や先生に叱られたこともしょっちゅうだったが、悪ガキとして知られた少年達は同時に懲りない面々でもあった。断っておくが、私は決してガキ大将ではなかった。皆を取り仕切り、率先して悪事に誘っていたT男が大将であったことは自他共に認めている。客観的に見れば私はおそらくナンバー2か3ぐらいだったと思う。 ![]() あのふるさとも今ではすっかり変わってしまった。先日帰郷した際に久しぶりに昔の村であった今の"町内”を歩いてみた。道路は隈なく舗装され、昔の家は次々にモダンな家に建て代わっている。砂利道に覆いかぶさるように茂っていた椎の木は一本も見当たらない。イチゴ畑や、みかん畑があったあたりには立派なビニールハウスが並んでいる。これでは子供と言えどもつまみ食いする気にはなれない。というよりも道端にも、家々の庭にも子供の姿が見当たらない。ただ遠くに見える山の稜線と西の海の水平線だけは50年前と同じ姿をとどめている。この過疎の町も、今流行の行政の統合化の波をうけて、来年には西海市になるらしい。毎年家族とともに車で里帰りをする時、「お父さんはおばあちゃんの家が近くなると ![]() |
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