フランスの旅 3

2005年の夏,フランス各地の観光地を訪ねました.そのときの写真を紹介します.

 3 カルカソンヌ(Carcassonne)とミディ運河(Canal du Midi))

カルカソンヌ

ナルボンヌ方向からハイウエイA61を西にドライブする.なだらかな丘にブドー畑が広がる.A61を降りてしばらく走ると,カルカソンヌの町に入り,城壁が見えてきた.カルカソンヌの二重になった堅固な城壁は、ヨーロッパ最大といわれる.町は、市内を流れるオード川Audeを挟んで、下町Ville Basse と城塞に囲まれたシテ La cite とに分かれている。シテの町は一周1,500mと大きくない。城塞のとんがり帽子が特徴の塔は52あるという。中世の時代に戻ったような気分になる.ケビンコスナーの映画「ロビンフッド」はカルカソンヌでロケが行われたという。

 オード川のそばの駐車場に車を停めて,オード川の古い橋をわたる.橋の上から見る城がもっとも美しい.大勢の人も城をバックに記念写真を取っていた.

 城塞都市シテに入るには、ナルボンヌ門の吊り橋(ランプウェー)を通る.シテは、城の中の町だが、今でも1,000人ほどの人が住んでいる。レストランやホテルの他に、土産物屋が多い。建物を勝手に造ったり直したりできないので、町は中世そのままのたたずまいだ。観光客が多く,お祭りのような楽しい空気が広がる.通りには大道芸も出てにぎやかである.シテのおくにはシテを守るコムタル城がある.
   オード門から出て,城壁を見物した.城の上からの眺望はすばらしく,南の方向にピレネー山脈が見える.また,城壁めぐりの観光ツアーの馬車ものんびり通っている.そこから,下の町へ降りる.下の町は,十字軍による異端狩りから身を守るため、シテ内に暮らしていた人々が移住してできたという.ゆっくり歩いて中世の町並みを満喫する.

 

           カルカソンヌの概要

カルカソンヌはフランス南部の観光地.ヨーロッパに残された最大の城塞都市「シテ」を中心とした町。中世の城がそっくりそのまま残された,ユネスコの世界遺産である. 街の名前カルカソンヌは、カール大帝がこの都市の攻略をあきらめ退散するときに、当時街を治めていた女性カルカス (Carcas) が勝利のラッパを吹き鳴らした(sonner) ことに由来する。ピレネー山脈を望む川沿いの豊かな土地に紀元前6世紀にガリア人が住み始め、古代ローマ時代(紀元前3世紀)にオード側の土手の頂に最初の要塞が作られた。カルカッソンヌの丘の上の旧市街が「シテCITE」。二重の城壁は総延長3キロメートルあり、古いものは6世紀に西ゴート族が、新しいものは13世紀にフランス国王が造った。争いがあるごとに増築され、シテは難攻不落の要塞と化していく。1112世紀には領主のトランカヴェル伯爵がカタリ派に友好的だったためにアルビジョワ十字軍に攻撃され、水路を断たれて屈強な要塞も15日間で落城、フランス国王に献上された。
 支配者は次々と代わったが、フランスとスペイン間の交通の要塞であったため、要塞として重要な役割を果たしてきた。1659年にピレネー条約が締結されてスペインとの国境問題が解決すると、シテは要塞としての役目を終え、荒廃していく。19世紀になって,作家で歴史家のメリメの進言に基づいてその歴史的意義が認められ,美術史家ビオレ・ル・デュクがもとの姿に復元した。(Wikipediaより抜粋)。 

ミディ運河

カルカソンヌの町をはなれ,ミディ運河を見学に行く.これも世界遺産に登録された貴重な文化遺産である.この運河はA61のルートにほぼ平行して200キロ以上に及ぶ長さである.案内板にしたがって,ツールーズの手前,現在,公園になっているところに行った.運河にはいくつかの観光用のボートが係留されており,のんびり散歩をする人もいた.聞いてみると運河めぐりでバカンスを過ごしているという.運河に沿ってポプラの巨木が大きく枝を張り,心地よい木陰を作っている.水辺で鳥と戯れていると時の過ぎるのを忘れるようだ.フランスの人は,バカンスをこうして過ごしているのである.

 ミディ運河の概要

地中海と大西洋を結ぶ運河.全長240km、支流部分も含めた総延長では360kmに及ぶ。19世紀に鉄道に取って代わられるまで、大西洋と地中海との間を船舶で結ぶ大量輸送ルートであった。17世紀のルイ14世の時代に,地元のリケ((Pierre-Paul Riquet)の発案により国家プロジェクトとして工事がはじまり,約30年(1666-1694)かけて作られた.標高差のある地域に水を供給するため、当時の土木技術の最先端技術を駆使したという.工事は難工事続きで、国家からの予算だけで賄うことはできず、リケは家財を売り払い、娘の持参金をも注ぎ込んだという。しかし、リケはこの運河の完成をまたず1680年に亡くなった。工事は彼の息子が引き継ぎ、リケの逝去から7ヶ月後の1681年に完成した。その後水害などの被害を受け改修がなされ、1694年に最終的に完成した。この運河の完成で、運河沿いの地区の産物の流通が盛んとなり、特にラングドック地方のワインは飛躍的に生産が拡大した。その結果、リケの故郷ベジエはワイン交易の中心地として大いに発展した.

その後、19世紀に鉄道が開通し、運河は輸送ルートの主役の座から降りた.現在では運河クルーズで人気の観光地となっている。また、動力を持たない当時の船舶を人や馬が引くために運河の両側につけられた道には、日差しを遮るためにプラタナスや糸杉が植えられており、心地よい水辺の散歩道となっている(Wikipediaより抜粋)。