19世紀パリ都市計画におけるパサージュ

2005年度フランス文化コース選考者報告


はじめに

 私がパサージュを研究対象とするきっかけとなったのは、エッフェル塔と出会ったことにある。ロベール・ドローネの《Les Fenêtres》をはじめ、絵画・文学・映画等、様々な作品においてエッフェル塔はパリの象徴として機能してきた。しかし、そもそも鉄でできた建築物に美的要素を見出すこと自体が近代以降の美意識によるものなのだ。ちょうどその美意識の転換期に鉄道駅、中央市場とともにパサージュは登場した。ヴァルター・ベンヤミンの『パサージュ論』はパサージュ全盛期を舞台に書かれた。この著書に初めて目を通した時の衝撃は今でも忘れられない。ヴァルター・ベンヤミンとは、20世紀ドイツの批評家・思想家・哲学者で、アドルノやショーレム、ブレヒトらと親交を結び、歴史的唯物論とユダヤ的神秘主義を結びつけた思想を展開した人物だ。主な著書には『パサージュ論』をはじめ、『ドイツ悲劇の根源』『一方通交路』『複製技術時代の芸術作品』『暴力批判論』がある。

 パサージュ(Passage couvert)とはガラス屋根で覆われ、両側には商店が立ち並ぶ比較的狭いアーケード街で、18世紀から、19世紀にかけてパリを中心にヨーロッパ各地につくられ、一階部分には商店、その上には個人の住居があった。パサージュよりも高級感があるものは「ギャラリー」(Galerie)と呼ばれ、1788〜1860年の間に50、小規模のものを含めれば、100以上のパサージュやギャラリーがつくられたが、第2帝政下のオースマンによる都市計画の実行後、衰退の一途をたどっていった。ベンヤミンは『パサージュ論』において、18世紀末〜19世紀パリのパサージュについて考察し、また、当時のパサージュに関する多くの記述を同著作中に収めており、当時のパサージュに関する重要な資料となっている。しかし、現在のパサージュの状況を知るためにはベンヤミンのテキストだけでは物足りない。現在のパリのパサージュを自分の眼で確認し、実際に現在の遊歩者の一人となってみたいと考え、今回の旅行を思い立った。

 パリには現在約20ものパサージュが残っている。現存するパサージュは、パレ=ロワイヤル周辺、モンマルトル大通り周辺、サン・ドニ通り周辺そしてマドレーヌ寺院周辺と大きく4つの地域にまとめることができる。今回の旅行では、これら現存するすべてのパサージュを訪れることができた。まず、マドレーヌ寺院周辺のパサージュから見ていくことにする。


パリのパサージュ

1 マドレーヌ寺院周辺

 オペラ・ガルニエから徒歩約5分、キャプシーヌ通り、マドレーヌ通りを西に行くと、大きな寺院がある広場に出くわす。これはマドレーヌ寺院といって、1845年に完成されたコリント様式を持つ異色のキリスト教寺院。このあたり一帯は高級ブランドショップが立ち並ぶパリ有数のおしゃれな街区であり、観光客の姿も多く目にする。

 マドレーヌ広場に面した場所に、Galerie de la Madeleine の入り口を見つけた。以前、パリのパサージュは全盛期こそ人通りも多く大変賑わった施設だったが、今となっては当時の姿は見る影もなく、日本でいう、寂れきった下町の商店街のようだと聞いたことがあった。確かに人通りは疎らだが、そのエントランスの、重厚で高級感漂う造りにしばし見とれる。中に足を踏み入れると、足元にはまっすぐに伸びた格子状のタイル、頭上には鉄道駅を想起させるガラス屋根が設けられている。やはり日本の屋根つき商店街が念頭にあったのか、初めてパリのパサージュを目にした時、それほど長さがないことも気になった。考えてみれば、建築技術の革新によって、広大な室内空間を確保できるといってもやはり、パサージュのようにもともとあった建物と建物の合間を縫うようにしてつくられた建造物では技術的に限界があったのだろうか。それとも、もともと建物と建物の間につくられることを目的とされたため、意図的に規模を小さくしたのだろうか。初めて体感する、パリでの「遊歩」の時間にそんなことを考えていた。


Galerie de la Madeleine (ギャラリー・マドレーヌ)
ギャラリー・マドレーヌ
Passage Puteaux (パサージュ・ピュトー)
パサージュ・ピュトー

 パサージュ・ピュトーは、完成は1839年、比較的改修工事の進んだパサージュのようだ。ラルカド通り(左)/パキエ通り(右)にあり、化粧品店やレストランなどの店が建ち並ぶ。Galerie de la Madeleine に比べ、親しみやすい雰囲気がある。このパサージュは、サンジェルマン鉄道の駅、サン・ラザール駅の開発に合わせて計画されたが、駅の開発が数十年遅れてしまい、場所も変わってしまったため、結局修道院跡の現在地につくられたという。このパサージュの親しみやすさは、この事実にも裏付けられているのだろう。そして今だ、このパサージュが取り壊しを免れ、建設当時と変わらない姿でこぢんまりと息づいているのはこの立地条件のおかげとも言えそうだ。


2 パレ=ロワイヤル周辺

 Galeries du Palais-Royal(ギャラリー・デュ・パレ=ロワイヤル) 、プチ‐シャン通り/リヴォリ通り、完成/ボワ1788年/ドルレアン1830年。
 リヴォリ通りを挟んでルーブル美術館のちょうど向かい側に位置するパレ=ロワイヤルは大きな通りに面しているにもかかわらず、一歩足を踏み入れると、そこには広大な庭園を持つ王宮のような空間が広がる。パレ=ロワイヤルとは、『王宮』を意味する。パサージュという商業施設に、それとは対照的ともいえる王宮の名が冠されるとは、何とも意外だ。このパレ=ロワイヤルにはかつて、ギャラリー・ド・ボア、その解体後に同じ場所につくられた、ギャラリー・ドルレアンがあり、現在ではその柱のみを残す。隣接する庭園と共に市民の憩いの場所となっている。今でもアンティーク調の雑貨が通路沿いのウインドーに並び、かつてパサージュとして栄えていた頃の面影を残している。


Galeries du Palais-Royal (ギャラリー・デュ・パレ=ロワイヤル)
ギャラリー・デュ・パレ=ロワイヤル
Galerie Véro-Dodat (ギャラリー・ヴェロドタ)
ギャラリー・ヴェロドタ

 Galerie Véro-Dodat(ギャラリー・ヴェロドタ)、ブロワ通り/ジャン‐ジャック・ルソー通り、完成/1826年。
 このパサージュは入っている店舗の総数自体少ないながら、落ち着いた雰囲気のある店舗を多く見ることができる。通りに面した場所にあるレストランは多くの客で賑わっている。細部に目をやると、至るところに美しい装飾が施してある。今も昔も「遊歩者」はショーウインドーのみならず、この見事な装飾にも心奪われていたことだろう。天井には三角形のガラス屋根、足元には格子状のタイル、そして木造のファサードを持つこのパサージュは全体の色合いは茶色が多くを占めており、立ち並ぶ店舗同様落ち着いた雰囲気をより一層高めているようだ。

 下左の写真、Passage de Choiseaul(パサージュ・ド・ショワズール)、プチ・シャン通り/サン・オーガスティン通り、完成1827年。
 ガラス屋根が長く伸びているこのパサージュは直線で最も長く、全長190mほどである。並んでいる店舗は庶民的なものが多く、日本の商店街を彷彿とさせる。この辺りは日本の会社も多く店舗を構える地域で、このパサージュでは日本人の姿も多く見られ、日本人の経営するインターネットカフェを見つけた。美しい着物の日本人女性の姿もあり、パリとは違う空間を体感した。ガラス屋根や壁の汚れが目立ち、メンテナンスの必要性を強く感じた。天井はとても高いのに三角形のガラス屋根には網が張ってあり見通しは良くないし、光も入ってこないので全体的に暗いイメージ。街灯のようなものが屋根の下あたりに左右に橋渡ししてあり、天井自体は高いのに低い空間に感じる。


Passage de Choiseaul (パサージュ・ド・ショワズール)
パサージュ・ド・ショワズール
Passage Jouffroy (パサージュ・ジュフロワ)
パサージュ・ジュフロワ


3 モンマルトル大通り周辺

 上右は Passage Jouffroy(パサージュ・ジュフロワ)。モンマルトル大通り/グランジ‐バトゥリエール通り、1847年完成。
 大きなかまぼこ型のガラス屋根が印象的なこのパサージュは、お土産品や蝋人形館、ホテルなど、多種多様な施設が軒を連ねる、非常にバラエティーに富んだパサージュだといえる。大通りに面していることもあって、人通りが多く賑わっている様子だ。このパサージュが開通した1846年は、パサージュ衰退期にあたるが、パリの施設で始めて暖房システムが導入されるなど、かなり進んだ技術も採用されているようだ。どん詰まりには時計が設けてあり、天井も高いのでまるでオルセー美術館のようだ。階段を隔ててさらに角を曲がると三角の屋根を持った少し雰囲気の違う空間が広がる。前者がオルセー駅ならばこちらはサン・ラザール駅といったところだろうか。

 下左は Passage Verdeau(パサージュ・ヴェルドー)。グランジ‐バトゥリエール通り/フォブール‐モンマルトル大通り、1847年完成。
 グランジ‐バトゥリエール通りを挟んで Passage Jouffroy の向かいに位置するこのパサージュはもともと Passage Jouffroy を北に延長したものであり、ジュフロア開通の翌年1847年に開通した。ジュフロアよりも小規模だが、古本屋や古カメラ屋などのアンティークショップが立ち並び、ジュフロアとは違う落ち着いた雰囲気に惹かれて、通路に積んである古書を手に取ったり、ショウウインドーに見入る『遊歩者』の姿がみられる。このパサージュかまぼこ型のガラス屋根に時計が設けてあり、 Passage Jouffroy とつくりが似ている。床は大理石のようなものでできていて、まだ新しいと思われる。


Passage Verdeau (パサージュ・ヴェルドー)
パサージュ・ヴェルドー
Passage des Panoramas (パサージュ・デ・パノラマ)
パサージュ・デ・パノラマ


 上右と下左はいずれも Passage des Panoramas 11, Boulevard Montmartre。モンマルトル大通り、1800年完成。
 パノラマとは、18世紀末に発明されたもので、円筒形の建物の内壁に360度ぐるりとキャンバスを巡らし、そこにリアルな風景画や戦争画などを描いた見世物のことである。このパサージュにはかつてパノラマ小屋が何棟もあって、それがこのパサージュの名の由来となったようだ。Passage des Panoramas はいわば複合型の商業施設の元祖である。しかし現在ではそこにパノラマ小屋の姿はなく、レストラン、洋品店、雑貨屋が並んでいる。通路が四方に広がっており、現在使用されていない通りは本当に産業施設の廃墟のようになっていた。変わった柄の床は剥がれたところだけ部分的に改装してあり、つぎはぎの状態だ。丸い街灯はコンスタントに設置してあるが、数は少ない。

 下左は Passage des Princes(パサージュ・デ・プランス)。イタリアン通り/リシュリュー通り、1860年完成。
 このパサージュは、パリにつくられた最後のパサージュだ。近年改装・復元され、鉄の装飾が美しいガラス屋根を持ち、おもちゃ屋さんや、マクドナルドなどポップなイメージの強いテナントが入っている。一見不釣合いに思える組み合わせだが、独特の色がある空間だ。入口の鉄格子がピンク色に着色してあって、中にある店舗のイメージと合致している。このパサージュのシンボルマークのようなものが床にパターン化されている。ガラス屋根はとても見通しが良く空の青がとても鮮やかに映っていた。現代的なデザインのエントランスも見られ、他のパサージュにあるような女神像などの象徴めいたものは全く見られない。


Passage des Panoramas (パサージュ・デ・パノラマ)
パサージュ・デ・パノラマ
Passage des Princes (パサージュ・デ・プランス)
パサージュ・デ・プランス


 Passage des Princes(パサージュ・デ・プランス、イタリアン通り/リシュリュー通り、1860年完成)は、パリにつくられた最後のパサージュだ。近年改装・復元され、鉄の装飾が美しいガラス屋根を持ち、おもちゃ屋さんや、マクドナルドなどポップなイメージの強いテナントが入っている。一見不釣合いに思える組み合わせだが、独特の色がある空間だ。入り口の鉄格子がピンク色に着色してあって、中にある店舗のイメージと合致している。このパサージュのシンボルマークのようなものが床にパターン化されている。ガラス屋根はとても見通しが良く空の青がとても鮮やかに映っていた。現代的なデザインのエントランスも見られ、他のパサージュにあるような女神像などの象徴めいたものは全く見られない。

 近年になってパサージュの再発見がなされ始めたが、そのきっかけを作ったのが、Galerie Vivienne(ギャラリー・ヴィヴィエンヌ、プチ‐シャン通り/ヴィヴィエンヌ通り、1826年完成完成)である。全面改装された空間にジャン=ポール・ゴルティエなど名だたるデザイナーたちが店舗を構えている。このパサージュは開設当初からアッパークラスをターゲットにした、今でいう高級専門店を企図していたようだ。現在でも、入っているテナントを見ても、行き交う人、レストランにいる人を見ても、小奇麗な格好をした人が多く感じられた。私がこのパサージュを訪れた時にちょうど画学生か建築学科の学生の団体と出くわした。熱心にパサージュのガラス屋根をスケッチする彼らの姿を見て、改めてパサージュという商業施設が再評価されていることを痛感する。パサージュによってそれぞれ色の印象があって、このパサージュでは特に薄紅色、アイボリー等パステルカラーが目立った。床の柄も大柄で独特のものだ。ジャン=ポール・ゴルティエのポスターも何点か壁に大きく掲げてあった。


Galerie Vivienne (ギャラリー・ヴィヴィエンヌ)
ギャラリー・ヴィヴィエンヌ
Galerie Vivienne (ギャラリー・ヴィヴィエンヌ)
ギャラリー・ヴィヴィエンヌ


 Galerie Colbert(ギャルリー・コルベール、プチ‐シャン通り/ヴィヴィエンヌ通り、1826年完成)では、入口からまっすぐに伸びる回廊を抜けると巨大なガラスのドームのある空間にぶつかる。ギャラリー・ラファイエットやプランタンで見ることの出来るガラスドームのようにきらびやかに装飾されているわけではないが、その大きなガラスドームには青空が映り、建物と建物も間にできた空間でありながら開放感を感じることができる。現在では全くテナントは入っておらず、入口は警備されていた。商業目的でつくられた施設であるにもかかわらず、モニュメント的な役割しか持ち得ないこのパサージュを目にし、再度パサージュの存在意義について深く考えさせられた。


Galerie Colbert (ギャルリー・コルベール)
ギャルリー・コルベール
Galerie Colbert (ギャルリー・コルベール)
ギャルリー・コルベール


4 サン=ドニ通り周辺

 Passage du Prado(パサージュ・デュ・プラド、フォブール・サン‐ドニ通り/サン‐ドニ大通り、1830年頃完成)。
 モンマルトル大通りを東に進んでいくと、サン‐ドニ大通りにぶつかる。この界隈はパリとは違う場所のように感じる。アラブ系の人々が多く行き交うこの大通り沿いにあるプラドは、主にインドやパキスタンの店が並んでいる。天井の造りは、とてもユニークで目を引くが、ガラス屋根などはあまり手入れがされていないようだった。昼間でも人通りは少なく、日が落ちて一人でうろつくのは避けたほうがよさそうだ。汚れていながらも天井にはオレンジ色の変わった装飾が施してあり、他のパサージュとは異なった様相だった。


Passage du Prado (パサージュ・デュ・プラド)
パサージュ・デュ・プラド
Passage Brady (パサージュ・ブラディ)
パサージュ・ブラディ


 Passage Brady(パサージュ・ブラディ、フォブール・サン‐ドニ通り/フォブール・サン‐マルタン通り、1828年完成)。
 創設当初は200メートル余りの、パリで最長といわれたこのパサージュは、大通りの開通に伴い、東西に分断され、現在では西側には屋根があるが、東側には屋根がない。分断された部分をみると、屋根の形状は三角形を二つ合わせたような形をしている。床は剥がれたままになっている箇所が多く見られた。Passage Prado 同様インド、パキスタン系のお店が多く、このパサージュはインド、パキスタンそしてアラブ系の人々が多く行き交っていた。パリの10区の様相がパサージュにも顕著に現れているようだ。

 Passage du Caire(パサージュ・デュ・ケール、カイロ広場/サン‐ドニ通り、1799年完成)。
 迷路のように入り組んだ通路とショウウインドーに無造作に並べられたマネキン郡が異様な雰囲気を醸し出すこのパサージュの名の由来は、エジプトの首都カイロである。デュ・ケールができる前年、1798年のナポレオンのエジプト遠征がきっかけで巻き起こった流行に影響されたようだ。今では営業している店も少なく、人通りも疎らで寂れたイメージだ。名前にエジプトの地名が冠されているためか、床にはオリエント世界を彷彿とさせるような模様のタイルが用いられている。天井には複雑な通路に合わせたのか、オレンジと白のプラスチックの装飾があしらわれた、変わった形のガラス屋根が取り付けてある。


Passage du Caire (パサージュ・デュ・ケール)
パサージュ・デュ・ケール
Passage du Ponceau (パサージュ・デュ・ポンソー)
パサージュ・デュ・ポンソー


 Passage du Ponceau(パサージュ・デュ・ポンソー、サン‐ドニ通り/セバストポール大通り、1826年完成。
 Passage du Caireの向かいに位置するこのパサージュは道幅がとても狭い。改装工事中の店舗が多数あり、これまで見てきたサン=ドニ周辺のパサージュに比べればパサージュ自体も手入れが行き届いているようだ。頭上には正三角形のガラス屋根があり、街灯が等間隔に設置されている。

 Passage du Grand-Cerf(パサージュ・デュ・グランセール、サン‐ドニ通り/デュスウー通り、1825年完成。
 これまで見てきたサン=ドニ通り周辺のパサージュとはうって変わって洗練されたイメージ。ルイ・マル監督の映画『地下鉄のサジ』(1960年)の撮影にも使用されている。現在アクセサリーショップや画廊が立ち並ぶお洒落な場所。天井はとても高く至る所に美しい鉄の装飾が施してある。昼でも頭上の街灯が灯っていて、ガラス屋根を通して見える青空との対比が目に鮮やかだ。木製のファサードとアールヌーヴォー調の装飾の組み合わせが美しいパサージュ。


Passage du Grand-Cerf (パサージュ・デュ・グランセール)
パサージュ・デュ・グランセール
Passage Bourg-l'Abeé (パサージュ・ブールラベ)
パサージュ・ブールラベ


 Passage Bourg-l'Abeé(パサージュ・ブールラベ、サン‐ドニ通り/パレストロ通り、1828年完成)。
 Passage du Grand-Cerf の向かいにある、小規模なパサージュ。現在は全く店はなく、中にはショウウインドーのあった場所に板が貼り付けてあるところもあった。手入れもされており、場所としては商業空間としてまだまだ機能しそうな感じを受けた。屋根はかまぼこ型で時計が設置してあるので、このパサージュもまた、オルセー美術館を彷彿とさせる。入り口には何らかの象徴となっているような女神像が両側にそびえている。

Passage Vendôme, 16, Rue Beranger/3, Place de la Republique(パサージュ・ヴァンドーム、ベランジェール通り/リパブリック広場、1827年完成)。
 サン=ドニ通りのパサージュ群とは少し離れ、さらに東のリパブリック広場に面した場所に位置する。リパブリック広場は人通りも多く賑やかな場所であるのに、それとは対照的に人通りも少なく、入っている店舗の数も少ない。辛うじてリパブリック広場に面しているレストランにだけは人が集っていた。天井は三角形の屋根と教会の天井のような形の屋根との二種類ある。足元も通路中ほどに階段が設けてあり、レストランがある辺りと雑貨が売ってある辺りとに空間が二分されている。


Passage Vendôme (パサージュ・ヴァンドーム)
パサージュ・ヴァンドーム


5 まとめ

 幸運にも今回の旅行でパリに現存するすべてのパサージュを訪れることができた。
 全部で18あるパサージュ一つ一つがそれぞれ全く異なる個性を持っている。寂れきってほとんど機能していない場所、半ば記念碑的な役割を担っている場所、改装され繁華街とはいかないが、ひっそり息づいている場所、日本の商店街のように下町の雰囲気を持つ場所等様々だが、総じてパサージュ自体当初予想していた雰囲気とは全く異なり、開通当初の繁華街めいた場所とは比べものにならないくらいに寂れてしまっていたというのは明白で、その事実に大きな衝撃を受けた。
 ベンヤミンはパサージュ・デ・パノラマをはじめ、パサージュが全盛期だった頃の様子を書き、また、その『パサージュ論』を始めとする資料となるセンテンスを収集した。『パサージュ論』にはパサージュ全盛期の描写が多く用いられている。例えばパサージュ・デ・パノラマの盛況ぶりや、パレ・ロワイヤルにかつてあったパサージュの店舗の様子などだ。実物を目の前にした瞬間にさえ『パサージュ論』は多くのセンテンスを引き出し、実際の風景と照らし合わせることを可能にする力を持っていた。
 ベンヤミンもパサージュ全盛期に関する多くの資料を今自分が目にしている風景から引き出していたのだろうかと考えると、今日では寂れてしまった場所も異なる様相を帯びてくるように思える。
 しかしそれと同時に資料や理論のみでは語れないものがあることも痛感した。行き交う人々、いわゆる「遊歩者」は、パサージュ好きあるいは古い建築物に興味を抱いている人、パサージュ内に店舗を持つ人、パサージュ周辺住民、パサージュ改装に携わる人そして観光客が大半だったように思える。
 買物客など、かつて「遊歩者」と呼ばれるような人々が歩きながらショウウインドーをのぞく姿を目にすることはまれだ。モンマルトルの丘やエッフェル塔、凱旋門には人があふれていたが、それは建築なりその地域なりをいわばパリの象徴と見なし、記念碑的な視点を持っているからだともいえる。
 現在パサージュは「記念碑的な対象」と「開通当初のような商業施設」との狭間にある。歴史の1ページとして機能ではなく保存のみを優先させるには現在の人々の生活に結びつきすぎている。
 一方、現在パリでモードの最先端となっている場所はサン・ジェルマン・デ・プレ地区やリヴォリ通りの地下に近年新たに創設された商業施設であるため、パサージュのような、現在では場末となってしまった場所を改装し、創設当初のように、パリのトレンディーなスポットとしての役割を復活させる試みにも賛同しかねる。
 現在のパサージュには「記念碑的な対象」でも「開通当初のような商業施設」でもない、何か別の視点が必要とされているのではないだろうか。

おわりに

 研究旅行終了後の現在の段階ではまだ、強く印象に残った部分だけを辛うじて紹介したに過ぎず、この旅行の経験が消化され、これからの研究において本当にその成果が現れてくるにはまだまだ時間が必要なのかもしれない。この報告書を書きながら強くそう感じた。
 まだ自分の中で、強烈な印象とともに漠然としている部分が多くあり、その解釈に手を焼いているという状態だ。しかし、漠然としていながらも今回の旅行を機に、自分の中に新たに大きな何かを獲得したのは確かである。

 このような貴重な体験をさせてくださった諸先生方、私の研究を応援してくれている方々、そしてこの研究旅行で出会えたもの・人すべてに、この場を借りて感謝の言葉を送りたいと思う。本当にありがとうございます。


参考文献

W.ベンヤミン(今村・三島 他 訳)『パサージュ論』第1〜5巻(岩波現代文庫)
新井 洋一(編著)『パサージュ/遊歩の商業空間』(商店建築社)
好村 富士彦『遊歩者の視線』(日本放送出版協会)
相田 武文・土屋 和男『都市デザインの系譜』(鹿島出版会)
MISSAC, Pierre: Passage De Walter Benjamin(Edition Du Seuil)1987



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