近代長崎を巡る

2005年度日本文化コース選考者報告


1.研究旅行日程

 今回、本制度に採用して頂き、7月22日から9日間、長崎へ研究旅行に行ってきました。主な目的は、史料(主には、行政文書)の収集と関連地域への現地取材でした。スケジュールの概要は、次の通りです。

22日 長崎入り 県立長崎図書館にて史料収集
 夕方、長崎公園・諏訪神社・長崎県庁周辺で石碑の捜索
23日 終日、図書館での史料収集
24日 女神検疫所を見学
 隣接する大久保山中での石碑捜索
 午後、図書館での史料収集
25日 図書館休館日のため、現地取材
26日〜 28日までは、終日、図書館での史料収集
29日 午後まで、図書館での史料収集
 夕方、十八銀行長崎本店内史料室見学
30日 (予備日として利用)
 本河内水源地・倉田樋水水源跡を見学
 帰福

 9日間、以上のような日程で行動しましたが、ここで詳細を述べる前に、補助的な意味も込めて、私の行なっている研究の内容を説明しておきたいと思います。

2.研究内容と現在の状況

 以前、新政反対一揆についての様々な史料を読む機会があり、それまで全く興味のなかった一揆に関心を持つようになりました。その中で、あまり大きくは取り上げられていなかったのですが、明治時代には「コレラ騒動」というものが発生しており、そのことに大変興味を持ち、詳しく調べてみようと思いました。そこで私は初めて、明治期の日本ではコレラの発生が、社会に大きな被害をもたらし、また行政府がその対応策に追われていたことを知ったのです。
 安政5年に初めて日本に上陸したコレラは、明治に入ると更に猖獗を極め、日本全国に甚大な被害を及ぼしました。その侵入・流行地の1つとなったのが、前近代以来の開港場であった長崎です。明治に入った後、特に大きな被害をもたらしたのは、明治18年7月の流行でした。盂蘭盆の墓前での暴飲暴食が誘因となり、市内にコレラが流行、患者は800余名、内死亡者は600余名に上りました。この他の年でも、死亡率は約60%と、非常に高いものでした。
 このことから長崎でのコレラ流行の状況がどのようなものであったか、少し想像できるのではないでしょうか。明治期の長崎は、常に流行病侵入の危機に曝されながら、一方でその対応に追われていました。結果として、長崎はコレラの流行を契機として、急速な衛生政策の強化を迫られることになります。その迅速さは、一からの開拓が進められた函館や、首都に隣接する横浜といった、強力に近代都市化の進められた地域を除けば、地方都市の中でも群を抜いているといって良いでしょう。
 では、なぜ長崎はそれほどまでに急速に衛生政策を強化したのでしょうか。また、しえたのでしょうか。理由として、2つの要因が考えられます。1つは、純粋な衛生政策としてです。もっと明確に述べるならば、流行病の被害を軽減するためといえます。もう1つは、前近代からの開港場としての外国人居留民との関係です。そこには、流行の侵入危険性が潜み、貿易利潤や西洋という「近代」との直接的な接触、あるいは彼らによる内政干渉といった問題を孕んでいるのです。このような内的要因と外的要因の絡み合った中で、長崎は衛生化を進めていきました。
 私は現在、この長崎の衛生化について、上下水道工事・清掃・矮屋除却工事・土葬禁止と火葬奨励・海港検疫・飲食物販売規則など、多角的に分析していきたいと考えています。そこで、今回の研究旅行では、これまでの研究をより1次史料に依拠したものにするため、主に県立長崎図書館での史料収集を行なってきたのです。

3.史料収集

 今旅行の最大の目的は、前にも記したように史料の収集でした。長崎では、その多くを県立長崎図書館の郷土史料室に所蔵しており、私もそこで収集作業を行なうことになりました。約1週間の作業によって集めることのできた主な史料は、以下の通りとなっております。

 ・長崎水道給水規則 
 ・長崎水道始末 一・二 
 ・長崎水道志 
 ・長崎の水道と下水道 
 ・明治廿一・廿四年 長崎港船舶_疫紀事 
 ・長崎市伝染病紀事 及び 附表(明治24年) 
 ・長崎水道敷設工事 第一期 決算報告書 
 ・虎列剌予防心得草 
 ・明治十九年 虎列剌病流行紀事 
 ・長崎水道紀事 及び 附録 他8点 

 この中で、私が特に注目したいと思う史料について、簡単な解説を加えておきます。なお、これらの史料は貴重かつ古いものばかりでしたので、コピー厳禁となっており、全てデジタルカメラによる撮影となりました。

(1)明治十九年 虎列剌病流行紀事

 明治18・19年は、長崎でのコレラ流行および衛生化にとって、1つのエポックとなります。理由としては、被害が甚大だったこと、また行政の対策の甘さが露呈したことが挙げられます。これにより、県は急速な衛生政策の強化を迫られるのです。そのため、この史料を読み解くことで、当時の状況がより鮮明に見えてくるのではないかと考えています。

(2)6点の水道事業関連史料

 水道事業関連の6点の史料は、長崎における初期水道事業の全様について様々な視点から記述されている点で、たいへん重要な史料だと考えています。今回の史料収集で強く感じたのは、私の考える以上に当時の長崎にとっての水道事業が急務であり、大きな意味を持っていたのだということでした。というのも、水道に関する史料は非常に多く、かなり独特な位置を占めていたからです。これは長崎が古くから水源地に乏しく、また水質が悪いことに起因しているのではないでしょうか。最も象徴的だったのは、昭和の中頃に市の記念式典で行なわれた催しの中に、長崎での水道敷設をテーマにした演劇が上演されていたことです。パンフレットや脚本は現存しており、水道に関する特別な思いを感じました。また、これら6点の史料が公文書としては通常の事務簿とは別個に、詳細に書かれてあるため、とても興味深いものです。

(3)県庁甲・乙・丙・丁号達(明治9〜18年)

 これは、各年に県が出した布達をまとめたもので、いつどのような対策が講じられたのかを知るためには、とても便利です。当時の状況を知るには、地元新聞を見るという手段も考えられますが、こちらは欠如した部分が多い上に、当時の新聞は現在とは違い、多角的な分野の記事が掲載されているわけではなく、内容も限られているので、本布達を併せて見ていく方が、より正確な情報を得られると思います。

 この他にも重要な史料は多くありますが、今回の収集で得られた成果を見ると、卒業論文は水道敷設事業に比重をおくことになると思われます。これに関しては、参考文献を1点、見つけているので、上記史料を活かすためにも更に考察を進めていきたいと考えています。

4.現地見学

 日程中、私が見学に行った場所は、以下の通りです。

長崎公園・諏訪神社・坂本国際墓地・大浦国際墓地・出島記念館・高島秋帆旧宅跡・グラバー園・旧香港上海銀行長崎支店・十八銀行長崎本店・上野屋旅館跡・女神検疫所・シーボルト記念館・大久保山中・楢林鎮山宅跡・医学伝習所跡・本河内水源地

 いわゆる観光地と呼ばれる場所も多く含まれており、見て回るのは、とても楽しいものでした。しかし、今回の目的は研究旅行でしたので、その意味で印象的だった場所を紹介したいと思います。なお、見学の大部分は、時間の無駄にならないよう、図書館が休館となる月曜日を利用しました。

写真添付(シーボルト像・リンガー邸・旧香港上海銀行長崎支店・高島秋帆旧宅跡)


シーボルト像
シーボルト像
リンガー邸
リンガー邸


旧香港上海銀行長崎支店
旧香港上海銀行長崎支店
高島秋帆旧宅跡
高島秋帆旧宅跡


(1)石碑探索

 あらゆる出来事や場所の記念や記録として残されるのが、石碑です。私が驚いたのは、その数の多さでした。道を歩いていると、そこら中で石碑に出くわします。勿論、探していた石碑が全て見つかったわけではありませんが、予期せぬ発見もあり、面白いものでした。

発見した石碑
ピエル・ロチ来崎記念・松田源五郎翁之像・五厘金之碑・吉雄耕牛宅跡・医学伝習所跡・旧外浦町由来・居留地境・甲廿七番(居留地内番地)・倉田水樋水源跡

写真添付(松田源五郎翁之像・倉田樋水水源跡)

松田源五郎翁之像
松田源五郎翁之像
倉田樋水水源跡
倉田樋水水源跡

(2)女神検疫所

 長崎港を一望できる高台に、女神検疫所はありました。古くは江戸時代から、この近辺には検疫所があり、その役割を果たしてきたのです。長崎港の入り口ともいえる位置にある検疫所は、まさに絶妙の立地条件で、現在でもなお稼動する理由が分かります。地図上では何度も目にした地形でしたが、自分の目でその地形を見て初めて「ここが本当に“長崎港の入り口”なのだなぁ」と実感しました。

写真添付(女神検疫所境)

女神検疫所境
女神検疫所境

(3)大浦・坂本両国際墓地

 墓地に関する記述は多く読んでいましたので、本物を見た時には、それらの記述通りだったことを感じました。特に立地について言えば、現在でもかなりの高地にあり、当時、問題になったというのが納得できます。(火葬をしない外国人の墓地が高部にあるため、伝染病の病毒が低地に滲下するのではないかと、市街地の人々は墓地を移転するよう県に要請)
余談ですが、坂本国際墓地には、有名なトーマス・グラバーの墓も戦火を免れ現存しています。

写真添付(トマス・グラバーの墓)

トマス・グラバーの墓
トマス・グラバーの墓

(4)十八銀行長崎本店

 長崎には、明治期に長崎の経済界をリードした大物の資本家がいます。それが、国立十八銀行の創設者である松田源五郎氏です。彼は、全国的にも有名な実業家として知られる渋沢栄一に一目置かれるほどの人物でした。私が彼について調査したのは、彼が水道の敷設に強い影響を与えたからです。その影響力は「言論界の西道仙、経済界の松田源五郎」と言われていたほどです。
 明治初期、経済的に苦しかった民衆にとって、水道の敷設による負担の増加は死活問題となるため、人々の大部分は反対派でした。事実、長崎区内にある88ヵ町中55ヵ町では反対意見が採られたのです。これに対し、経済界からサポートしたのが、松田源五郎でした。彼が長崎でのありとあらゆる事業に着手していた点から推測しても、いかに強い影響力を持っていたかが分かります。彼を筆頭とする長崎の実業家たちにどのような思惑があったかは調査の余地のあるところですが、少なくとも彼らの協力なくしては長崎水道の敷設は、早期には実現されなかったのです。
 その松田源五郎氏について、十八銀行では史料室で多岐に渡る書簡や肖像画その他の貴重な史料等を見せて頂きました。図書館にはないものも沢山あり、たいへん参考になりました。

写真添付(十八銀行にて)

十八銀行にて
十八銀行にて

(5)本河内水源地

 本河内は、長崎の重要な水源地です。水源地に乏しい長崎にとって、この地は水資源確保の要となっているようで、現在でも以前の堤防を残したまま、新たなダムの建設が進められています。私はバスで行くべきところを徒歩で行ってしまい、長い坂道を延々と上り続けたため、貧血と腹痛で酷い目に遭いましたが、実際に目にした時には感激しました。当時の堤防は、私が想像していたよりもはるかに大規模で、いかに大がかりな工事であったかが伺えたからです。また、これまでずっと調査してきた長崎水道が目の前に広がっているのだと思うと、最終日の締めくくりとしては、本当に行って良かったと思いました。「百聞は一見にしかず」とは、正にこのことです。

写真添付(本河内水源地・・・)

本河内水源地
本河内水源地
本河内水源地
本河内水源地

5.研究旅行中、御助力頂いた方々

 旅行中には、様々な方に御助力を頂きました。探していた石碑の場所が分からず、各所で通行人の方に教えて頂いたこともありました。ここでは、その中でも大変お世話になった2名の方について、感謝の意を込めて、記述しておきたいと思います。

(1)K氏

 まず、図書館でお世話になったのが、K氏でした。この方は図書館で偶然に居合わせた方で、男性のご老人でした。調査中には、主に旧地名のことでご協力を頂きました。長崎には水道敷設の際、前にも述べた通り、反対派の人々が沢山いました。その反対派の中でも急先鋒として知られるのが、上野彌平です。彼は水道敷設には猛反対していましたが、工事が終了し、給水が開始されると、あることをきっかけに賛成派に転身します。そのきっかけというのが、小火事件です。彼は上野屋旅館という大旅館を経営していましたが、給水が始まった直後の明治24年7月1日に同旅館の斜向かいにあった饅頭屋から出火した際、水道による消火で類焼を免れたのです。(火災時の消火活動の迅速さによって、賛成派に転身した人は多い)
 私が知りたかったのは、旧外浦町にあったとされる、その旅館の所在地でした。論文の大筋とは、あまり関係のないこととはいえ、折角なので調べてみようと思ったのですが、史料には「外浦町の四ツ角」としか記載されておらず、土地に詳しくない私には少し厄介でした。そこでお話を聞かせて頂いたのが、K氏だったのです。私が尋ねると、K氏は快く対応して下さいました。しかも、すぐに「外浦町というのは、今の樺島町のあたりですよ。確か、あの辺りには、たくさん旅館があったなぁ」と言って、大正8年の地図を出してきて、その場所を指し示してくれました。見てみると、確かにそこには「上野屋旅館」と記されています。あまりの解決の早さに、私は驚いてしまいました。更に、竹ノ久保にあったといわれる避病院(伝染病流行の際に、患者が収容される隔離病院)についても、「あの辺りに避病院があったというのは、聞いたことがある。おそらく、現在、稲佐山のロープウェイ下のある市民病院ではないか」と、教えてくれたのです。史料でも役所でも分からなかったことを、あっさりと解決され、改めて年配者の知識量の多さを痛感しました。その後も、図書館でお会いする度に、励ましの言葉をかけて頂くなど、見ず知らずの学生に親切にして頂き、とても感謝しています。

(2)十八銀行長崎本店総合企画部I氏

 私が松田源五郎について調べようと十八銀行に行ったのは、予定外の突然のことだったので、アポイントも何も取っていませんでした。案の定、イベント前で史料室は整理中、入ることができなかったのです。ところが、わざわざ史料室の担当の方が降りてきて下さり、特別に見せてもらえることになったのです。その担当者というのが、I氏でした。I氏には史料室の中を案内してもらった上に、色々な面白い話を聞かせて頂きました。実は、この方も西南学院大学のご出身で、そのような話もあってか、お忙しい中、かなりの時間を割いて下さったのです。また、旅行から帰った後にも、詳しい史料を送って頂き、嬉しく思いました。

6.さいごに

 今回、初めて本格的な研究旅行を行ない、多くのことを体験できました。様々な方とコミュニケーションをとることで、独学では得られないものも学ぶことができましたし、改めて「実際に自分の目で見る」ことの大切さを感じ、私にとって実り多い旅行となりました。色々と小さなトラブルはあったものの、史料も入手することもでき、これからこの史料を、これから書く卒業論文に最大限、活かしていきたいと考えています。

写真添付(ハートの煉瓦)

ハートの煉瓦
ハートの煉瓦


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