
2005年度ヨーロッパ思想コース選考者報告 |
1 はじめに
イタリアの都市フィレンツェと言えば、ルネッサンスの発祥の地として有名である。街中には、フィレンツェをおよそ200年もの間支配したメディチ家という一族の痕跡が多く残っている。メディチ家は、1397年メディチ銀行を創設し、ローマ教皇庁の財務管理者となりめざましい発展をとげた。そして祖国の父と呼ばれるコジモ、その孫で豪華王(実際には王という称号は持っておらず、あくまで一介の商人であったが、その影響力はまさに君主のようであった)とも呼ばれるロレンツォの時代に確固たる地位を築き、共和国でありながら君主であるかのように君臨し、後には実際に君主としてフィレンツェを拡大していくのである。メディチ家はパトロンとして、多くの学者や芸術家(その中にはボッティチェッリやミケランジェロなど)、思想家などを支援した。
そこで私はこのパトロン活動の空間として使用されたメディチ家のヴィラ(別荘の意)について調べる事にした。ここでサロンを開き、様々な分野の芸術家や思想家が集まり、議論を交わし、ルネッサンスの人文主義を育んでいったと考えられる。サロンを開いたのはコジモ・イル・ヴェッキオ(1389〜1464)とロレンツォ・イル・マニフィコ(1449〜1492)の二人であり、それはまさにルネサンスの始まりの時期であった。
このヴィラの空間を研究するために、ぜひその空間を体感してみたいと考えた。
イタリア滞在期間:9月7日から9月19日
研究期間:9月9日から9月15日
9月9日 | フィレンツェ着 |
9月10日 | Villa della Petraia, Villa di Castello |
9月11日 | Palazzo Pitti (Giardino Boboli) |
9月12日 | Villa di Careggi |
9月13日 | Villa poggio Imperiale, Museo Firenze com'era |
9月14日 | 文献探しなど |
9月15日 | Villa di Pratolino |
2 旅行の目的
1. ヴィラを実際に見て、そのランドスケープを体感すること。
2. フィレンツェ・コメエラ美術館で、ヴィラのルネッタ(lunetta、半月形の彫刻、絵画)を見ること。メディチ家のVilla di Artiminoを飾るために描かれたルネッタである。
3. ヴィラに関する文献を収集すること。
3 ヴィラについての説明
まず、ヴィラという言葉を説明しておくと、以下のようになる。
・ヴィラvilla・・・1.(郊外の)邸宅、屋敷;別荘 2.《文》田舎 3.《詩》村 (伊和中辞典 第2版)
・別荘・・・避暑・避寒などに便な離れた地に設ける別宅。(広辞苑 第5版)
当時のヴィラは、先に記した一般的な別荘としての機能だけでなく、幼少期を過ごしたり、または病気のため療養して、そのまま死をむかえたりする場所で、婚礼やパーティを開く場でもあった。そして狩猟を好んだメディチ家の歴代の君主は、その休憩地としてもよく使用していた。その使用目的は無限である。
私はこれらのヴィラの使用目的のなかでも、特にサロンとしての役割に注目し、その空間の意義を探っていきたいと考えている。またルネサンスのヴィラの役割に関して卒業論文で扱う予定であり、そのための研究調査というのが今回の旅行の目的であった。
フィレンツェ市内には合計11個のメディチ家のヴィラがある。トスカーナ州で見ると市内のものを含めて、合計24個ものヴィラを確認することができる。
私は今回の研究旅行で、そのうちの5つを訪れることができた。以下に24個のヴィラのリストを紹介しておく。
《フィレンツェ周辺のヴィラ》
1 | ヴィラ・カレッジ (Careggi) |
2 | ヴィラ・メディチ・フィエゾーレ (Fiesole) |
3 | ヴィラ・ポッジョ・ア・カイアーノ (Poggio a Caiano) |
4 | ヴィラ・カステッロ (Castello) |
5 | ヴィラ・ラ・トパイア (La Topaia) |
6 | ヴィラ・プラトリーノ (Pratolino) |
7 | ヴィラ・ラペッジ (Lapeggi) |
8 | ヴィラ・マリニョッレ (Marignolle) |
9 | ヴィラ・ペトライア (La Petraia) |
10 | ヴィラ・アルティミーノ (Artimino) |
11 | ヴィラ・ポッジョ・インペリアーレ (Poggio imperiale) |
《フィレンツェ近郊外のトスカーナ地方のヴィラ》
1 | ヴィラ・トレッビオ (Il Trebbio) |
2 | ヴィラ・カファッジョーロ (Cafaggiolo) |
3 | ヴィラ・コッレサルヴェッティ (Collesaivetti) |
4 | ヴィラ・アニャーノ (Agnano) |
5 | ヴィラ・スペダレット (Spedaletto) |
6 | ヴィラ・セッラヴェッツァ (Seravezza) |
7 | ヴィラ・チェレット・グイディ (Cerreto Guidi) |
8 | ヴィラ・マジャ (La Magia) |
9 | ヴィラ・アンブロジャーナ (Ambrogiana) |
10 | ヴィラ・モンテヴェットリーニ (Montevettolini) |
11 | ヴィラ・カムリャアーノ (Camugliano) |
12 | ヴィラ・コルタノ (Coltano) |
13 | ヴィラ・スタッビア (Stabbia) |
私は《フィレンツェ周辺のヴィラ》の、1.カレッジ 4.カステッロ 6.プラトリーノ 9.ペトライア 11.ポッジョ・インペリアーレの5つを見学した。(11.は外観のみ)
Villa della Petraia
このヴィラの敷地にはもともとカステッロ(城砦)が建っていて、14世紀にはブルネレスキ家が所有していた。1532年頃、メディチ家のアレッサンドロ(1511〜37)がストロッツィ家から没収して以来、メディチ家の所有となる。すぐ近くに住んでいたメディチ家の大公コジモ1世が、1568年息子のフェルディナンドにこの土地を譲る。1575年から1590年の間、彼はもとのカステッロと土地をヴィラにつくり変えた。19世紀にはサヴォイア家の手に帰し、国王ヴィットーリオ・エマヌエール2世はこれをさらに改築した。
フィレンツェの市内を走るバスATAFの2番に乗ること15分ほどでバス停に着き、そこから20分くらい歩いた小高い丘の上にあった。バス停からは、villa della petraiaの表示に従って進んでいけば問題なかった。ヴィラに後一本道というところで、坂道がはじまり、登っていくに従って少しずつ邸宅の塔が見えてきた。門をくぐって、庭園の真横からヴィラの中に入った。しかしこのヴィラは広大な土地のなかに整備された邸宅と庭園の一角があり、その背後には大きな森のような公園が広がっていた。
庭園には色々な花が咲いており、レモンの木が多くあったのが印象的だった。庭園の中には観光客用にトイレも設けてあった。端から端まで歩くと、庭園を整備するための機械や苗などが隅の小屋のなかにあった。この庭園はかなり斜めになっていて、計三個の段に分かれているが、上からみてもトイレも機械の小屋も木々で見えないように工夫されていた。
 ヴィラ・ペトライア全景(庭園からファサードを望む) |
まず一段下のテラスが一番広くなっており、トイレや小屋などがある。次の二段目へのテラスへ上る階段は三角形で、その正面にはマスケローネ(=怪人面、怪人・怪物・怪獣の形をかたどった彫像やレリーフ)があり、その口から水が流れており、噴水になっていた。二段テラスには、その真中に水深二メートルの用水池があった。ここは比較的狭く、三段目には邸宅と、少し広い空間と、その隅には見晴らしのよい東屋があった。その空間の中には、ジャンボローニャによる<髪を絞るニンフ>があった。
 正面の入り口(メディチ家の紋章が見える) |
邸宅の中には休憩所が設けられてあり、このヴィラが描かれている様々な絵が飾られていた。大広間に入ろうとすると、45分間に一組ずつだと言われ、待ったところ順番を間違えられ、さらに待つ羽目になってしまった。そこで程近いヴィラ・カステッロ(入場券共通)に行った後に立ち寄ろうと考えていたが、ヴィラ・カステッロの広大な庭園のなかで体力を消耗してしまいあえなく断念してしまった。広間のなかには入れずに、ちらっと垣間見ただけで終わってしまったことがとても残念だった。
庭園の中でカップルが写真撮影を行っていた。それは写真家を伴っての本格的なものだった。その他にもご老人が散歩で来ているようだった。
このヴィラはフィレンツェから移動する時や、他の高台に上っても目にすることができた。フィレンツェ近郊に建つこのヴィラからは、ドゥオーモを見ることができた。
レオン・バティスタ・アルベルティは、望ましいヴィラのあり方について次のように述べている。
「貴族の住居は、地所の中でも、特に肥沃でなくてもよいが、他の点で傑出している場所に建てるとよい。すなわち風通し、日当たり、眺望がよく、快適なところ。持ち主の農園をつなぐ平坦な道、それからお客を迎えるのにふさわしい並木道があること、よく見える場所にあり、都市、城砦、海または広い平原を見渡せる場所にあること、また名だたる丘や山の頂、美しい庭園にも視線を馳せることができること、さらに釣りや狩の豊富な機会を与えてくれること。」
ペトライアは、まさにアルベルティの言う望ましいヴィラの条件にあてはまっていると考えられる。
Villa di Castello
1477年に、ロレンツォ・デ・ピエルフランチェスコ(1463〜1503)が13世紀の要塞を購入し、ヴィラとしていた。1527年に反対派の手で破壊されているが、1537年に大公コジモ1世は、自分自身が育ったこのヴィラを拡張し、装飾することをニコロ・トリボロに命じた。彼は1574年にこのヴィラで永眠している。また、このヴィラには、ロレンツィーノ(1514〜48)の所有であった時期にボッティチェッリの名作『春』と『ヴィーナス誕生』が飾られていた。
このヴィラはpetraiaと非常に近くに位置しており、入場券も共通だった。petraiaから来た道を戻り、横に長い一本道を歩いていくと、低い城壁のようなつくりの長い壁が見えてきた。その壁からははみ出している木々が鬱蒼としていて、小さな森が現れたようだった。ヴィラの正面の真横に出てきた。邸宅のまえには広い空間があるが、砂利と刈られた芝生が広がっているだけである。ウテンスのルネッタを見ると、そこは用水池があるはずであった。このヴィラはペトライアとは逆で、邸宅は小高い丘のふもとに位置し、庭園が一番高い位置にあった。よって、ヴィラへは邸宅からは入ることになる。しかし、現在は邸宅の横にある庭園入り口から入ることになっている。邸宅は薄いピンク色で、屋根の上に小さい煙突のような塔が数個あり、邸宅の形は横長い印象を受けた。邸宅の真後ろには整備された庭園が広がっていた。
 上段の庭園から見下ろした、邸宅と下段の庭園の様子 |
そして、その整備された一角のさらに後ろに公園といってもいいほどの広い空間があった(階段を上ったところにある)。そこには、小池の中に置かれたアペニーノの像があった。
 アペニーノの像(アペニン山脈の擬人像) |
また、整備された庭園のなかには多くの彫刻がおかれていた。ドゥオーモは見えないが、一番上の庭園からは邸宅と整備された庭園を見下ろすことができ、その背景にもフィレンツェの眺望が開けている。邸宅から背後にある公園に向かって、少し坂になっており、その一本道の両脇には壷(vaso、花鉢・化粧鉢)がたくさんあった。その鉢は、大きさが様々で、一メートル以上のものもあり、植物までの高さを入れると二メートルを軽くこすものもあった。(これらは、園路や運河や花壇や泉水のまわりに、また柱や階段の上などに飾られる壷で、木や花の植え込みや水の出入りのために、石、陶器、テラコッタ等でつくられている。ときにはその表面にアラベスク模様、動植物図、幻想的な人物や怪物の顔をうかびあがらせている。)
一段高い場所になっているところの壁の真中には、動物のグロッタ(洞窟)があった。まさに森の様子を象徴している作品だと思う。
Villa di Careggi
現在、S.Maria Nuova病院の敷地になっており、ヴィラの建物は病院の管理棟として使われている。コジモ・イル・ヴェッキオの時代にはプラトン・アカデミーの拠点で、ここにマルシリオ・フィチーノ(Marsilio Ficino)、ピコ・デッラ・ミランドラ(Pico della Mirandola)、ポリツツィアーノ(Poliziano)といった学者や知識人が集まった。コジモ・イル・ヴェッキオとその弟ロレンツォがトンマーゾ・リッピ(Tommaso Lippi)から豊かな農園を買い取り、ミケロッツォに拡張工事を命じた。コジモ・イル・ヴェッキオとその息子ピエロ、その孫ロレンツォがともにこのヴィラで逝去している。ロレンツォの没後、1494年にメディチ家が追放となり、このヴィラに火がかけられたが、焼失はしなかった。その後、アレッサンドロが旧状に忠実に修復させた。
このヴィラへはATAF社の14cのバスで向かった。まず、病院の入り口と思われる古い門から入ろうとすると、門の壁のところに隠れるようにVILLA MEDICEA DI CAREGGIと表示されているのを見つけた。まず、門から入ると森の中に入ったような気分になるくらい、木が生い茂り建物は見えなかった。歩きながら、迷い込んだ気分になり少し傾斜になった坂道を登っていくと黄色い(というより、橙色のような褪せた色)建物が見えてきた。坂道を登りきったところにすこしひろくなったヴィラの正面に出てきた。
 邸宅を入り口から見た様子 |
正面とは言っても、庭園と邸宅の真横に出てきており、庭園は真横の入り口から柵越しにしか見ることができなかった。建物の中に入ると、管理人の方に庭を見たい旨を伝えたところ建物の二階部分から眺めることだけは許可できると言われ、そこからは庭園は見ることはできなかったが邸宅の内部を少し知ることができた。ヴィラの印象としては、邸宅自体は少しさびれた印象があった。一方、庭園を側面からと、庭園の正面の門からのぞいた印象は整備されていて様々な花が咲き、壷の鉢も置かれていた。池は修復中だった。このヴィラからはフィレンツェ市内の眺望は少ししか見えなかった。しかし、森の中にあるので、空気はよくかなり静かな場所であった。自然を重要視したフィチーノらしい環境であると感じた。
Villa Poggio Imperiale
このヴィラは、もとはバロンチェッリ家の所有で、サルヴィアーティ家に渡り、1564年にコジモ1世が没収し、メディチ家所有となった。翌年、彼の娘イザベッラに与えられ、1619年にコジモ2世の妻でオーストリア・ハプスブルク家出身のマリア・マッダレーナ・ダウストリアによって買い戻され、ヴィラは彼女に敬意を表してポッジョ・インペリアーレ(皇帝の丘陵)と呼ばれるようになった。
このヴィラは、中に入ることはできなかったので外観だけを見学してきた。このヴィラはメディチ家のヴィラの中でもフィレンツェ市外中心部に一番近いと言える。そこで、バスを使わず、歩いて向かった。中心部から歩いて30分ほどで着いた。ポルタ・ロマーナ(ローマ門)から500メートルほどにあるポッジョ・インペリアーレ大通り( Viale del Poggio Imperiale)の突き当たりにヴィラはあった。この大通りは緩やかな傾斜になっていて、歩いて行くのにはとてもこたえた。このヴィラに行く途中は、高級住宅街のようで、美しい住宅またはヴィラと呼べる建築物が両側に多くあった。その突き当たりにかなり大きな建築物があり、それがこのヴィラだった。現在は女学校になっており、イタリア国旗やEUの国旗が掲げてあり、近づけなかった。従来のヴィラを囲む、楕円の前庭の形は残っており、その楕円の周りを飾っていたと思われる彫刻が正面の入り口に二つだけ残っていた。この彫刻は、アトラスとユピテルであり、巨大な柱に載っている。
このヴィラも、他のヴィラと同様多くの改修がなされている。邸宅が大きく、正面からは庭園は見えない。庭園はその裏に広がっているようである。よって、ヴィラと言うより、館のような印象を受ける。
このヴィラの立地も丘の上ということで、空気がよく、眺望もかなりよいと感じた。そして大通りの突き当たりという事で、車が多いものの人通りは少なく、車の走る音以外は静かだった。
Villa di Pratolino
このヴィラはフィレンツェから約9.6キロメートル北にある、アペニン山脈のふもとにつくられています。トスカーナ大公国君主フランチェスコ・デ・メディチによって1569年から15年の歳月をかけて造成され、当時、ヨーロッパ最大の規模を誇っていた。
このヴィラへは市内バスのATAFの25Aに乗って向かった。市内バスの中でも、最も遠い地域である。バスに乗ること35分から40分ほどかかった。山を上り、住宅と自然しかないような閑静な地域でした。このヴィラはparco(公園)とも呼ばれていて、その20ヘクタールもの広大な敷地をしめている。
まず、入り口には管理人さんの小さな小屋がありトイレなどもった。チケットが欲しいと言ったところ無料だと言われた。入り口からは車が何台も通っていたので、不思議に思っていたら、中ではあちこちで工事が行われていた。観光客は珍しいらしく、私の他には老夫婦が一組居るだけであった。まず入り口から入ると、一本道で、その両側にはたんぽぽなどの自然の花が咲いていてとても幻想的な風景だった。管理人さんにパンフレットを頂き、その通りに進んでいった。ここには19ものモニュメントが現在残っており、それらをまわった。しかし、あまりに広大で、様々なところが荒廃しており、現在修復中なところが何箇所もあった。木が生い茂り、進んでいくと森に迷い込んだようだった。森の中にひっそりとグロッタ(洞窟)が点在しており、徐々に見えていく様はとても恐怖を感じさせた。このヴィラのテーマは「驚異」「珍奇」ということで、荒廃した要素も加わり、とても怖い印象を受けた。
ウテンスの描いたヴィラの邸宅は失われているが、邸宅の入り口の階段下のグロッタを確認することはできた。また、このヴィラを1872年にユーゴスラヴィア皇太子パウル・デミトフがすべて購入し、以前からあるパジェリア(召使の館)に住んだ。現在このパジェリアが、Villa Demidoffと呼ばれている。そして、先にはVilla di Pratolinoと題したが、現在ではParco di Villa Demidoffとも呼ばれている。このパジェリアの近くには、巨大な像<アペニーノ>がある。10メートル近くあるこの巨大な像には驚愕した。イタリア半島にあるアペニン山脈の擬人像である。近づくのも怖いようなこの像は、驚愕と恐怖をテーマとする「驚異」をまさに表している。
このヴィラは、パルコ・ヴェッキオ(古い公園)とパルコ・ヌオーヴォ(新しい公園)と半分に区別する事ができ、ウテンスのルネッタにはヴェッキオの部分が描かれている。ルネッタには現在存在しない邸宅や噴水や池や彫像などが描かれており、ウテンスのルネッタと比較しながら現在の様子を見ていくのはなかなか楽しいものだった。二時間近く歩き回ったが全てを十分に見るにはまだ足りないくらいだ。
現在ヴィラ・デミトフとなっているパジェリアでは、このヴィラの写真展が開かれており、なかを見学することができた。やはりもとは使用人の住居ということもあり、外観はシンプルなものだった。またその正面あたりの空間には、巨大な手や足の彫像のかけらが残されており、なにか不気味なもの感じた。
フィレンツェ・コメエラ美術館 Museo Firenze Com'era
入り口はデッロリウオーロ通り24番地にある。あまり目立たず、訪れる人も少ないが、ほのぼのとした、フィレンツェの意外な側面をのぞかせる美術館である。1995年以来、フィレンツェの景観図や下町を描いた多くの素描、小さなタブロー、特にジュゼッペ・ゾッキによる版画を展示している。
16世紀メディチ家のヴィラの数々を描いたジュースト・ウテンスのルネッタがある。これは現在は改修されたり、消失してしまった庭園の様子を伝える。そのルネッタは14点展示されていた。予想していた以上に大きく、現地で購入した文献によると、見た目には分からないがそれぞれの大きさはばらばらだった。おおまかには横2,4メートル縦1,4メートルを少し前後している。
ルネッタの写真を撮ることはできなかったが、全ての図版を手に入れることはできた。そこで新たに、14点以外の3点のルネッタがあることが分かった。しかしこの3点はこの美術館には飾られておらず、製作者も不明だった。しかしこの3つはヴィラ・アルティミーノに飾られている写真があった。さらにはヴィラ・カレッジ、ヴィラ・チェレット、ヴィラ・ポッジョ・インペリアーレという重要な3点であり、他の14点のヴィラの描き具合ともかなり異なっている。ウテンスが描いたルネッタは邸宅と庭園を捉えられるように上空からみたような構図で描かれている。しかし、この3点は邸宅だけを正面から描いているだけである。14点のルネッタが庭園の緑や邸宅や他の建物の色合いで鮮やかなのに対し、3点のルネッタは色彩が薄い印象を受けた。
 ウテンスのルネッタ(美術館のものではなくぺトライアのものを載せている) |
この美術館には、多くのフィレンツェの景観図や地図があった。この美術館の方が広場の移り変わりなどを説明してくれた。また、別室にはフィレンツェの先史博物館があり、そこも見学する事ができた。
4 市内にあるメディチ家の建築物
・メディチ・リッカルディ宮殿 (Palazzo Medici Riccardi)
・ピッティ宮殿 (Palazzo Pitti)
・ヴェッキオ宮殿 (Palazzo Vecchio)
・サン・マルコ美術館 (Museo di San Marco)
私は郊外のヴィラだけでなく、市内に残るメディチ家の建築物も訪れる事にした。去年一週間ほどフィレンツェを訪れていたので、ウッフィツィ美術館やサン・ロレンツォ教会やメディチ家礼拝堂、ドゥオーモなどは見学済みで、その他の、主にパラッツォ(宮殿)を見て回わった。
ヴィラと同時平行で訪れていたので、その対照的な雰囲気が印象的だった。シンプルなつくりであるヴィラに比べて、パラッツォの外観はいかめしく内部は豪華絢爛だった。長くメディチ家の住居とされたメディチ・リッカルディ宮はあまり広い空間はないもののベノッツォ・ゴッツォリによる『東方三博士の礼拝』など素晴らしい壁画など、内部の華やかさに驚かされた。
 メディチ・リカルディ宮の中庭 |
ピッティ宮やヴェッキオ宮はどちらも大きな建築物で、その広大な空間を飾る壁画の見事さや天井画の素晴らしさにため息がでるようだった。特にヴェッキオ宮の五百人広間では天井画が素晴らしく、コジモ1世の肖像画を中心に、メディチ家の権力を強調する装飾が施されていた。また、ミケランジェロによる彫刻が部屋の脇に並んでいた。ピッティ宮ではメディチ家の銀器博物館も公開されており、彼らの使用した装飾品や豪華な食器類など私生活をのぞかせるコレクションを見ることができた。
そしてサン・マルコ美術館は、コジモが資金を出し、コジモの建築事業を多く担当したミケロッツォ・ミケロッツィによる設計である。もとは修道院であり、フラ・アンジェリコの『受胎告知』で有名だが、メディチ家コジモ・イル・ヴェッキオ専用の祈りの間がある場所である。その壁には、フラ・アンジェリコと工房にある『東方三博士の礼拝』が描かれている。そして、修道会の運営費もコジモがすべて負担していた。彼は、しばしばこの部屋に引きこもって瞑想にふけったと言われる。宗教建築へのパトロン活動には、贖罪のための慈善活動という意味が含まれており、一方メディチ家邸宅をはじめとする私的建築物は、富と政治的な意味を強く持っていたと言われている。ここは美術館とは言っても、修道院の僧房を見ることができ、一つずつの部屋をのぞき見ながら壁に描かれた絵を見ていくのはとても楽しい体験だった。
5 ヴィラの役割に関する考察
今回ヴィラを訪れたことにより、ヴィラと自然との関係に強く関心を持った。中世では、自然などの未知なるものは、神の領域とされてきたと認識している。それがルネサンスでは、自然とは何かという問に答えようと議論を重ねている。その議論の場として最も適切な場所であるのはまさに「ヴィラ」であると考えられる。それは、自然のなかにぽつんと置かれた、人間の手になる一区画。これは自然に果敢に挑戦しているように私には見えた。特に庭園では、自然の要素を模倣し人工的に自然を表現したり、または自然ではありえようのない直線的な配置を試みる事によって、自然を人間の手で体系づける事により、自然をも支配しようとしたのではないだろうか。そのような動きはまさにルネサンス的であり、そのヴィラで行われるサロンにうってつけの空間であった。
また、イタリアで購入した文献を読み進める過程で、違ったヴィラの役割に気づいた。それは防衛上の拠点としての役割である。初期はおもにサロンとしてや休息の場所としての役割が強かったが、時代を経て、メディチ家が共和国の実質的な指導者という立場から、共和制が終了し、フィレンツェ公国の君主から、トスカーナ大公国の君主となるのである。これに伴い、フィレンツェ郊外だけでなく、トスカーナという広範囲にわたって、ヴィラを建設し始めたのだ。それはヴィラが要塞のような造りで構成され、いくつものヴィラが戦略的に有意な地形に作られていることからも伺えるのである。
私はヴィラの役割をルネサンスに関連づけた「サロン」としての役割にしか注目していなかったが、実際には時代を経るにつれ、その役割も変化していることが分かり、ヴィラの役割という点で、これから広い視野で考察していきたいと考えている。
6 最後に
現在見られるヴィラは、メディチ家が使用した当時とは邸宅も庭園もその原型をとどめているものは少ない。特に庭園は、維持は極めて難しく、時代の流行によってイギリス庭園に作りかえられたりした。しかし、唯一変わらないものはその立地である。その周りの環境の変化こそあるが、私が訪れたヴィラはどれも自然豊かで、静かな場所、さらには小高い地域に建てられていた。これは、ヴィラ・ペトライアの項で引用したアルベルティの、「理想的なヴィラの立地条件」にどれもあてはまると感じられた。この立地というポイントが今回の研究旅行で得た成果である。やはり、机の上で図版を見ただけでは、この自然を重要視した環境を感じることは難しかったと考えられる。特にそれぞれの庭園では、その地の特徴を生かして、それぞれ仕掛けを作っているように感じた。
そしてもう一つの成果として、文献の収集がある。私は日本でヴィラに関する文献を必死に集めたが、ほとんどが庭園を主とするもので、ヴィラに関するものあまり存在しなかった。しかし、フィレンツェの本屋に入ったらところ、メディチ家のヴィラという題名の本を見つけた。その他にも、トスカーナのヴィラなど、「ヴィラ」と題された本を多く見かけた。今回の文献収集により、新たなメディチ家のヴィラの存在を知ることができ、これからの研究におおいに役立てられるだろう。研究旅行の成果を、これからの卒業論文制作にいかしていきたい。
また、研究期間の一週間とは別に、イタリアの他の都市も観光した。ローマ、シエナ、ピサなどである。特にローマは、時間の許す限り遺跡やモニュメントを見て回った。そして研究都市のフィレンツェも隅から隅まで歩いたつもりだ。これらの経験は、私の人生のなかで、もっとも勉強になり、貴重な体験ができた二週間となった。
最後になりましたが、今回の研究旅行制度をお世話してくださった先生方に感謝の意を述べたいと思います。そして特に、現地でも色々とお世話になりました山田先生には、貴重な体験をさせていただきました。本当にありがとうございました。
<収集した文献>
・ Isabella Lapi Ballerini THE MEDICI VILLAS COMPLETE GUIDE Giunti Gruppo Editoriale 2003
・ Mariachiara Pozzana GIARDINI di FIRENZE e della TOSCANA GUIDA COMPLETA Giunti Gruppo Editoriale 2001
・ Daniela Mignani The Medicean Villas by Giusto Utens Arnaud Ed. 1991
・ A cura di Cristina Acidini Luchinat Giardini Medicei Giardini di Palazzo e di villa nella Firenze del Quattrocento FEDERICO MOTTA EDITORE 2000
・Grazia Gobbi Sica La Villa Fiorentina Elementi storici e critici per una lettura ALINEA EDITORICE 1998
・immagini di Massimo Listri / testi di Carlo Cresti Ville della Toscana Architettura Decorazione Paesaggio MAGNUS EDIZIONI 2003
<参考文献>
・中嶋浩郎 『図説 メディチ家 古都フィレンツェと栄光の「王朝」』 河出書房新社 2000
・P. ファン・デル・レー/G. スミンク/C. ステーンベルヘン (野口昌夫 訳) 『イタリアのヴィラと庭園』鹿島出版会 1997
・野中夏実 『メディチ家のヴィラの庭園 ―ミケロッツォ設計の初期のヴィラを中心にー』 (埼玉女子短期大学研究紀要 第14号 2003.03 所収)
