2005年度中国文化コース選考者報告 |
旗袍(チ―パオ)とはいわゆる「チャイナドレス」である。一般に高襟、スリット、装飾用ボタン(右寄り打合わせ)の特徴を備えた女性の衣服である(2005年衣料素材辞典より)。私が旗袍をテーマに選んだきっかけは、中国・北京に一年間留学生活をした際、中国人の旗袍に対する愛着が思ったよりも希薄であると感じたことだ。中国近現代の女性の地位の変動を表し、私たちに中国をイメージさせるはずの旗袍は、意外にも中国の人々にとっては身近でもなく、懐かしくもないという。私は旗袍のデザインや色彩に魅せられているので、中国での生活では旗袍の存在に敏感であったが、旗袍好きにとってはあまり恵まれた環境ではなかった。旗袍は本当に中国民族服、伝統服の立場でありうるのか。この疑問から研究旅行は始まる。
今回、私は研究旅行奨励金を頂く機会を得て、旗袍作りの職人が誰(伝統服としてか、観光向けとしてか)を対象に、どのような思いを込めて作っているのかを実際に尋ね歩くことにした。1842年のアヘン戦争でイギリスに敗戦し、南京条約締結以降、欧州列強によって開港された上海を舞台に、旗袍は流行服となり、中国全土に広がっていった歴史を持つ。上海には旗袍の老舗も多いだろうと踏んで上海を目的地に選んだ。2005年9月14日―20日の日程で上海の旗袍店や布市場、少数民族衣装の宝庫である上海博物館などを訪ね歩いた。
旅行当時の為替のレート: 中国元1元=日本円15円
民族の表記について: 新華字典(光生社)「中国の少数民族略表」によった。
2 旗袍の歴史
旗袍の起源には2つの論がある。1つは紀元前の殷および周の時代、中国東北部(長白山、黒龍江)の武士階級や騎馬民族(満族、蒙古族)は旗人と呼ばれており、彼らが着ていたものを旗袍と呼んだ。遊牧民族である旗人が乗馬の時に衣装の裾の両側にスリットをいれて動きやすくしたのが現代旗袍の重要な特徴の一つとなっている。2つ目の起源説は15世紀。10世紀から女真と名乗っていた騎馬民族が隆盛し、1636年にホンタイジが国号を清と改称し、清朝を誕生させる。1644年ヌルハチが「八旗制度 」を導入、軍事・政治・生産を8の行政区分に分けて管理した。このシステムで管理された人たちが旗人、彼らの長袍が旗袍と呼ばれた。どちらにしろ、旗人という言葉が生まれたのとほぼ同時に旗袍という呼称が生まれているようだ。
清の時代、満人は自分たちの慣習(剃髪、辮髪、旗袍など)を漢人に強こうとした。しかし、それらは漢人から激しい反抗を受けた。清朝は妥協案として漢人婦女には、漢人の衣服である上衣下裳を着ることを許した。これは、漢人婦女の社会地位が低く、服飾が重要視されていなかったことを示している。旗袍を着ていたのはもちろん旗人婦女である。そのスタイルは比較的ゆったりとしていて体のラインは出ないものだった。長さも床に届く長さで、襟が丸く、袖は細かった、襟元袖元には揃いの縁取りが施されていた。そして身分にふさわしい旗袍を着ることが義務づけられており、階級によって色、生地 、装飾、モチーフが異なった。(生地には、文字―福、禄、寿、喜。花紋―松、竹、梅、蘭、菊。吉祥―龍、鳳凰、孔雀などがある。)
1912年、清の時代が終わって民国期に入ると反満の高まり、旗人婦女は漢人婦女を真似て、上衣下裳を着るようになった。この時期、ほとんどの女性は上衣下裳を着ていたことになる。旗袍を愛用していたのは、妓女と女学生だった。民国初期において、服飾の民族性は混乱し、漢族―上衣下裳、満族―旗袍という関係は希薄なものになっていった。旗袍本来の満族の民族性や身分を表す要素は薄くなり、妓女や女学生の登場によって旗袍は「流行服」となり、上衣下装も旗袍も女性の装飾性を高める道具にすぎなくなった。この時代の旗袍は妓女や女学生にのみ保護、進化され、一般女性には広まらなかったのではないだろうか。しかも旗袍の流行は商業発展第一の上海やその近郊に限ったものだと考えられる。
1920年代、広告、映画、雑誌というメディアの発達、百貨店の開業などの資本経済の発達、女学生の妓女化、女性の経済力そして民国政府の政策(1929年国民政府の条例で、女性の礼服が旗袍と規定された)などを要因に旗袍は流行服となっていった。旗袍の丈は、ふくらはぎ丈から膝丈になりスリットが消失し、動きやすい丈になり、「解放後の新女性の象徴」の丈であった。襟は徐々に高くなった。政府による普及に加え、女性たちが積極的に西洋的女性美を取り入れたこと、女学生という味方があったことで旗袍の地位は不動のものになった。
1930〜40年代は服装がより軽装化、露出化、大衆化した時代である。「新型旗袍」(旗人の服でなく商品社会で消費される流行服。社会活動に参加する時に着用するなど実用性に基づく。胸元は絶対露出しないことで中国女性の伝統的尊敬を守り、スリットで太ももを強調することで西洋的モダンや女性の解放を表現した)が上衣下裳に変わって登場した。西洋礼賛に対して国産の意義を唱える国貨運動や日中戦争簿勃発という状況においても、上海租界は「中国の中の西洋」として資本活動が保護された。女学生、職業女性、主婦といった階層が都市部で旗袍の発展を担った。成衣舗(仕立て屋)については、蘇邦・常邦・鎮揚邦・寧邦・本邦(上海)・杭邦(邦は店の意味)、といった地域別グループが存在し、上海の成衣舗は1933年、2000軒あり、職人4万人であったところが、1947年には5000軒に増えている。(謝黎『チャイナドレスをまとう女性たち』より)
1930、40年代は戦時中であったにもかかわらず、新都市女性の貪欲なブルジョア志向と行動を社会が許容し、多様化する女性の服飾をファッションとして認識するようになった時期で、旗袍が一番隆盛を極めたといっていいだろう。
1910、20、30・40年代の上衣下裳と旗袍を年代ごとに比較してみると次図のようになる。
40年代の上衣下裳と旗袍 |
長楽路−地下鉄「陝西南路駅」から徒歩10分。高級旗袍店が10件ほど軒を連ねる通り。ここの店員、老裁縫LaoCaiFeng(仕立て屋)たちは自分たちの旗袍に絶大な自信と誇りを持っているように感じた。生地68元/m オーダーメイド1着1000元がここの相場である。半袖やノースリーブの旗袍を作る場合には、3.5m、長袖の旗袍を作る場合には4.5mの生地が必要だそうだ。
【瀚芸 Han Yi】上海長楽路217号
仕立て650〜700元 生地(200種ほど)+仕立て1500元〜 刺繍2800元〜。わずか創業8年だが刺繍を得意とし、上海一の腕だと自信あり。
ここの店主の老裁縫(ベテラン仕立て屋)、【ネ者】宏生(Zhu Hong Sheng)さんは77歳。16歳からこの道に入り、60年のキャリアを持つ。日本の某雑誌企画で女優の今井美樹さんが、この店でオーダーメイドをしたことがあったそうだ。実際の誌面を何度も自慢気に見せてくる【ネ者】さんの様子が、とってもかわいらしかった。【ネ者】さんにお話を伺うにしたがい、上海語で話し出されて、普通語(中国の標準語)しか分からない私は慌てた。娘さんが隣で普通語に通訳して下さったが、どこぞの者とも分からぬ私は大いに警戒され、面倒がられているようで、訳はかなり端折ったものだった。縫製の様子や工場を見学したいとお願いしたが、断られた。事前にアポイントメントを取っていたら、より内容のあるインタビューになったと思う。中国人は往々に親切で人懐っこいから、身構えずに行った方がいいだろうと甘く考えて、突然訪問した私が悪かった。企業秘密をそう易々と教えたりするわけがない。とはいえ次の短い会話からでも旗袍に一番近い現役の仕立て人の考えを知ることができる。そのインタビューの様子をここに紹介する。
(黒旗袍)今回既製品で購入 |
(青旗袍)北京で仕立てたもの |
バッグ |
ボタン |
布売場 |
布売場 |
観光地の豫園や朱家角(上海から車で1時間の水郷の村)で売っている土産物の旗袍は、長楽路の10分の1の100元前後で手に入る。モダンチャイナをコンセプトにした【上海灘】というブランドでは、高級旗袍店とあまり変わらない価格で外国人にも受けるようなモード風に仕立ててある。
豫園土産 |
朱家角土産 |
上海灘 |
上海灘 |
上海灘 |
上海博物館 |
4階に中国少数民族工芸館がある。保存状態もよく、ディスプレイの仕方が分かりやすく非常に見やすい。学生票5元!この値段で中国全土から集められたありとあらゆる分野の文芸品が見られる。特に青銅器、陶磁器、書画のコレクションを得意としている。上海に滞在する際は、毎日でも通ってじっくり巡りたいところだ。1階にあるショップも日本では手に入りにくく、高価な中国芸術の図像集がいろいろ揃っているし、品のいいお土産も手に入る。南部の少数民族の衣装に装飾ボタンや右寄り打ち合わせの襟など旗袍との共通点も数多く見られたのは驚きだった。
◎展示されている少数民族衣装
苗族(ミャオ族)、満族、赫哲族(ホジェン族)、鄂倫族(オロション族)、蔵族(チベット族)、土族、蒙古族、維吾尓(ウイグル族)、イ族、チンポー族、ウズベク族、ラフ族、徳昴族(ドアン族)、瑶族(ヤオ族)、基諾族(チノー族)、珞巴族(ロッパ族)、裕固族(ユーグ族)、トン族、など。
文献探索について:ノマコ」ハ魑ヌと上海図書館に行った。縫製の本はあるが、民国期以後の旗袍について触れた文献はほとんどない。『中国服飾史』など古代から清代までの服飾の遍歴を扱ったものばかりで、近現代の旗袍はおろか現代のファッションについても特記したものはなかった。中国では近現代のファッションはまだ注目されていないようだ。
おすすめユースホステル: 船長青年酒店 上海市福州路37号
10人部屋ドミトリー1泊60元で外灘までわずか徒歩30秒!世界中の若者が泊まっています。
水郷の町、朱家角の風景(主家角) |
夜の外灘(バンド) |
民族服とは本来、変化しにくい衣服であるが、旗袍は高襟・スリット・装飾ボタンという三大特徴は守ってきたものの、デザインや布地を多様に変えてきた。そして民族服とは青年、成人という社会的年齢や既婚や未婚、社会的役割や身分を表すなど秩序性を持つものであるが、民国期からの旗袍はその装飾で身分を表すことはしなくなった。そして元々は満族の服飾を漢族のものだと捉えている中国人民がいる。そこには旗袍を漢族の民族服として植え付けていこうという潜在意識があるのではないか。近・現代の旗袍は民族服とはいえないのではないか。
旗袍は民族服ではないが、「伝統」服ではある。1930年代に一番隆盛を極めたが、その後の新中国建国と文革の間でそれまで培った服飾文化が断絶された。現在の旗袍は1970年代後半の改革開放以後に急遽創られた「伝統」服なのである。その「伝統」服は誰によって着られ、守られているかというと、以下の5つの業界が考えられる。
・ 中国イメージ戦略を担う女性外交官や高官夫人(北京オリンピック招致委員の楊瀾 Yang Lan など)
・ モード界(イヴサンローラン 2005秋冬コレクション「チャイニーズ」より)
・ 映画(特に王賈衛(ウォンカーウェイ)監督『花様年華』『2046』『愛の神エロス』)と女優や芸能人(張曼玉マギーチャン・鞏俐コンリー・章子怡チャンツィイーなど)
・ サービス業・娯楽業(レーヨン製、カラフルな色味、深いスリット、乱雑な縫製)
・ 観光客向けの土産店
ここに一般民衆の日常は関わっていない。伝統を創ったり守ったりするはずの一般層が、
愛用しない、100年未満の若い服飾文化を「伝統」と呼べるだろうか。
現代「旗袍」は新中国の「伝統」として創造され、半ば強引に定着させられることで一般民衆の「伝統」観と程遠いところにあると思う。近代旗袍文化は文革期に一度崩壊し、現代再び中国のイメージ作り、娯楽産業、モード界に貢献するツールとなったといってよさそうだと私は考える。
今回、上海に1週間滞在して、中国の景気の良さやスピードの中でも、自分の足で人に会うという基本の大切さを感じた。自ら飛び込んでみようという姿勢や楽観的な気持ちがあれば、自分にしかできない旅になる。私なりの旗袍観が得られ、卒業論文につながったのは、この研究旅行のおかげである。国際文化学科の研究旅行制度に厚く感謝しています。