近代日本画に描かれた美人

2005年度フランス文化コース選考者報告


 今回私は、上村松園(1875〜1949)を中心に鏑木清方(1878〜1972)やその弟子伊東深水(1898〜1972)について研究した。研究は二回に分けて行い2005年8月の初旬に愛知と鎌倉へ、そして2005年11月初旬に東京・奈良へ行った。松園に注目したのは、生涯を通して美人画を描き、女性で初めて文化勲章を受章した彼女ならば、女性を描くということに対して確固とした考えがあるのではないかと思ったからだ

 松園の本名は津禰(つね)といい、京都市四条御幸町(ごこまち)の茶葉屋「ちきり屋」で生まれる。父親は早くに亡くし、松園とその姉は、母仲によって女手ひとつで育てられた。鈴木松年、幸野楳嶺、竹内栖鳳など円山四条派の画家に師事したが、この時代女が絵で生計を立てるということは決して楽ではないということは容易に察しがつく。そうまでして彼女が美人画に込めたものとは何だったのか。「真・善・美の極致に達した本格的な美人画を描きたい。」こう語る彼女の<美人>とは何か。これがこの研究旅行のテーマであり、近代日本画における美人画の考察を深める手がかりなのだ。


序の舞 1936
序の舞 1936
草紙洗小町 1937
草紙洗小町 1937


・ 2005年8月10日〜13日 愛知県長久手、鎌倉市

 名都美術館(愛知県愛知郡長久手町杁ヶ池301番地)

 愛知はとにかく人が多かった。ちょうど愛・地球博が開催されていた時期だったので、荷物を入れるロッカーを探すのにもひと苦労だった。また、気温は8月の真夏日。へとへとになりながら、名都美術館に入った。

 同美術館は財団法人の提供で建てられており、近代日本画を中心に扱う博物館である。こぢんまりとした館内は、ほとんどが年配の方ばかりで、万博のついでに寄ったという感じの人が多かった。入館しようとしたとき、知らないおじさんから招待券を頂いた。おそらく若い私が珍しかったのだろう。


名都美術館の外観
名都美術館の外観

 小さな博物館ではあったが、展覧会自体の内容はしっかりしたものだった。もともと日本画は、大変傷みやすい絵画である。そのため一度にたくさん公開されるという機会はあまりないのだ。今回は上村松園生誕130周年ということで、彼女を研究するには絶好の年であった。<特別展>“高雅なる美の祭典”松園・清方・深水三巨匠展には、三人の美人画の巨匠の作品が並んでいた。

 作品を前にするとそれまでの苦労は吹っ飛び、ようやく本物と出会えた喜びに浸った。同時に、今まで図版では発見できなかった多くのことを見つけることができた。それは、三人の画家たちが描いた美人は、それぞれ同じように見えてまったく違うものだということだ。館内で鑑賞していたおじさんが「本当に三者三様だねぇ…!清方の絵が一番おとなしい」といっていたが、私は思わず心の中でその言葉に相槌を打ってしまった。

 松園の絵は、その人柄のせいか、非常にまじめな線を描く。少しの狂いも許さず、すべてにおいて妥協しない。筆で描いているはずの線は、定規で引いたようにまっすぐで、太さも均一である。丁寧に仕事をするというのが絵画に表れているのだ。

 それと異なり深水は、常に向上しようとする考えが絵にも表れており、それが彼自身の技術の熟達、絵画様式の確立へとつながっているように感じられた。具体的に言うと、細やかに描かれていた線が、時代を下るにつれ堂々と太くなり、新しい時代の女性たちも避けることなく絵画にしてみようとする意志が見える。この点は、他の二人と大きく違うところだ。彼は所謂「美人画家」として区分されることを大変嫌っていた。線引きされることで自分の制作活動に限界をつくりたくなかったのだ。そのため伊東深水=美人画家として人々から認識されるのを拒んだのである。この考え方は、後に美人画という様式を打ち破り、新しい絵画を創造する原動力になっていく。

 一方清方は、それまでの江戸浮世絵の流れを受け継いだ古典的美人画を描く。線は細く、さらりと美人を表現する。また彼は文人画家と呼ばれ、絵画と同様に文章をたしなむ画家であった。挿絵画家として世間に名を知られるようになった彼にとって、文と絵は非常に近い関係にあったのだ。そのため彼は美術だけに注目し、絵画理論やその表現方法を研究するというスタンスはとらない。彼は何を描くかに重点をおき、その背景にある精神性を大切にしたのだ。

 描き手が異なれば、その表現の仕方も違う。そんな当たり前のことを私は本物を前にして一番に感じたのである。それゆえ画家によって美人の容貌も異なる。清方の描く女は目が細く口が小さい。凹凸がはっきりした髪型などから江戸の典型的美人像であることは明らかだ。それに対し、京都を中心として活躍した円山四条派の松園は、丸みのある形に髪を結い、目鼻立ちも甘い印象である。このように、江戸と京都では美人像が異なっている。よって、画家がどの流派に属するかで美人の顔の描き方も違ってくるのだ。

 だが、それだけではなく、同一の画家が描いた作品でも画中の美人は各々の顔を持っていた。画家がどの時代にテーマを設定するかや、どのくらいの年齢の女性を描こうとするかによって女の容貌は違うのだ。この展覧会に、松園の<舞支度>という作品があった。それまで気付いていなかったが、中心に描かれた美人の顔が本当に若い女性の顔として描き分けられていた。まだ十代くらいの幼い少女の顔だ。そうかと思えば、<楚蓮香之図>などは古代中国に時代設定しているため、古風な容貌であった。丁寧に本物を観察すると、同じ顔を持った女性は決して描かれていないのである。

 また、松園について言うと、彼女たちが着ている着物の柄や髪飾りにも眼を見張った。白地に白の文様がある着物などは、絵の具の盛り上がりでしか判別できないほど繊細だった。色彩も淡いので、見れば見るほど図版だけでは分からなかった部分が発見でき、本当に見に来てよかったと感じた。私は何とたくさんのことを今まで見落としていたのかと思ったのだ。

 鏑木清方記念美術館(神奈川県鎌倉市雪ノ下一丁目5番25号)

 鏑木清方は東京神田の生まれである。住まいは時期によって転々としており、この美術館は清方が晩年を過ごした鎌倉市雪ノ下に立っている。多少見つけにくいところにはあるが、鶴岡八幡宮からも目と鼻の先である。


鏑木清方記念美術館の入り口前
鏑木清方記念美術館
入り口前
鏑木清方 朝涼 1925
朝涼
1925

 館内に展示室のほかに、画家自身が愛用した品々を用いて画室の復元がされていた。建築家吉田いそや五十八氏に依頼した牛込矢來町の部屋を気に入った清方は、雪ノ下の自宅の二階にも同じものを取り入れたのだ。様々な太さの筆や絵の具用の皿、乳鉢、硯などの道具はもちろんのこと、眼鏡や愛読書、箪笥や壁にかけられていた書画まで実際に清方が使用したものだった。また展示室はというと、所蔵品展「清方描く四季−避暑地の思い出―」というテーマで、代表作<朝涼>などが展示されていた。

 ちょうど学芸員による作品解説が行われていたので参加させて頂いた。清方は夏になると家族を連れて、横浜金沢にある遊心庵という別荘で過ごした。海水浴や夜の演劇、避暑地での娘たちの姿などを描いたものが多数残っている。まるで絵つきの旅行記を書くように巻物にさらりと文章とともに描かれていた。彼は「卓上芸術」という言葉を提唱し、絵画を身近に感じ、机の上でじっくりと楽しむという芸術を推奨したが、その姿勢がこれらの巻物にも現れているようだった。また、清方は<水汲>を描いた時期スランプに陥ったが、<朝涼>を描くことでそれから脱却したという説明があった。<朝涼>はまだ夜が明けきらないもや靄のかかった夏の朝に、散歩に連れ立った長女を描いたものである。確かに<水汲み>は横顔の農家の娘を立像で描いており、様式としてはよく似ている。だが<朝涼>の遠くを見つめる少女の姿は、凛としてみずみずしい。<水汲み>と同様の形式をとることで、絵画活動の不調を打破しようとする決意と、それを乗り越えた画家の精神的なゆとりがこの絵に表れているのだ。私は、彼女の容貌ではなく、むしろその描かれ方に惹かれた。美人は決して「美顔」ではないということを実現させた絵画だと感じた。

 さらに私は、同様に清方の家があったとされる鎌倉市材木町も歩いてみた。画家がどんな環境で生活していたのか興味があったからだ。道幅が狭く、神社や寺が多い。そのためか、植物もたくさん植わっていた。鎌倉は観光地であるため景観を少しでも保護していこうとする政策がとられているのかもしれないが、未だに小さな商店なども軒を連ねる庶民の町であった。歩いていると家の外からでも喧嘩をしている声が聞こえてきて逆にほっとした。「市民の風懐に遊ぶ」と自らの境地を語った清方にとって鎌倉は絶好の場所だったのだ。また、彼だけではなく、鎌倉は多くの文学者が愛した地でもある。町全体が持つ人間同士の一体感を芸術家たちは好んだのかもしれないと感じた。

・2005年10月30日〜11月2日 東京都、奈良市

 山種美術館(東京都千代田区三番町2番地三番町KSビル)

 山種美術館はビルの一階部分にある博物館で、東京の中でも落ち着いた区画に立っていた。今回私がここで一番見たかったのは、<特別展>生誕130年 松園と美しき女性たち展であった。松園以外にも小倉遊亀や橋本明治、片岡球子など、美人画家たちが新しい西洋の表現様式を取り入れ始めた絵画も並んでおり、近代と現代とを比較することができた。

 しかしながら、これらの表現主義的技法は美人画の破壊に他ならないように思えた。極端な体の部位のデフォルメは、それまでの写実を基本とした理想像から離れていくことなのだ。ゆえに美人画は現代という時代に入り、大きく停滞せざる得なくなる。では現代における美人画とは何かを考えるとき、視覚的な美しさだけに囚われない人間の精神の美しさが強調されることになる。容貌だけが美しければ美人だと今日の人々は思っているだろうか。「性格美人」という言葉が現代では良いものとされ、美人の基準が曖昧化した今日の現状をこれらの現代美人画たちは教えてくれているようにも思えた。

 この考え方は、近代と現代を通して、「人間」に対する「美しさ」の概念が大きく変化したことに起因する。その前提として「人間」への眼差しの向け方が激変したのだ。つまり「個」としての人間の発見である。一人ひとりの文化、歴史、生活環境はそれぞれである。西欧の考え方を近代日本が政策として取り入れたことで、これも同時に移植されたのだ。

 展覧会の中に、杉山寧の「少女Y(スケッチ)」(1957)という作品があった。顔もはっきりとは分からない、ぼんやりとした少女の絵である。絵の具を筆で塗っておらず、白のバックにスプレーなどを吹きかけて描かれた作品である。現代以前の美人画とはつまり、このようなものだ。実体がなく、「個」としての存在も非常に曖昧である。「究極の美人を描け。」といわれて「はい、これです。」という風に具体化された人物像を提示することが果たしてできるだろうか。美人像は、人それぞれが思い描くものである。ひとつの形は決まっていない。したがって、最高の美人を表現するには描かないことが最善なのだ。

 展示を一通り鑑賞した私は、例のごとく図版を求めた。しかし、特別展の図版が充実しておらずかなりがっかりしてしまった。500円くらいの小冊子を購入したのみだ。以前から思っていたことなのだが、美人画は特に日本の年配の人々には人気があるが、絵画の評論の対象としてはいつも蚊帳の外である。どうして学問として取り上げられることは少ないのだろうかと思った。

 東京国立近代美術館(東京都千代田区北の丸公園3番1号)

 皇居のすぐ近くにこの美術館は立っている。同美術館の工芸館や国立公文館、科学技術館など、ここ周辺は北の丸公園と呼ばれ日本屈指の博物館が立ち並んでいる地域である。今まで見てきた日本画を中心に所蔵していた美術館とは異なり、国立近代美術館はその規模も大きく、展示作品も著名な画家によって制作されたものばかりだった。じっくり見ると丸一日かかる作品数である。

 ここで私は所蔵品ガイドに参加した。これはスタッフによる一方的な説明ではなく、鑑賞者との対話を通して作品の理解を深めていくというものだった。参加者が五人くらいしかおらず、スタッフの方に大学で日本画を勉強しているということを言ってしまったためかなり当てられてしまった。対話形式のガイドというものは初めてだったので、始め緊張していたが、後半はそれも無くなり、楽しい一時間が過ごせた。絵画の印象を言語化することは意外と簡単ではないのだなと感じた。

 弥生美術館・竹下夢二美術館(東京都文京区弥生二丁目4番2号)

 時間的に余裕があったので夢二美術館へも行った。しかし朝から歩き通しだったので、疲れがピークに達していた。ここは竹下夢二の作品とともに近代の少年少女誌を保存・展示している美術館であった。弥生美術館と表に書いてあるが、二つの美術館が一緒の建物に入っている形である。

 内容はほとんど近代以降の絵本や少年少女誌を扱ったもので、夢二の美人画が登場したのは最後の一室だった。挿絵を中心に歴史的事柄を説明されており、子供の存在も近現代に入り大きく変化したのだということを学んだ。また、鏑木清方の挿絵なども飾られ、当時の画家と挿絵画家とは割と近い分野で活躍していたということが分かった。

 興味深いのは「漫画」の中に描かれる美少年や美少女たちである。私はここに、近代日本の美人画で生まれた美人像の末裔を見た気がした。それは個性を持った人間というよりは、作者の考える理想としての美人たちだった。私は今まで、芸術と漫画や雑誌などの商業物とはまったく別個のものとして捉え、美人画を研究してきたが、ここで美術が表象の一部であるという認識の必要性を感じた。美人画も画像という大きな枠組みの中のひとつなのだ。

 松園、間之町の自宅―京都にて

 一路東京を離れ、私は奈良へと向かった。奈良市へ行くためには東海道新幹線で京都に下り、さらに近鉄奈良線に乗り換えなければならない。その日は月曜日。早くに奈良についても、博物館は閉館していると思ったため、一日京都で松園の足跡を辿ることにした。

 生まれは京都市四条御幸町奈良物である。奈良物とは、奈良の産物のことを指すらしく、現に錦市場商店街という通りには、特に奈良漬が多く売られていた。この周辺は京都庶民の町で、町ごとにその特産品の名前がつけられている。例えば、八百屋町、白壁町、油屋町などがある。円山四条派の大家円山応挙も御幸町通りのすぐ隣にある麩屋町通りに生地があり、巨匠と呼ばれる画家を二人も生み出した場所として重要である。このことは、加藤類子氏の著書「虹を見る」に詳しい。私はこれらの手がかりをもとに京都の町を散策してみることにした。

 松園の生まれた地は、何のことは無い一般的な商店街の横道だった。せっかく来たのに何の収穫も得られないのが嫌で、試しに地元の人に松園について聞いてみようという気になった。三人くらいの人に聞いてまわったのだが、ここで私は、京都の人は彼女を身近に感じているということを知った。地元だから当たり前ではあるが、まるで知人のことのように話すのが印象的だった。松園を愛しているのだと感じた。

 その後、これで最後にしようと声をかけたおじさんが大変興味を持ってくださり、知り合いのろうそく屋の亭主に情報を聞いてくれた。するとその亭主は、すぐ近くにあるしっかい悉皆屋に聞いてごらんとのこと。悉皆とは着物の染付けのことで、そこはだいぶ古くから京都で店を出しているらしかった。数珠繋ぎのように転々と人から情報を集め、結果私はこの店で松園の自宅の場所を知ることができた。


松園の生家があったと思われる場所
松園の生家があったと思われる場所

 もともと私は生地について調べようと思って来ていたので、まさか未だに上村家の自宅があるとは知らなかった。これは大きな収穫だった。興味を持って情報をくれた名前も知らないあのおじさん、そしてそのほか協力してくれた地元の方々に本当に感謝したい。

 辿り着いた家屋は、所謂松園やその息子松篁が生活していた間之町の自宅であった。後から分かったことだが、ここには松園の京都の画室棲霞軒もあるそうだ。玄関先は白熱灯が一つ灯っているだけで人気がまったくなかった。敷地自体が広いため、住まいは奥の方にあるのだろうと思われた。昔からある日本家屋の威厳がにじみ出ており、何があってもびくともしない感じがした。私はストーカーのように玄関先をうろうろしていた。夕闇の中、家の奥を覗いてみたり、写真を撮ったりしていたのだから、よく警察に捕まらなかったと思う。

   松伯美術館(奈良市登美ヶ丘二丁目1番4号)

 奈良にあるこの美術館は、松園・松篁・淳之の上村家三代に亘った日本画を所蔵する博物館である。今回は<特別展>生誕130年記念 上村松園展を鑑賞した。松園の孫である上村淳之さんが館長をしておられるこの美術館は、大変風光明媚なところだった。建物の外には小高い丘があり、竹や藤などの植物がたくさん植えてある。傍にある旧佐伯邸は土日と祝日公開されるそうだ。また、館内も地下一階に鯉の泳ぐ池があり、その上に1〜3階が足で支えられるという建築形式になっていた。窓も大きくとってあり、まるで外にいるように室内も明るかった。日本画を扱う美術館としては、大変モダンな建物である。


松伯美術館の館内
松伯美術館の館内
外観
外観

 松園は、第二次世界大戦中この奈良平城の地に疎開している。当時は草木ぼうぼうの田舎だったそうだ。嫌がる松園が息子松篁の強い勧めで京都を離れたという記述が残っている。松伯美術館がある場所は、彼女が晩年を過ごした地なのだ。

 展示内容についてだが、作品数の多さに感嘆した。恐らく松園の大作がこのように一堂に会するのは、後10年間は無いのではないだろか。そう思うほど傑作という傑作がこの美術館に里帰りしていた。「花がたみ」や「序の舞」、「草紙洗小町」、「娘深雪」など。初めて見る作品も二点ほどあった。そして改めて、松園という画家の偉大さ、仕事の大きさを実感したのだ。作品の他に筆や硯も展示しており、実際に彼女がこれを手にとって絵を描いていたかと思うと拝みたくなるような心地がした。

 下絵も多く見ることができ、完成した作品だけでは分からないような筆致などについても観察することができた。初期は、なかなか線が決まらず、濃く細い線でなぞってあるが、技が上達していくに従って線がシンプルになっていくのが分かった。代わりに、太く淡い線や細く濃いものなど、様々な線が髪や目、輪郭などの部位によって描き分けられていた。眉などは、本当に細かい線で描かれており、松園自身が筆の毛一本で顔の表情が変わると語っていることが思い出された。

 眉について興味深かったのは「草紙洗小町」である。小町は平安時代の女性なので、実際の眉はそり落とされ、上部に貴族の化粧する太くて短い眉があるのだが、本来の眉毛の剃り跡が絶妙だった。実物を見てもその青さがあると気付かないほどの描き方である。小町の肌の色を塗る前に青を置き、その上から白を塗って剃り跡を表現したのではないかと私は思った。

 このように、日本画はかなり繊細なものなのだ。本物を前にしないと分からないことがたくさんあると実感した。特に美人画について言うと、近くで見れば見るほど新発見がある。これは油絵などの鑑賞法とは大きく異なるだろう。例えば、モネの作品などはある距離まで近づくと何が描かれているのか分からなくなり、画面が様々な色の点々にしか見えなくなる。この日本画と西洋絵画の鑑賞法の違いは面白い。

 松園、晩年の奈良平城の自宅 ― 唳禽荘(れいきんそう)

 松伯美術館に問い合わせるなどして、もっと唳禽荘について調べておくべきだったと私は後悔した。というのも、私は電話一本入れず上村宅に訪問してしまったからだ。もともと詳しい情報が無いため、そこに行くつもりは無かったのだが、大雑把な地図だけでその自宅を見つけてしまったのだ。この場を借りて、いきなり自宅にお邪魔してしまったことをお詫びしたい。また、快く自宅を案内してくださった上村家の方々に感謝したい。

 唳禽荘のある上村淳之さんの自宅は、野鳥を保護する施設でもある。たたずまいは立派で、敷地には鳥用の檻や植物を植えた畑がたくさんあった。飼われていた鳥も、今まで見たことない種類のものが何種類もおり、その野鳥の世話をする専属飼育員のような人も数名いらっしゃった。まるで野鳥動物園という様子だ。松園の画室や唳禽荘もこのうちの敷地にある。


松園が晩年使用した画室
松園が晩年使用した画室

 出迎えてくださったのは、淳之さんの奥さんだった。奥さんは、柔らかさの中に芯の強さがある女性という印象だった。松園もこのような女性だったのではないかと想像した。彼女が晩年使った画室を見せてもらい、当時の話などを聞いた。このアトリエのお披露目のときに、女史はすでに体調を崩していたらしく、絵の制作に使うことはほとんどなかったそうだ。すぐ隣に小さな茶室があり、そこで一服しながら時を過ごしたという。縁側からは小さな庭が見渡せるようになっているが、それもかなり今様に作り変えられたそうだ。もちろん自宅のほうも近代建築である。当時の平城は荒地で、彼女は山犬を買っていた。鳥を飼い始めたのは息子の松篁さんの代からである。淳之さんは鳥を育て、卵をふかさせ、野鳥の保護とともに絵画の画題としてもそれを生かしているとのことだった。

 淳之さんはその時自宅にはいらっしゃらず、結局お会いできなかった。奥さんに、どんな方なのか聞くと「若い人の教育にも力を入れているので、そういう人たちとのコミュニケーションもうまいです」と言われた。大学で教えたりもするそうだ。実際会うと若い感覚を持った人なのだろうと想像できた。

 奥さんは、平城は交通の便があまりよくないので不便だということを言っておられた。住んでいる人にとってはそう感じるほど、そこはとても穏やかで静かなところだった。縁側にひとりで座ると、松園がそこに座っているような気になった。背筋が伸びるような、神聖な空間である。

 女史は、絵を描くということを「花のうてなに座る」という風に表現する。絵の制作と宗教は非常に近いものだったのだ。この言葉からも、松園という画家は自分の信念を最後まで曲げない人物であったということが分かる。絵を通して彼女自身が鍛えられ、「美しく」なったのだ。それは、彼女が理想とする美人像に他ならない。決して外見だけではない、気高く強い精神性を持った美しさこそ女史の考える<美人>なのである。


<参考文献>
・ 上村松園 『青眉抄』 講談社 1977
・ 加藤類子 『虹を見る 松園とその時代』 京都新聞社 1991
・ 上村松園 『青帛の仙女』 同朋舎出版 1996



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