大黒屋光太夫の遺跡を訪ねて

2004年度ドイツ文化コース選考者報告


〜はじめに〜

 大黒屋光太夫は、鎖国時代に日本と海外の国際交流の先駆者となった人物である。今では、世界を中心に貿易を行っている日本だが、350年程前は海外との交流を制限していた。
 他にも、幾人かの日本人が外国に漂流したと思われるが、なぜ今回彼のことについて調べてみようかと思ったのかというと、私自身がロシアに住んだことが大きな理由と言える。今は、海外に旅行をしようと思えばいつでも行ける世の中である。しかし、当時の日本は海外に行くことは許されていず、外国という存在は奇妙に思えたに違いない。そんな彼らが、ロシアという未知の国を見、日本に対してどう感じたのかを知りたいと思い、大黒屋光太夫に焦点を当てたのである。しかし、実際彼の資料は、震災や長い年月により、ほとんどが残っていない。彼らが、持ち帰ったと言われるもののほとんどが、紛失してしまっている状況である。その為、彼が日本に帰国してから日本をどのように思ったのかは、はっきりとはしなかった。

 まずは、三重県鈴鹿市にあるしろこ白子を訪れた。海がすぐそこにある潮風の漂う小さな所だった。なぜこの地を訪れたのかと言うと、この町こそが大黒屋光太夫が生まれ育った町であり、彼を知るには最も重要な地だと考えられたからである。


三重県立図書館蔵:勢州白子神昌丸船・船頭漂流記から
三重県立図書館蔵:勢州白子神昌丸船
船頭漂流記から
若松小学校資料室横 光太夫の像

若松小学校資料室横 光太夫の像


〜大黒屋光太夫資料室と碑〜

 伊勢若松駅の近くにある若松小学校には、学校の教室を利用して作られた「大黒屋光太夫資料室」がある。ここは、毎週土曜、日曜、祝日に開館されている。資料室の中には、神昌丸に乗って行った乗組員の年表や、遺品などが展示されている。来年の秋には、この資料室を閉鎖し、近くの公民館の横に資料館を建てることとなっており、より多くの資料が展示され、来館者が来館しやすいようにする予定だと言う。
 展示されていたものの中で、興味深かったものは大黒屋光太夫が、ロシアにいる間に何通か手紙を書いたことが分かっている。そしてそれらは、日本が唯一交流を持っていたオランダ商人らに渡されたようなのだが、家族に渡されることはなく、その一通が今、ドイツのゲッティンゲン大学に所蔵されている。その中に、下記のような文が書かれていた。

日本へ帰候事は、うどんげの花に御座候

 これは帰国の困難さを表している文である。うどんげ(優曇華)とは、ヒマラヤ山麓、ミャンマー、スリランカなどにあり、仏教では、3千年に一度花を開花させ、如来が世に出現すると伝えられている花である。この3千年に一度との開花と言う事から、極めて稀なことへの例えとなったのである。光太夫は、伊勢商人として生活をしていたのだが、学問が好きで、格式があったことがこれからも伺える。また、彼はまめであり、ロシアに行ってからも細かく日記を書いていた。

 資料室のすぐ横には、光太夫の像があった。この像は、本などの写真には載っていないもので、余り知られていない。石像の大きさに対して些か、台が大きく見える。これは、昔別の像が置かれていたことを意味する。戦後まで、ここには、薪を背負いながら学問をしている二宮金次郎の像があったそうである。しかし、戦後、二宮金次郎の像がなくなり、大黒屋光太夫の像を置くことになったそうである。

 大黒屋光太夫は、帰国した当初は、政府から様々な訊問を受けたりして、注目を集め、『北槎聞略』などの記録書が作られたが、あまり言われなくなってしまったのである。後に新村出氏が、大黒屋光太夫と言う海外との交流の先駆者となった人物がいることを述べたことによって、再び知られるようになったのである。これをきっかけに、開国曙光の碑が作られたが、当時作られたものは、台風の倒壊、折損等により、頭部しか残っておらず、今は3代目となっている。そのため、碑に彫られている文章も初代のものに比べると中身が少し変わっている部分もあると言う。今の三代目は、昭和51年(1976年)に再建されたものである。


初代の開国曙光碑 公民館入り口前


初代の開国曙光碑 公民館入り口前
3代目の開国曙光碑 鈴鹿市若松出張所敷地内
3代目の開国曙光碑
鈴鹿市若松出張所敷地内


 大黒屋光太夫に関する本や映画がここ十数年の間に盛んになって来ている。井上靖氏の『オロシア国酔夢譚』もその一つである。井上靖氏がこの作品を書いたことを記念として、大黒屋光太夫、率いた神昌丸が出港した場所にモニュメントが建てられた。このモニュメントを見ると、船の帆のように石が積まれていることが分かる。そしてこの積まれた石の数は、十段。つまりこの十という数こそが、彼らが漂流して帰ってくるまでの年月を表しているのである。

 この場所は今、海水浴場となっており、昔この場所が港であったと思わされるものはない。このモニュメントの向かいには、当時はいくつもの倉庫が並んでいたと考えられているが、今は、皆がゆっくりと過ごせるようにと芝生が植えられていた。


白子港緑地
白子港緑地

〜白子の昔〜

 今では、白子と言う地名はあまり知られていない。港があると言えば四日市や桑名などになるだろう。それではなぜ、当時この場所が繁栄し、江戸との交流があったのだろうか。それは、この町の伝統工芸にあった。それは、鈴鹿墨伊勢型紙であった。現在でも墨は、奈良と並ぶ最も有名な墨の生産地になっている。伊勢型紙は、着物や裃などの模様になった鮫小紋などがある。そしてこの伊勢型紙の型紙を持って、型紙氏達は、旅歩いたと考えられる。


伊勢型紙
伊勢型紙

 伊勢型紙には、4つの彫り方があり道具彫り、錐彫り、縞彫り、突彫りがある。左の写真のような縦に細かく彫って行く縞彫りは、染めるときに、合わせた紙が動かないように生糸を横に張り巡らす、糸入れという作業を行う。伊勢型紙の材料である和紙は、美濃から。柿は、岐阜県の大垣から取り寄せられたものであった。これからも分かるように、これほど発展した伊勢型紙の材料は、すべて他県から取り寄せたものによって作られていたのである。取り寄せられた和紙には、三年間発酵をさせた柿渋が塗られ、3枚を張り合わせて燻煙室に入れて出来上がる。渋柿を使うことによって、粘着力がうまれまた、水を弾くそうだ。今の日本では、着物などを着る機会も減った為、この技術が失われかけてきている。この日本古来の伝統技術を残して行こうと、『伊勢型紙資料館』では、伊勢型紙の彫り方を教えている。

 350年から400年前の江戸時代には、白子は江戸に向けての廻船業が多く、商売繁栄、海上安全などの為の絵馬が、数多く若宮八幡宮(現;江島若宮八幡神社)に納められた。絵馬の始まりは、馬を神様の馬、神馬として飼って欲しいと言う思いから始まったもので、西洋のような、生け贄とは、まったく異なったものであった。そして、生きた馬から、土馬を奉納するようになり、次に馬小屋の形をかたどった木の中に神馬を描くようにと変わって行った事が、絵馬の始まりだという。


絵馬1
絵馬1
絵馬2
絵馬2


 絵馬に、黒い神馬を描いたものは、「雨乞い神事」と言い、黒が、暗黒の雲を連想させ雨を望み、白い神馬は「日乞い神事」と言い、白が、澄み渡った白い雲を連想させ、太陽の光を望むと言う神事があった。つまり、絵馬は今では個人的な願いの為のものが多いが、昔は公の広い意味での祈願であったことが窺える。江戸時代後期ぐらいからは、個人的な祈願も出て来ており、禁酒、禁煙などには、お酒の絵に鍵がかけてあるようなものもあると言う。ここの神社は、横に海があることなどから、海上安全などを願うものが多く、商売人の絵が描かれた絵馬が、奉納されている。これらの絵馬の中に、大黒屋富次郎が奉納したと言われるものがあった。この人物は、大黒屋光太夫より少し後の人物なのだが、大黒屋が当時商人の家であったために海上安全の意を込めて奉納されたものである。大黒屋光太夫とは直接関係はないのだが、「大黒屋」が商家であり、江戸との取引を行っていた家であったことがわかる。

 さて、この白子が江戸と数多く取引をすることとなったのには、本能寺の変が関わっていた。明智光秀の反乱によって、命を落とした織田信長の家臣であった徳川家康は、追っ手から逃れながら、伊勢白子の浜にたどり着き、ある農家のおがわまご小川孫ぞう三に匿うよう頼み込んだ後に、沖まで連れて行ってもらい駿府城に帰ることが出来た。一方、小川孫三は白子に帰ると今度は自分が捕まってしまうと言うことから、家康のいる静岡まで行き、事情を説明した。家康は、それを聞き、静岡に国元に帰れないため、地名だけは同じにしようと考え、ある場所を白子と付け、そこに住まわせることとした。これが、現在の静岡県藤枝市白子町だそうだ。このようなことから、白子に感謝の念を抱いた家康は、徳川幕府を開いてから白子との取引も増えたという。そしてまた、検閲無しで行き来が出来たともいわれ、荷が少し多くなることもまちまちだったと言う。白子との貿易が盛んだったことから、大黒屋光太夫が幽閉生活をしているときでも、白子の人が訪れた事もあったのではないかと言われている。
 これだけ、数多く取引をして盛んだった港だったのだが、千石船の破損や台風などの災害などにより金銭的まかないが苦しくなった。その後、四日市などが人口の港を作るなどをして、近代的な港を作って行ったため、白子は衰退して行った。

〜おわりに〜

 研究すると言うことは、何をその土地で見つけることが出来るのかが、分からない手探り状態から始まる。今回は、三重県鈴鹿市にある白子、伊勢若松を中心に調べていった。下調べをしていたときには、気づかなかったことを様々と教えていただけ本当に、学ぶことの多い旅行だったと思う。
 白子の後に、東京に向かった。大黒屋光太夫たちは、帰国した後幕府の薬草園で生涯を過ごしたのだが、今は皇居、靖国神社の辺りに埋まってしまっている為、分からなくなっている。また、数多くの遺品や記録が、残っているはずなのだが、まだ見つかっていない為、これから期待したいところでもある。早稲田大学に、保管されている貴重書の中に、当時の算数の教科書があった。文庫本ぐらいの大きさで、今の教科書のように問題がたくさん載っていない。内容は、3桁の足し算、対比等があり、どのように足すか等の方法が文章化されていることが窺えた。そして、日本の当時の文章などは、筆で書かれているが、ロシアの教科書は活版印刷されていた。ここから、ヨーロッパの文明が如何に進んでいたかが、分かる。
 一つ一つが小さな資料でも、まとめて行くとかなり大きな資料となり、話がつながってくる。話がつながるとそこからまた疑問が湧き、また調べる、ごく当たり前のことなのだが、とても大切なことを今回の研究旅行で学んだ気がする。
 最後に、今回の研究旅行でお世話になった方々に、この場を借りてお礼を述べたいと思う。



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