漫画の歴史と人々とのかかわり

2004年度日本文化コース選考者報告


はじめに

 漫画は日本人の大きな娯楽の一つであると同時に有史以来、日本が海外に輸出した文化の一つでもある。私達はいたるところで漫画を見かける。年齢・性別を問わず受け入れられており、人々に少なからず影響を与えている。これほど漫画が普及している国は日本を置いて他にはないのではなかろうか。私達は現代漫画を“よい意味であれ、悪い意味であれ、手軽に様々な場面を疑似体験できるもの”として位置づけ、幅広く受け入れられる背景があるのではないかと考えた。そこで、これまでの漫画の歴史と人々との関わりについて戦争中から現在まで調べることにした。


森下文化センター
森下文化センター



のらくろ館
のらくろ館


戦争中の漫画

 日本は昭和まで戦争を繰り返した。その中で少年に人気のあった『のらくろ』は内容的に日本政府の徴兵という意図と合致していたのではないかと考えた。『のらくろ』については東京の森下文化センターのらくろ館に行った。田河水泡の生涯とのらくろについて展示してあった。館内には年配の方の姿が多く見られ、今でも愛され続けているのだと感じた。そして、戦争とその時代の子供たちについては昭和館で調べることにした。昭和館では戦時中の生活用品や当時の人々の写真などが展示してあり、実際に説明してもらいながら、当時の学生服や防空頭巾などを着てみることができ、民衆の生活に触れることができた。


昭和館
昭和館


 1931年(昭和6)「少年倶楽部」に掲載された田河水泡の『のらくろ』は太平洋戦争による執筆禁止令で一時中断はあったものの、約50年間連載された。作者の「子供たちに夢を与え、励ましたい」という思いがのらくろ誕生の大きな力となったという。内容は野良犬が猛犬聯隊に入隊し、一歩一歩の努力で不幸を追い払い、出世していくというものである。その時代の少年の遊びは男の子は兵隊ごっこ、女の子は看護婦ごっこなど戦争の影響を受けていたことからも、少年の夢が兵隊になり、出世することであったということもわかる。また、明治末期から続く街頭紙芝居も昭和5年(1930)の『黄金バット』注1のヒット以来、テレビが普及するまで子どもの娯楽として定着していた。のらくろ館で実際に読んでみると『のらくろ』も、1ページに3コマという構成で、コマの左右から登場人物が出てくるという紙芝居的なコマが多かった。のらくろは失敗ばかりするけれど、落ち込むことなく明るく前向きに生きる姿に多くのファンレターが寄せられ、子供とともに一喜一憂していた。軍国主義的な思想にわかりやすい漫画という形で触れることはやはり、子供たちのその後の考え方にも大きな影響をあたえたのではないだろうか。この当時、漫画家も戦争とかかわりあったところでしか漫画をかけない状況であったということがうかがえる。


宝塚市立手塚治虫記念
宝塚市立手塚治虫記念


手塚治虫と赤本

 手塚治虫の人気は未だに根強く、天才、漫画の神様などと形容され、手塚治虫なくしては現在の漫画界は語れないといっても良いような印象を受ける。漫画をテーマにして研究旅行をするにあたり、避けては通れない人物だと感じたので今回、宝塚市立手塚治虫記念館に行って手塚治虫の人物と作品について調べることにした。

 ここで私たちは何度「すごい」という言葉を発しただろうか。幼い頃からの絵や漫画、昆虫の絵などが展示してあり、その絵の完璧さに本当に感心せずにはいられなかった。とくに昆虫の標本は近くでみても本物ではないのかと目を疑った。親しみやすい絵はこの正確さからきているのだと感じた。

 日中戦争から第二次世界大戦にいたる長い戦争期の中で、漫画は国家の言論統制の影響を受け、思想検閲によって政治漫画は骨抜きになり、風俗漫画でも発禁処分を受けるものが出てナンセンス漫画も描けない状態であった。戦争中の言論統制の下で、漫画がかけない時代が続くが、国策の宣伝に漫画家がかかわるようになり、再び漫画ブームを巻き起こした。中村書店 注2の漫画本や講談社の絵本が人気を博し、「絵物語」と称する作品が生み出され、戦後まもなく黄金期を迎える。手塚治虫はこれらの漫画や昭和初期に大ヒットした田河水泡の『のらくろ』などの影響を受けて、漫画を描き始める。昭和20年代初めから30年ごろまで、“赤本”と呼ばれ、子どもたちに親しまれていたものがあった。“赤本”の意味のついては諸説あるが、中が赤を中心に使った二色刷りで、表紙にも赤色が多く使われていたからというのが通説のようだ。これらは駄菓子屋などで安く売られていたので、子どもが手に入れやすかった。この赤本で大ヒットとなったのは1947年(昭和22)に出版された『新宝島』(構成・酒井七馬、絵・手塚治虫)である。これによりストーリー漫画が確立される。

 戦中は思想統制が行われていたので、若者の、いろんな情報を手に入れたい、発信したいという欲求が戦後一気に花開き、次々と漫画家が現れる。戦争に負け希望がない時代、漫画に明るい未来を求めたのである。手塚作品はどの作品にも通ずる手塚流のヒューマニズムを取り入れ、読むたびに問いを投げかける。それまでなかった演劇を基にした斬新な表現法、内容の深さ、幅広さ、面白さは多くの人々を魅了し、のちの漫画家に多大なる影響を与えた。

 日本は諸外国から輸入した文化が多くあるが、日本から外国に輸出された文化の一つに“漫画文化”がある。手塚治虫が日本の漫画家たちに影響を与え、それらが外国に輸出されるとき、手塚作品は世界のポピュラー大衆文化に多大なる影響を与えているといえる。


赤本
赤本  (現代マンガ資料館 所蔵)
貸本少女漫画
貸本少女漫画  (現代マンガ資料館 所蔵)


貸本と少女漫画

 貸本と少女漫画を調べるために、大阪の現代マンガ資料館を訪ねた。連絡をせずに行ってしまい、この時私たちの目的とは違ったテーマで展示してあったにもかかわらず、沢山の貸本や少女漫画を見せていただき、説明までしていただいた。

 昭和30年代になると貸本屋が出てくる。これは一冊わずか10円程度で読めるというので、子どもたちにとってとても魅力的であった。貸本屋の出現に伴い、貸本専門の出版社も出てきた。貸本漫画専門の出版社は正規の出版社とは違い敷居が高くなく、漫画家は原稿を持っていきやすかった。出版社のほうも、原稿を投稿してもらい面白いものを採用するという形をとっていたので、両者の思惑が合致していたといえる。また、これらの出版社は全国にあったので、女性も原稿を持っていきやすかったのだろう、ということだった。こうした中から多くの女性漫画家が登場し、「少女漫画家」という概念が出てきた。

 また、貸本の特徴として挙げられるのが発行年月日を書かないことで、手にとる人にいつでも新しいという感覚を与えるためだそうだ。

 初期少女漫画は男性作家が描いていた。しかし、男性の考える少女であるからありきたりの題材が多かった。次第に赤本漫画に影響を受けた女性が漫画を描くようになり、貸し本漫画が人気になるにつれ、漫画家は貸本専門出版社に原稿を持っていくようになる。戦災孤児や生活難ということも身近なこととして感じていたため主人公に感情移入しやすかったことから、メロドラマ的な漫画が好まれた。特に人気があったのが、波乱万丈の展開の「母娘もの」。必ずハッピーエンドが予想できるので安心感をもって読むことができたようだ。戦後の荒廃した生活の中、「母なるもの」の存在が求められていたと考えられる。部分的ではあるが実際に原稿を読ませていただいた。かわいい洋服を着た、きれいな顔立ちの少女が登場人物であった。当時の少女たちにとっての理想の表れだったのだろうかと思った。また、戦争の中で封じ込められていた女の子らしいもの、フリルやリボンといった少女趣味を強調した絵も少女たちの目を引き付けていた。

 そして昭和47年、『ベルサイユのばら』が連載を開始し、宝塚歌劇団の公演により、大ヒットとなった。この漫画のヒットのより、作者はサクセスストーリーを歩んだ女性として認知され、女性の一つの職業の道が開かれた。当時の雑誌に掲載されていたカラーの絵や漫画を切り抜き、貼り付けているノートも見せていただいた。それを見ると当時のファンがとても熱心であることが見て取れた。このようなエネルギーが後の少女漫画家が登場する要素となったのだろうという話だった。そして多くの少女が漫画家になることを夢見た。現代の少女漫画は子供だけでなく幅広い年齢層に支持されているが、その先駆けなったのは『ベルサイユのばら』の作者、池田理代子を含む「二十四年組」注3 と呼ばれる漫画作家たちであった。こうして女性の表現領域ができ、少女漫画というジャンルは巨大産業として名をはせるようになる。


母娘もの
母娘もの  (現代マンガ資料館 所蔵)


現状と課題

 現在の漫画にはたくさんの問題点がある。出版する側の立場からはどのように考えられているのかを知るために、小学館の方に話を聴くことにした。また、読者の立場からの考えを聞くために現代マンガ図書館に行った。現代マンガ図書館では現状も含め、漫画の歴史など全体を通じてお話をしていただいた。ここには膨大な数の漫画が保管してあり、「所狭しと並ぶ」という表現が最も当てはまる言葉ではないかと思う。真っ直ぐに歩くことができないほどに積まれた漫画を見ると、どれほど多くの漫画が出版されてきたかを実感することができた。

 漫画は決して良いものばかりであるとは言い切れない。人びとは漫画を読むとき、いろんな情報を知りたい、自分が体験できないようなストーリーを疑似体験したい、など、さまざまな欲求を持っている。それは逃避の形だったり理想の形だったりするわけであるが、中には漫画の世界と現実とを混同してしまう人もいる。これは、絵で直接的に表現するほうが、活字を読んで想像するよりも現実との区別がつきにくいためでもある。また、漫画は映画や小説よりも短時間にどこででも読めるので誰でも気軽に手に取りやすい。そして手元に残し何度も読むことが出来る。そのため影響力も強く、それが良い面に出ればよいが、例えば特定の人物や団体、あるいは宗教などを取り上げ、糾弾する内容が描かれるとすれば、多くの人に誤解を与えてしまうかもしれない。また内容によっては人を洗脳することもでき得るのである。これは漫画の怖い部分の一つである、とおっしゃっていた。そして、大切なことは逃避にしろ理想にしろ、漫画を漫画として楽しむことだと思った。

 また、最近の漫画には性描写や暴力描写などで目にあまるシーンも多いが、ストーリー上必要な部分は使う、という方針のようだ。規制をしたところで、思春期の子どもは他のところで手に入れる可能性があるので、漫画というストーリーの中でできるだけ健全な形で見てもらおうと考えているそうだ。また、内容や描写という面で子供が読むには早すぎるものもあるのではないかと考えていたのだが、口をそろえておっしゃっていたことは、「大人はわからないだろうと言うかもしれないが、子供は子供なりの解釈があり、また、大人っぽいものに憧れる心理というのは誰にでもあるのではないか」ということだった。今まで気づかなかったが、漫画によって未知の世界を冒険したいと思うことは、知識を得たいという欲求と同じ性質のものだったのではないかと思う。悪い漫画もある。しかしそれは法律で取り締まるべきものでなく、社会が追放していき、育てていくものである、という考えにとても納得した。

 また、近年のインターネットの普及で、漫画の形も変わるかもしれない。漫画がインターネット上で見られるようになるとすれば、紙とは違い劣化しないという利点もあるが、ページをめくるときのドキドキわくわくする感覚が紙面と同じように伝わるかという懸念も考えられる。しかし、漫画も時代の流れとともに読者に一番受け入れられる形に変わらざるを得ないのだろう。

おわりに

 私たちは今回、『漫画』をテーマに研究旅行を行った。漫画の歴史は思った以上に奥が深く、私たちがこの旅行で得ることが出来たことはそのほんの少しだったかもしれない。しかし、人々が今、生きている時代を顧みるとき、漫画は時代を知る身近でわかりやすい一つの道しるべになりうるものではないかということを強く感じることができた。ただ単に漫画を悪いものとして否定するのではなく、良い面と悪い面を知っていかなければならない。

 そして、今回の研究旅行で多くの資料を実際に見ることができた。文献だけでなくいろいろな視点から話を聞いたり、手に取った資料から自分の目で見て考え、感じることはとても重要な意味を持つのではないかと思う。わからないことや今まで考えもしなかったことが自分の足で行ってみることによって見えてくるものだと感じた。

 最後になりましたが、現代マンガ図書館館長・内記稔夫様、現代マンガ資料館館長・倉林一彦様、小学館の志波秀宇様、お忙しい中時間を割いて貴重なお話をして頂き、本当にありがとうございました。そして、多大なるご迷惑をお掛けしたにもかかわらず、このような機会を与えてくださった先生方にこの場をお借りしてお礼を述べたいと思います。本当にありがとうございました。


日程

神戸 8月5日
8月5日  宝塚市立手塚治虫記念館を見学

大阪 8月6日〜7日
8月6日  現代マンガ資料館にて倉林一彦氏に取材

東京 8月8日〜13日
8月8日  昭和館を見学
8月9日  小学館にて志波秀宇氏に取材
8月10日  森下文化センター のらくろ館 を見学
8月11日  現代マンガ図書館にて内記稔夫氏に取材




1)「黄金バット」
 永井健夫作。紙芝居として人気を博す。単行本化し、続編も雑誌連載された。このように紙芝居作家から漫画家になる人も少なくなかった。

2) 中村書店
 東京浅草橋で昭和8年ごろから児童向け出版を手がける。戦時中は休業状態であったが、再開し、戦後昭和34年ごろまで営業を続けた。

3) 二十四年組
 昭和24年ごろ生まれの少女漫画家の集まり。花の二十四年組とも呼ばれる。萩尾望都、竹宮恵子、大島弓子、池田理代子、山岸凉子、木原敏江など。生と死の問題、性の問題を取り入れた表現など少女漫画の新しい道を切り開いた。



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