楽器職人の町クレモナを訪ねて



1 クレモナの紹介

 長靴の形をしたイタリア半島の北部、ミラノとヴェネツィアという二大都市に挟まれて、一日もあれば歩いて回れるような小さな街があります。クレモナは、ストラディバリやグァルネリといった有名なヴァイオリン職人が暮らした街で、現在も尚、80を越える工房があります。そこでは、多くのヴァイオリン職人さんがヴァイオリンを製作し、音楽を技術の面から支えています。
 クレモナは小さな街ではありますが、その歴史は非常に複雑で、知れば知るほど面白いです。イタリアはもともと一つの国ではなく、現在の街が一つ一つの国として存在していたのですが、クレモナは一度も国として独立していません。ヴェネツィア共和国だった事も、ミラノの一部だった事もあります。しかし、クレモナはその時代を上手に生きてきたのです。
 ヴェネツィア共和国時代、街対抗である競技会が行われたそうです。優勝すれば年貢を納めなくて良いというルールのもとで開催され、もちろんクレモナも参加しました。そしてその結果は見事優勝。年貢を納めなくてよい権利を得たクレモナは、それ以来、他の街よりも裕福になり、現在でも裕福な町のひとつとして数えられているのです。また、そのときの勝利を証明するように、トラッツォの横には、競技会で勝利を得た場面の像がありました。(トラッツォというのは大聖堂の鐘楼、111メートルのイタリアでいちばん高い塔です。)
 楽器作りが盛んになったのは、このような心のゆとりがあったのも一つの理由ではないでしょうか。


競技会の像
競技会の像


クレモナの旗
クレモナの旗
クレモナの景色
クレモナの景色


2 旅行日程とふたつのトピック

旅行は全体で 3月5日〜3月18 の期間にわたります。
クレモナには、3月5日〜3月12日に滞在しました。

≪クレモナでの日程≫

3月5日 到着
3月6日 松下さんの工房を見学
3月7日 メルカートを体験
3月8日 コムーネ宮、ストラディバリアーノ博物館、ポー川
3月9日 クレモナ ドゥオモ、小林さんの工房を見学
3月10日 サンシジールモンドー
3月11日 モラッシーさんの工房を見学
3月12日 トラッツォ

ふたつのトピック
 ・アントーニオ・ストラディバリについて
 ・ヴァイオリン職人の街クレモナの現在について
 これらはクレモナに9日間滞在した中で、特に注目した点でした。


ストラディバリ像
ストラディバリ像

・アントーニオ・ストラディバリについて

 コムーネ宮に保管してある『クレモネーゼ』と名づけられたヴァイオリンは、アントーニオ・ストラディバリによって製作された楽器です。15〜18世紀にヴァイオリン製作が盛んになり、その中で彼の作品の数々は、ヴァイオリンの音色、作品の芸術性ともに最高のものといわれ、現在では値段がつけられないほどです。
 ヴァイオリンの音色は製作されてから200〜300年頃に一番油がのるといいます。すると、彼のヴァイオリンは今が一番美しい音を奏でているのです。今や、世界中のヴァイオリニストがストラディバリウスを求めている、といっても過言ではないでしょう。
 ちなみにストラディバリウスという言い方は、ストラディバリの形容詞の形なんだそうです(と松下さんに教えていただきました) 。つまり、彼は生前から名前が形容詞になるほどの人気リウターイオ(ヴァイオリン職人)だった事がうかがえます。
 もちろん、彼以外にもアマーティ、グァルネリなどのすばらしい製作者がすばらしい楽器を残しましたが、ここではストラディバリに絞って見学をしてきました。
 ストラディバリが亡くなった年ははっきり記録されているのですが、生まれた年は今のところ明らかになっていません。しかし、彼がクレモナで活躍した跡は、街のあちこちに残っています。
 クレモナの中でも一番中世の面影が色濃いガリバルディ通りには、1667年に結婚したフランチェスカと住んだ家が今でも残っています。またその家の番地もまた、彼のために保存されていました。つまりここだけは、番号順に並ぶはずの番地が、ひとつスキップされて飛んでいます。しかし上を見ると、面白いことに2階にストラディバリの家の指定の番地がつけられていたのです。そのかわり通り沿いでは、番地は永久欠番になっているわけです。
 ストラディバリは二度の結婚をしましたが、最初の妻フランチェスカと挙式した教会も、ガリバルディ通りのそばにありました。

フランチェスカとの住居
フランチェスカとの住居
サン・アガタ教会
サン・アガタ教会

 市立博物館の一部は、『ストラディバリアーノ博物館』となっていて、中には彼が製作のために使った道具やメモが展示してありました。しかしそこには彼が製作した楽器は残っていません。ストラディバリアーノがあるのはコムーネ宮で、ここにはストラディバリによる『クレモネーゼ』のほかにも、N.アマーティやデル・ジェズといった、ストラディバリに引けをとらない巨匠たちのヴァイオリンが展示してあります。
 そして、ストラディバリの墓碑というのが、ローマ広場に残っています。しかし、ここではなく、サン・ドメニコ教会というところに、二番目の妻ザンベッリと葬られているという話もあり、彼の生涯には謎が多い事が改めてわかりました。

ストラディバリ墓石
ストラディバリ墓石

・ヴァイオリン職人の街クレモナの現在について

 『ヴァイオリン職人の街クレモナ』は、過去の話ではありません。今も尚、ヴァイオリン職人として自分の工房を持っている方はたくさんいらっしゃいます。また、ヴァイオリン製作を志す方々が、その技をクレモナで磨こうと世界中から集まっています。街には国立の弦楽器製作学校があり、リウターイオの育成を奨励していることもわかりました。
 日本からも、ヴァイオリン製作をクレモナで学ばれている方はたくさんいらっしゃいました。今回、私は松下則幸さんの工房を見学させていただき、さらにヴァイオリン製作の工程について、クレモナの街でヴァイオリン製作をすることについて、クレモナで実際に生活する事についてなど、様々なことを教えていただきました。

松下弦楽器
・ 松下さんの工房  
◎木へのこだわり

『万人に受け入れられる音を目指している』という松下さんは、ヴァイオリンに使われる「木」についてもお話してくださいました。
 ヴァイオリンの本体を構成しているのは、表板、横板、裏板の三種類です。このうち表板は、イタリア産のモミの木を、横板と裏板にはセルビアなどから輸入されるカエデの木を使うことが最適だとおっしゃっていました。『楽器であり、芸術作品であるヴァイオリン』は、その芸術性も求められ、多くの楽器を見比べると、楽器の色や模様もそれぞれ違って、そこには、職人の木へのこだわりがあることを知りました。
 
◎ クレモナとヴァイオリンとヴァイオリン職人

 「なぜクレモナなのか。」それが私の一番の関心でした。ヴァイオリン製作が盛んな街は、ヨーロッパの他の都市にいくつかありますし、日本でもできないことではありません。しかし、どうしてクレモナを目指したのか。
 最も印象的だった松下さんの答えは、「クレモナの色」でした。イタリアの街は、家の壁や屋根の色が法律で規制されていて、街全体が統一されて見えるのが特徴です。クレモナの建物はオレンジ色の屋根で、街は全体的に落ち着いた褐色です。このオレンジが、ヴァイオリン製作において良い影響を与えてくれているそうです。夜も、蛍光灯の光はどこにもなく、夜道を照らす電気も、部屋の中の電気も白熱灯のオレンジ色でした。この色彩感覚の中でヴァイオリンを製作するということが、芸術作品としての楽器を作る上で重要な事だと、松下さんはお話してくださいました。
 クレモナへのこだわりをもう一つ見つけました。それは、「ヴァイオリン製作の街である」という環境そのものについてです。作曲家モンテヴェルディの生まれた街クレモナでは、ストラディバリが暮らした時代よりも前から楽器製作が盛んでした。『音楽があるから楽器を作る。』それは、自然な事だったのかもしれません。そのため、現在でも地元のヴァイオリン職人さんはたくさんいらっしゃいますし、国立弦楽器製作学校があり、街としても若いリウターイオを育成しようとしています。そのような環境の中でヴァイオリンを製作するということは、職人同士でわからないところをたずね合ったり、若い職人は経験のある職人に技を学んだりする事ができるということです。それは、日本では難しいようです。このような環境があるからこそ、世界中からクレモナを目指す人は後を絶たないのだと感じました。

松下さんの工房1
松下さんの工房1
松下さんの工房2
松下さんの工房2


・弦楽器製作学校

 国立の弦楽器製作学校には、先に述べたように世界中から、若い人ばかりではなく、職人を目指す生徒が集まります。
 学校には研究室があり、それぞれの研究室に現在実際に職人として働いている方が先生として、若い力を育てています。しかし、そこはやはり職人ですから、「教える」というよりも、「技を盗む」方式で、リウターイオ育成が行われていました。私は、実際にその研究室の一つを見学させてもらう事ができました。

弦楽器製作学校にてネグローニ先生
ネグローニ先生とヴィオラ・ダ・ガンバ

・モラッシーさんの工房

 クレモナには、もちろん地元イタリアの職人さんもいらっしゃいます。モラッシーさん(Gio Batta Morassi)は、クレモナでも指折りのヴァイオリン職人として世界的に有名な方です。今回の旅行で、幸運にもご本人にお会いする事ができました。ガラス張りで開かれたつくりのモラッシーさんの工房では、長男のシメオネさんもヴァイオリン製作をなさっていました。

モラッシーさんの工房
モラッシーさんの工房

3 研究旅行全体を通して

 今回、ヴァイオリンの街クレモナを9日間かけて歩き回りました。街のどこを歩いても工房があり、そこでは職人さんたちが全身全霊をかけて、芸術品としてのヴァイオリンをつくっていました。また、街には日本のように機械が発するような音や、大きな音量のBGMは流れていませんでした。
 今回の旅のテーマは二つありました。一つ目は「何故クレモナなのか。」これは先ほど述べました。もう一つは、「音楽と街の人の関わり方」です。日本のように、街に余計な音が感じられなかったので、街の人はあまり音楽に興味がないのかなと思っていました。しかし、クレモナで2度のコンサートへ行って、それは誤りだということがわかりました。私が滞在した9日間に、クレモナでは二度のコンサートがありました。一つは古楽器を使った無料コンサート、もう一つは街のコンサートホールで行われるモーツアルトのコンサートへ行きました。どちらのコンサートも会場は多くの観客であふれていました。この二つのコンサートを通して、街の人は自然に音楽と関わっているのだなと感じました。職人は技で音楽活動を支え、そこに生まれた音楽を街全体で大切にしているように感じた街でした。

 最後にクレモナ以外には、ヴェネツィアに触れたいと思います。クレモナが以前ヴェネツィアに支配されていたという歴史的事実を、私はクレモナで知りヴェネツィアでその痕跡を見たのです。

ヴェネツィアのライオン
ヴェネツィアのライオン
クレモナのライオン
クレモナのライオン

 ヴェネツィアのライオン像は有名ですが、あのライオンは、当時のヴェネツィアの勢力の象徴でした。実は、クレモナにもこのライオンがコムーネ宮の壁画に描かれています。しかし、クレモナのライオンは、本を持っていません。
 クレモナは、以前ヴェネツィアに支配されていました。その当時のヴェネツィアの勢力は勢いをとどめる事を知りませんでした。このヴェネツィアからの支配が終わったことは、クレモナにとって大きな喜びだったのでしょう。それを記念して描かれたのが、先ほどの本を持たないライオンだったのです。この喜びを後世に伝えるため、本を持たないライオン像を壁画として残したのでしょう。

 最後になりましたが、わたしがこのように自分の研究に専念でき、普段では見ることのできないようなところを見学する事ができたのは、松下さんご一家のお力があってこそでした。この9日間でクレモナの隅から隅まで歩く事ができ、ヴァイオリン製作のことやクレモナでの生活について、たくさん教えていただきました。この場を借りてお礼申し上げたいと思います。ほんとうにありがとうございました。
 今回の研究旅行は、卒論の準備のひとつでもありましたので、クレモナへ行くまえに、大阪音楽大学で資料収集をさせていただきました。図書室でクレモナに関する邦書と洋書の文献を読ませていただき、また展示楽器の撮影も特別に許可していただきました。ここに大阪音楽大学さんのお名前を載せて、感謝の気持ちを表したいと思います。ご協力いただきありがとうございました。

ポー川からみたクレモナの景色
ポー川からみたクレモナの景色



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