ベルギー・アントワープの服飾文化

2004年度アメリカ文化コースA選考者報告


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FASION TRIP to ANTWERP

 ベルギーのアントワープはヨーロッパ第2の港街である。世界最大級のダイヤモンド街を有し、ベルギーの商業の中心であるのと同時に多くの美術館(右図 現代美術館 MuHKA)が存在する芸術の街でもある。このような特徴のある街で私が最も注目するのは、今回の研究テーマであるモード(ファッション)の発信地としてのアントワープである。アントワープのモードシーンをサポートし、その魅力を高め、世界の舞台へと導いているものとは何なのだろうか。

モードナシー側面  私はアントワープでの研究拠点をモードナシー(Modenatie)に置いた。モードナシーは、アントワープの中心街ドゥルケライストラートとナショナルストラートの角にあるファッションの殿堂であり、2001年に開設された。真っ白な外壁はシンプルで装飾が施されていない。にもかかわらずそれが私にとってとても印象的なのは、待ちに待って訪れることのできた特別な場所であるからだろう(左図)。
 真っ白な外観とは対照的に内側は素材の木の色で落ち着いた雰囲気である(右下図)。この建物は20世紀の建物を改装して造られた。フランダース・ファッション・インスティテュート、モード・ミュージアム(MoMu)、図書館、アントワープ王立芸術アカデミーファッション科から成り、その他、展示室や書店、カフェが入っている。2002年に開館した新しいものだが、保管してある衣装や布地の中には17世紀のものもある。

モードナシー内部  まず、モードナシーの図書館でアントワープのファッションについて調べることにした。モノトーンとシルバーで統一された閲覧室には世界中のファッション専門書、ファッション専門誌がインテリアの一部であるかのように並べられている。訪れる4ヶ月前からこの図書館とコンタクトを取っており、最初に調べたいことの概要を説明しておいた。実際に行ってみると既に私に必要な資料が用意されており、さらに調べたいことや、足りない資料があれば遠慮なくおっしゃってください。という非常に温かい歓迎を受けた。

 本当は私が訪れた一日目というのは、図書館は閉館だったのにもかかわらず、わざわざ私のために開けてくださった。私が利用した資料は二種類で、アントワープファッションに関する専門書と、図書館の職員の方が世界の新聞、ファッション専門誌からアントワープファッションの記事をスクラップしたものである。スクラップされている記事は700枚ほど記事が入った箱が6つもあり、その多さに驚かされた。世界のアントワープファッションへの注目度の高さが資料の多さに現れている。二日目は開館日であったため、アントワープ王立芸術アカデミーファッション科の学生と共に調査することになった。学生の中には、デッサンをする人もいれば民族衣装の専門書を読む人、日本の祭りの写真集を見る人もいた。学生は世界中から集まるので、英語で会話をしていた。授業も英語で行われるそうだ。

(図 モードナシー1階 約3m×4mの大きなパネル、モードナシー付近にあるお店)
モードナシー1階 約3m×4mの大きなパネル モードナシー付近にあるお店
 図書館の保管室にはおよそ3万冊の蔵書があり、そこへは図書館の職員しか入れない。一度学生へ資料を渡した後も、職員の方が何度も本当にその資料でよいのか、他の資料が必要ないかと気を配る姿が印象的であった。このような職員の方の協力や理解がファッション課の学生の厳しいデザイナーへの道を支えているのだろう。

アントワープ王立芸術アカデミーの学生  ベルギーでは昔から服作りが行われてきたが、ベルギー独自の服作りは最近成長したといえる。1960年代まではパリからデザインが持ち込まれており、そこから洋裁業は大きくなっていった。しかし、1970年代の既製服の波にのまれてしまう(The Bulletin, October 24th ,2002)。そのような過去を経て、アントワープのファッション、また街自体が世界的に注目され始めたきっかけは、アントワープ王立芸術アカデミーファッション科卒の生徒六人が1980年代に活躍したことによる。

 アントワープ王立芸術アカデミーファッション科(右図)は、今なお有名なデザイナーを輩出している。アントワープ王立芸術アカデミーは1663年にデイビット・テニアーズによって創立され、ファッション科は1964年にメリー・プライオットによって創設された。ファッション科のコース内容はメリー・プライオットが退き、リンダ・ロッパが主任を引き継いでからも変わっていない。1年生から4年生までのカリキュラムの一部はこうだ。
 1年生:ファッション史の学習、キャラコを使った創作。
 2年生:歴史上から服装を選び、自分独自の作品の創作。
 3年生:二年生より大きな規模の民族衣装をテーマとした創作。
 4年生:テーマは自由、12着のコレクションの創作。
 その他、トレンドブック、ディスプレーフォルダの作成、ファッション産業について現場から講師を招いての講義、グラフィックの学習などがある。講師も勤める主任のリンダ・ロッパは、「生徒は忙しさを嘆く暇さえない」(Agenda Brussel deze week, No.855)と言う。図書館で話をして和気あいあいと勉強していたあの学生たちは過酷なカリキュラムをこなす精鋭である。

(図 モードナシー1階 展示室)
モードナシー1階 展示室  ファッション科が最も重視しているのは、創造力を養うことで、それを通じて自分自身を発見することだ。生徒は作品を発表するための製造業者を見つけなければならず、服飾デザインだけすればいいというわけではない。生徒は服が生まれるまでに必要なステップを、自分の力で最後までやり遂げなければならないのだ。そして毎年六月に行われるファッション科の生徒によるファッションショーでは、生徒は音楽から照明に至るまで全て自分で演出する。こうした徹底した「自分」にしかできないものへのこだわりと、学内に留まらず、ファッション業界へのつながりを持つことで、彼らには卒業までにプロとして活動ができる力が備わってゆくのであろう。

 アントワープ・ファッションの母と呼ばれるリンダ・ロッパは1948年6月26日にアントワープに生まれ、現在、モードミュージアム館長、フランダース・ファッション・インスティチュートの一員であり、アントワープ王立芸術アカデミーファッション科の主任を務めている。1993年にアントワープがヨーロッパの文化推奨都市に指定された年、リンダ・ロッパはアントワープで行われたファッション科の卒業生のエキシビションに3万人を呼び込んだ。また、1997年にフランダース・ファッション・インスティチュートが設立された時、フランダース文化大使に任命された(Agenda Brussel deze week No.855)。自らもファッション科の生徒であったリンダ・ロッパは、このように、ファッション科のみならずアントワープとアントワープ周辺地域の文化交流に力を注いでいる。リンダ・ロッパはアントワープと世界の掛橋になったというより、自分が経営する洋服店で培った経営力・行動力を発揮して自ら働いて社会に貢献している。

(図 アントワープのデザイナーのお店とノートルダム大聖堂)
アントワープのデザイナーのお店(中央)とノートルダム大聖堂(中央左奥)  アントワープが世界に名の知れるファッション都市になったのは、ファッション科の優れたデザイナーとリンダ・ロッパの力だけによるものではない。ベルギーでは1981年1月1日から1993年3月までベルギー政府によってテキスタイル・プランが施行された。このプランは同時に立ち上げられた非営利組織ITCB(Institute for Textiles and Clothing in Belgium)によって細かい運営が行われた。テキスタイルプランとは、布地産業をサポートし、国の大切な産業分野の雇用を増やすというものである。このプランによって布地業者は事業や雇用体制を近代化した。この結果、アントワープのみならずベルギーのファッション産業に更なる熱意が生まれ、前衛デザイナーたちの創作意欲に拍車をかけた(Weekend, Nack, 2002)。

 1980年代にリンダ・ロッパの指導の下、ファッション科を卒業し世界的に有名になったデザイナーはこのプランにうまく乗り合わせたのだ。ITCBはその他、1982年デザイナーと布地産業を融合させるためのコンテストを始め、1983年にFashion its Belgianを創刊、1988年には若いアントワープ・デザイナーのためのBAMという本を創刊した。このように、アントワープ・ファッションを探ってゆくと、デザイナー(生徒)と指導者とファッション産業の力が運命的と言えるほどのタイミングで連携していることがわかる。

(図 モードナシー正面)
モードナシー正面からの外観  私が訪れたとき、モード・ミュージアムでは「Beyond Desire」という展示が行われていた。この展示は、アフリカに対する一般的な観念と西洋を拡大したヨーロッパとの間に生まれた対立に焦点を当てることから始まり、衣服やアクセサリーに対する態度や考えは社会や政治や開発における失敗の埋め合わせとしてどのように機能するのか、ファッションは社会関係、地方の習慣、民族を越えた交流の場となりうるのか、というテーマのもとに行われていた。

 展示物の圧巻は、豹柄の服を着た約20体のマネキンが縦横8メートル、高さ6メートルのピラミッド型に配置された空間であった。黒幕で覆われた空間でそれぞれ違うポーズをとり、豹柄の美しい服をまとったマネキンは、今にも動き出しそうで、少し怖いとさえ感じた。約20着の服は1960年から2000年までの豹柄プリントの素材を使った作品である。最近の作品だけではなく、古い作品も同じ空間に展示することで、アフリカという題材が単に流行のモチーフとなるのではなく、今も昔もアフリカには創作意欲をかきたてられる魅力がある、ということが示されているのだ、と私は解釈した。その他、アフリカがもし世界の中心だったらというテーマを、政治・経済面の変化を中心に考えるのではなく、服装の変化に注目した写真で示す試みが興味深かった。アフリカ人系モデルが「アメリカへ食料支援を決定」と書いてある新聞を読む姿や、クラブで踊る姿を写真にしていた。先ほど述べた展示室や、民族衣装をモチーフにした作品、アフリカ独自のプリントがなされた布地などが展示されてきた後に、一変してアメリカを連想させる衣装を着たアフリカ人系モデルの写真が現れることで、とてもインパクトがあった。この写真が意図することは、アメリカ中心社会の風刺と、自分の民族服の魅力を見失っている人への警告ではないだろうか。

(図 左右とも アントワープ駅中央コンコース、FASHION TRIP の垂れ幕とレイルウェイ・カテドラル)
アントワープ駅中央コンコース1 アントワープ駅中央コンコース2
ウェディングドレス  このエキシビションには幅広い年齢層の人が訪れていた。小学生くらいの子供たちが、先生と一緒にクリスチャン・ディオールの作品と、ファッションショーが映し出されるモニターの前に座ってディスカッションをする姿が印象的であった。子供たちは、赤い画用紙とはさみを持ち、感じたことを形にしている様子だった。ミュージアム内には3人ほど解説員がいて、大人が熱心に解説を聞きながら見て回っていた。

 アントワープにはファッションの街というだけあって、たくさんのショップが立ち並ぶ。中世からある建物の一階部分がショップになっている場合がほとんどで、ウィンドウがとても工夫されているため、出勤前後の人々が開店前、閉店後のウィンドウ(左図 ウェディングドレス)に足を止めてウィンドウ・ウォッチングをする姿をよく見かけた。

 現代の日本では、ファッション産業が一方的におしつけてくるイメージに支配されて、私たちは流行を追わなければならない。しかしアントワープにいると、そうしたファッションのネガティブな面は少しも感じられない。ここでは中世の街並みにファッションが自然に溶け込み、そこに生活する人々の時間感覚と、変化してゆくファッションの流れとが、文化的に共存し調和している。私はそのような印象を受けたのである。アントワープへ行けば、ファッションの街と知らなくてもこの街に根付いたファッション文化の魅力に引き込まれるだろう。

 最後になりましたが、国際文化学科の先生方、そして研究旅行を行うにあたってお世話になった方々に感謝いたします。これからもこの制度が受け継がれ、たくさんの方が素晴らしい経験をされることを期待しています。



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