万博とパリ都市空間の変貌

2003年度フランス文化コース選考者報告


序 パリ万博 Expositions Universelles de Paris

 この研究を始めたきっかけは、大学2年の春休みにパリを初めて訪れたときに、日本の都市とは全く異なるパリの都市空間に驚き、感動し、魅せられてしまったことである。同時に、なぜパリはこんなに世界中の人々が憧れる地になったのか、という疑問を持った。そして、比較文化論(後藤先生の『奇想の20世紀』)の講義で取り上げられていたパリ万国博覧会が、自分の疑問に対する答えと関係するのではないかと考えたのが始まりである。

 パリでは1855年、1867年、1878年、1889年、1900年、1937年と19世紀の半ばから20世紀の初頭までに6度の万国博覧会が開催された。万博の会場となったのは主に、エッフェル塔のあるシャン・ド・マルスやトロカデロ、アンヴァリッドにいたるまでのセーヌ河河岸地区である。自国の産業発展を目的とした内国博覧会に端を発したパリ万博は、回を重ねるごとに大きくなり、国際色豊かで華やかなイベントになっていった。そしてこの時期にパリは大きく生まれ変わった。ナポレオン三世(Napoléon・ 位1852〜70)の第二帝政下で行われた大規模な都市改造計画、産業の発展、さまざまな芸術運動…今回の研究旅行では、万博向けに建てられた建造物や、同時代の建造物の姿を見て、現在どのように利用されているかを調べることが目的であった。

1 19世紀のパリ

(1) 時代背景

 19世紀のパリは、中世以来の無秩序な都市空間のなか、急速な工業化にともない、職を求め住みつく人々の増加、不衛生な環境に悩まされていた。これに対して、皇帝ナポレオン三世は大規模な都市計画を打ち出す。この都市改造の中心的な役割を果たしたのはセーヌ県知事のジョルジュ=ウージェーヌ・オスマン(Georges Eugène Haussmann 1809〜1891)である。結果、パリは近代都市に生まれ変わり、現在のパリの概観ができあがった。 

(2) 道路と建物の高さ

 凱旋門のある円形のエトワール広場からは、放射状に12本の道路が伸びている。凱旋門の展望台から360度見渡すと、完璧な直線で幅広い街路(特に歩道が広い!)に驚く。ここもオスマンの都市計画によって整備された広場である。
 周辺の建物の高さはピッタリそろっている。屋根は平面状に果てしなく広がっているので、はるか向こうは地平線のようだった。オスマン様式と呼ばれる住宅は6階建てで、1階は店舗、3階と5階には鉄格子のバルコニーを配している。建物の幅、色などの建物に対するこのような細かな規制が、パリに秩序を与え、統一感のある街並みを実現させている。
 下の各写真は、凱旋門に通じるクレーベル通り(Avenue kléber)、凱旋門から眺めるフォッシュ通り(Avenue Foch)グランド・アルメ通り(Avenue de la Grande Armée)マクマオン通り(Avenue Mac-Mahon)ワグラム通り(Avenue de Wagram)シャンゼリゼ通り(Avenue des Champs-Elysees)イエナ通り(Avenue d'Iena)オッシュ通り(Avenue de Hôche)フリードランド通り(Avenue de Friedland)を示す。


凱旋門へ クレーベル通り
凱旋門へ クレーベル通り
フォッシュ通り(左)とグランド・アルメ通り
フォッシュ通り(左) とG.アルメ通り

マクマオン通り(左)とワグラム通り
マクマオン通り(左)とワグラム通り
シャンゼリゼ通り
シャンゼリゼ通り

イエナ通り(左)とクレーベル通り
イエナ通り(左)とクレーベル通り
オッシュ通り(左)とフリードランド通り
オッシュ通り(左)とフリードランド通り


2 1889年万博

(1) エッフェル塔 La Tour Eiffel

 パリといえば、エッフェル塔。ガイドブックにも、絵葉書にも…私たちはパリを想うとき、必ずエッフェル塔を思い浮かべるのではないだろうか。この鉄骨の塔はパリのいろいろな場所から見ることができる。1889年万博に向けたコンペでギュウスターヴ・エッフェル(Gustave Eiffel 1832〜1923)の作品が選ばれた当初は、モーパッサン初め、多くの文化人の反対にもあった。しかし、300mを越す鉄の塔は、20世紀に入るとその美しさを認められ、徐々に芸術家たちから賞賛されるようになり、現在は無くてはならないパリのシンボルである。

 遠くからは、やたら巨大な赤茶けた塔という印象だが、近づいてみると意外に繊細な装飾や、アーチの美しさに気づく。真下から見上げ、百年前によくもこんな大きなものが造れたものだと、つくづく感心した。


エッフェル塔
エッフェル塔
エッフェル塔の装飾が美しかった
エッフェル塔の装飾が美しかった

 エッフェル塔下にはやはり観光客が大勢いた。高い所は嫌いだったが、研究に来たのだから登らないと!と自分に言い聞かせ、塔に登った。しかし不思議なことに最上階まで上がると、パリの街並みの美しさに見とれて高さが気にならなくなった。

 エッフェル塔から見たパリはまるで地図だ。この日は運よく快晴だったので、遠くまで見渡せた。展望台からは、建物の高さが見事に統一され、その間を縫うように大きな街路がまっすぐに伸びているのが、凱旋門から見たときよりもさらにハッキリとわかる。そして、有名で大きな建造物(美術館やオペラ座や教会など)が目印となって方角を確認することができた。万博にやってきたパリの人、または地方からやってきたフランス国民、外国の人々はここに登って、パリの美しさ、徹底した都市計画をやってのけ、こんな巨大な塔を造ってしまったフランスの国力を目の当たりにしたことだろう。

 夜のエッフェル塔はさらに美しい。2003年以来、日が暮れてから深夜2時までの毎時ゼロ分から10分間、塔に取り付けられた約2万個のランプが点滅をする。私は午前0時にこの点滅を見た。エッフェル塔はまるで宝石のように輝きつづけていた。


夜のエッフェル塔(シャン・ド・マルス側から)
夜のエッフェル塔
点滅しているエッフェル塔
点滅しているエッフェル塔


3 1900年万博

(1) グラン・パレ Le Grand Palais

 グラン・パレはプチ・パレとともに1897年から1900年までの間に建設され、1900年万博では、4500点の絵画と500点の彫刻の展示に利用された建物である。


グラン・パレ
グラン・パレ
グラン・パレ内部
グラン・パレ内部

 入口の吹き抜けのホールは、モザイク模様の床が美しい。フランクリン・ルーズベルト通り側は1937年以降、「発見の殿堂(palais de la découvert)」と呼ばれる科学博物館になっている。外から見ると本当に古い建物なのに、中にあるのは最新の科学技術を紹介する博物館で、入ったときは不思議な感覚を覚えた。

 ここでは自然科学から化学、宇宙、数学、まで各種展示方法に工夫が凝らしてあって(見て、聞いて、触って、におえた)、理系に弱い私でも楽しく見て回れた。常設展のほかに展覧会も行っていて、「眠り」(赤ん坊から老人までの眠りの違いや、動物の眠り、時差ボケなど)の展示、「漫画の中の科学者たち」(鉄腕アトムの博士もいた)、「タヒチの自然」(自然と環境問題について)の展示があっていた。日曜だったこともあり親子連れが多く、父親が子どもにむかって熱心に説明する姿を多く見かけた。


工事中のプチ・パレ
工事中のプチ・パレ
アンヴァリッド側/グラン・パレ(左)とプチ・パレ
グラン・パレ(左)とプチ・パレ


(2) アレクサンドル三世橋 Le Pont Alexandre・

 アレクサンドル三世橋はパリで一番壮麗な橋だと言われている。この橋が架けられたのは、プチ・パレ、グラン・パレと同じく、1900年万博のときである。万博は、1855,1867,1878,1889年と、アンヴァリッド付近のセーヌ両岸を会場に開催された。1900年万博を前に、両岸の各国のパビリオン間を行き来しやすいよう、新たに橋をかける提案がなされ、その結果、アンヴァリッドのある左岸とプチ・パレ、グラン・パレのある右岸を結ぶアレクサンドル三世橋が架けられたのだ。アンヴァリッド側から橋を渡るときには、左手にグラン・パレ、右手にプチ・パレが見える。

 私はここを何度か訪れた。最初は曇りの日で、橋の姿が幻想的に見えた。端にある四つの塔は近づいてみると本当に大きい(高さ20m)。塔の上にある、四つの金色の彫像はそれぞれ、万博の理念(科学、芸術、商業、産業)を表している。橋は幅の広さ(40m)もパリ1番である。しかし何といっても、アレクサンドル三世橋の魅力は装飾である。橋の側面に施された唐草模様の装飾や、欄干の上に並ぶ28の街灯も美しく、ため息が出てしまう。


アレクサンドル三世橋
アレクサンドル三世橋
先に見えるのはアンヴァリッド
先に見えるのはアンヴァリッド


(3) オルセー美術館 Le Musée d'Orsay

 オルセー美術館は平日にもかかわらず、観光客でいっぱいだった。オルセーでは、印象派を中心とした19世紀の美術作品を展示しているが、もとは1900年の万国博覧会にむけて、オルレアン鉄道が建てた駅舎であった。鉄骨の駅の建設が決まったとき、反対の声があったため、駅は今のような壮大な石の外観に仕上げられる必要があった。駅構内にはホテルもあった。廃線になった後に、ここを美術館に改装することを決定したのはヴァレリ・ジスカール・デスタン大統領である。1986年、オルセー駅は美術館に生まれ変わった。線路が走っていたところも、現在展示スペースになっている。


オルセー美術館
オルセー美術館
セーヌ河とオルセー美術館
セーヌ河とオルセー美術館

 オルセーでは、アールヌーヴォー様式の工芸品、家具やオペラ座関係資料、パリ19世紀の都市計画資料を中心に見て回った。

 アールヌーヴォーは1900年の万博を機に流行した様式で、有機的な曲線、自然や動物のモチーフなどが特徴である。アールヌーヴォー作家エミール・ガレ(Emile Gallé 1846〜1904)のガラス工芸は植物をモチーフにしたものが多く、その色や形は花や草木の持つ生命感を感じさせる。展示室に日の光が入り込んでいたので、なおさら色が鮮明で美しかった。オルセーに展示されているガレの作品、家具のなかには、万国博覧会に出品されたものもあった。

 また、オルセー美術館にあるオペラ座コーナーでは、ガラス状の床の下にオペラ座地区の縮小模型があり、空中散歩気分が味わえる。その横にはオペラ座の縦割り模型もあるので建物全体の内部構造もよくわかる。


アールヌーヴォー様式の家具(オルセー美術館)
アールヌーヴォー様式の家具(オルセー美術館)
万博に出品されたアールヌーヴォーの工芸品
万博に出品されたアールヌーヴォーの工芸品


4 19世紀の建造物

(1) オペラ・ガルニエ L'Opéra Garnier (1860 〜1875 建設)

 緑青色のドームが印象的なオペラ座は、まっすぐに伸びたオペラ通りの先端に位置する。現在はバレエ公演専用の劇場である。

 オペラ座を設計した建築家のシャルル・ガルニエ(Charles Garnier 1825〜1898)は、この建築様式を『ナポレオン三世様式』と呼んだ。当時の都市計画の特色を持つ、統一感のある建物とは全く違う独特の様式だからだ。建物の外観には曲線と多色の装飾が用いられ、大変にぎやかで華やかな雰囲気に包まれている。


オペラ・ガルニエ
オペラ・ガルニエ
オペラ・ガルニエ内部
オペラ・ガルニエ内部

 オペラ座は正面も大変豪華で驚いてしまうのだが、中に入ってさらに驚く。金のモザイク天井画や大きなシャンデリアのある大休憩室は、幕間にブルジョワたちが集まる社交の場だった。長さは50m。まるで宮殿のようであった。オペラ座内には大休憩室のほかに、幅が10mもある大階段のような公共スペースが相当な面積を占めている。

 場内には19世紀に好まれていたという黒と赤の客席の椅子、シャガール晩年の天井画。客席自体は思っていたよりも狭い印象だったが、それでも当時は一番大きなオペラ座だったという。確かに百年前なら頷ける。ステージではすでに夜の公演の舞台設営が始まっていた。ガイド・ツアーにも参加した。まわりはフランス人観光客。私が一生懸命ガイドの言葉をメモしていると、不思議そうに覗き込まれた。フランス語の説明は何割かしかわからなかったが、ひとりで見て回るより勉強になった。ナポレオン三世専用の座席や、建築家ガルニエについて、大階段に使われている大理石はどこから運ばれてきたか…などなど。貴重な体験だった。


オペラ座・大階段
オペラ座・大階段
シャガールの天井画
シャガールの天井画


(2) 鉄とガラスの建造物―デパート・パッサージュ

 エッフェル塔が同時代の人々に嫌われたのには、そのむき出しの鉄の骨組みにも原因がある。そもそも鉄という建築材は当時としてはまだ新しいもので、1851年のロンドン万国博覧会のパビリオンの水晶宮に使われたのが始まりであると言われている。それ以後、水晶宮に代表されるような鉄とガラスの建物はパリでも流行し、特に駅舎や、この頃創業したデパート、パッサージュに多く見られる。

デパート
 有名デパートのプランタン Magasin de Printemps、ギャラリー・ラファイエットGalerie Lafayetteは美しいガラスの天井を持っている。ラファイエットの方は売り場の中央が吹き抜けになっているので、買い物客たちも買い物をしながら、ついつい贅沢な建物のつくりに見とれていた。消費の殿堂にふさわしい、きらめく夢の世界の店内で客はショッピングを楽しむことができる。
 一方プランタンは、1881年に火災にあったが、現在のアール・ヌーヴォー様式のガラス天井は1923年に建設されたものである。この屋根の真下はレストランが占領している。こんなところで食事をしたら、幸せに浸れるだろうなと想像しながら、店員に断って写真を撮らせてもらった。あまりの豪華さに写真を何枚も撮ってしまった。

ギャラリー・ラファイエット
ギャラリー・ラファイエット
ギャラリー・ラファイエット 天井
ギャラリー・ラファイエット 天井

ギャラリー・ラファイエット 中は吹き抜け
中は吹き抜け
ギャラリー・ラファイエット 中は吹き抜け
中は吹き抜け

パッサージュ
 オペラ座付近のパッサージュに入ったとたん、周りの喧騒は嘘のように聞こえなくなる。別の時間が流れているようだ。
 パッサージュ(Passage couvertと呼ばれる)は、19世紀のはじめ、新興ブルジョワジーが急成長した時期に次々とつくられた。パリ最古のものは1800年のパッサージュ・デ・パノラマだ。有名なギャラリー・ヴィヴィエンヌ(Galerie Vivienne)は1824〜26 に建造され、パッサージュ・ジュフロワ(passage Jouffroy)は、1847年にオープンされた。パッサージュでは、雨の日でも天気を気にせずに買い物ができる。
 パッサージュの長さは、写真で見て想像していたよりもずっと短かった。パリには今でもいくつかパッサージュが残っているが、ひとつひとつは、床の模様、壁の装飾、屋根のガラスの形、入っている店の種類などが違うので、雰囲気も庶民的なのもあれば、高級感漂うところもあった。カフェやレストラン、掘り出し物のありそうな古本屋、靴屋、かばん屋、パティスリーとパッサージュ内にある店もさまざま。ガラス屋根からの穏やかな日の光はパッサージュの中を明るくする。家族連れがおもちゃ屋のショーウインドウをのぞいたり、普段着のおじさんが古本屋をのぞいたりと、人々に親しまれている温かな雰囲気だ。パッサージュ内にあった古いポストカード屋さんで、万博当時のグラン・パレのポストカードを見つけ、購入した。裏には宛名が書かれている。いったいどんな人が、どんな想いで筆を取ったのだろうと考えると、100年後に日本人の私が手にした偶然に一人で感動してしまった。


ギャラリー・ヴィヴィエンヌ
ギャラリー・ヴィヴィエンヌ
パッサージュ・ジュフロワ
パッサージュ・ジェフロワ

パリ最古のパッサージュ・デ・パノラマ1800年
パッサージュ・デ・パノラマ
パリ最古のパッサージュ・デ・パノラマ1800年
パッサージュ・デ・パノラマ

おもちゃ屋の並ぶパッサージュ
おもちゃ屋の並ぶパッサージュ
サンラザ−ル駅構内
サンラザ−ル駅構内


(3) 16区のアールヌーヴォー建築

 パリの16区は高級住宅地で有名な地区であり、アールヌーヴォー様式のアパートメントが今でも残る地区でもある。アールヌーヴォー建築は周りの建物とは見た目の古さが明らかに違い、すぐに見つけることができた。静かな住宅地に突然現れる、波打つようなアールヌーヴォーのアパートメントは、周りの建物と調和しているとはとても言えない。扉やバルコニーの装飾、壁の面に曲線が多用されている。特にラ・フォンテーヌ通り(Rue La Fontaine)のへクトール・ギマール(Hector Guimard 1867〜1942)設計による集合住宅、カステルベランジェ(Castel Béranger 1894〜98)の入り口のドアの装飾は左右対照でなく、うねうねと幹が伸びたような動きをしていた。いかにもアールヌーヴォー!今でも人が住んでいて、住民が出入りしていた。家賃はいったいどれくらいかと、いらぬ心配をしてしまう。裏に回ってみると、不気味な怪物?の彫刻が壁にくっついていたのでますます驚いた。この建物に住んでいて具合の悪くなった人もいるという。少し納得した。


アガール通り Rue AGAR にある<BR> ギマール設計のアパートメント
アガール通り Rue AGAR にある
ギマール設計のアパートメント
アガール通り Rue AGAR にある<BR> ギマール設計のアパートメント
アガール通り Rue AGAR にある
ギマール設計のアパートメント

カステル・ベランジェ 入り口
カステル・ベランジェ 入り口
彫刻家カルポーのアトリエ
彫刻家カルポーのアトリエ


5 1937年万博

(1) シャイヨー宮 Le Palais de Chaillot

 セーヌ川をはさんだエッフェル塔の正面、トロカデロの丘にあるシャイヨー宮(Le Palais de Chaillot)は1937年の万博のときに建てられた。1878年の万博の際には、ここにトロカデロ宮が建てられていたが、あまり評判がよくなく、取り壊されて代わりにシャイヨー宮が建設された。

 シャイヨー宮のテラスは大勢の観光客でにぎわっていた。というのも、ここはエッフェル塔の正面に位置するため、エッフェル塔を見るにはピッタリの場所だからだ。テラスの下には、国立シャイヨー劇場 Théatre National De Chaillot が入っている。そしてシャイヨー宮の左右対照に広がった両翼棟も現在、文化施設として利用されている。東翼棟には、フランスの歴史的建築物の彫刻・壁画などを模型展示するフランス文化財博物館 Musée National Des Monuments Français(現在閉鎖中)、Cinémathèque シネマテークが入っている。

 私が訪れたのは西翼棟の(西翼棟には海洋博物館もあるが、)人類博物館 Le Musée de l'Homme である。残念ながら、人類学・民族学・考古学に関するコレクションのほとんどが閉まっていたが、代わりに三つ展覧会があっていた。ひとつは、ベルギーの漫画家Edogar.P.Jacobの原画や生涯を紹介した展示。二つ目は、人間の命(妊娠・出産)や世界の人口についての展示である。館内で観光客はほとんど見かけなかったかわりに、夫婦、親子連れ、中学生たちを見かけた。

 そのほかにも、ボランティア団体の展示があっていた。Une-expo manifeste;Pauvre de nous というタイトルの展示で、不安定な状態にある人間(ホームレスや失業者、障害を持った人など)を理解し、行動しよう、と呼びかける展示だ。人類博物館でボランティア団体が展示という方法を使って呼びかけをするとは、なるほど !という感じだった。主張内容はもちろん、映像、人々の手書きメッセージと写真、ポスター、オブジェ(古着を使って貧しさを表現 ?)など、展示作品自体も本格的で興味深かった。


シャイヨー宮(エッフェル塔より)
エッフェル塔より
シャイヨー宮正面
シャイヨー宮正面


(2) 市立近代美術館 Le Musée d'Art Moderne de la Ville と
パレ・ド・トーキョー Le Palais de Tokyo

 1937年の万国博覧会のために建てられたパレ・ド・トーキョー内には、現在二つの美術館が入っている。東翼棟のパリ市立近代美術館は、フォーヴィスム、エコール・ド・パリ、シュールレアリスム等々、20世紀の美術作品を所蔵している美術館である。しかしながら、現在は改装に伴い閉鎖されており、作品はパリ市役所などで展示されている。


パレ・ド・トーキョー(左)とパリ市立近代美術館
パレ・ド・トーキョー(左)とパリ市立近代美術館
市立近代美術館入口(左)とパレ・ド・トーキョー入口
近代美術館入口(左)とパレ・ド・トーキョー入口

 西翼棟にある現代美術館、パレ・ド・トーキョーLe Palais de Tokyoは2002年に開館した。名前が東京でも日本美術を取り扱うわけではなく、ここは新進作家の絵画から音楽、映像、モードまでを展示する4000・の空間を持つ美術館である。開館時間は正午から深夜0時と、ちょっと変わっている。ミュージアムショップも個性的で、現代アートやモード系の雑誌、洋服、日本のフィギュア、日本の缶チュウハイまで(高値で!)置いてあった。カフェも斬新だ。以前にパレ・ド・トーキョーで展覧会を行った台湾のアーティスト、Michael Lin の花柄モチーフを床にそのまま残して使っている。見に来ていた人も観光客というより、学生や地元の人のようだった。

 館内には壁が少なく広々としていて、同じ空間に何人もの作品が一緒に展示されている。中央部の天井はガラスになっていて、光が入ってくるので明るい展示室だった。

 パレ・ド・トーキョーでは、館内のところどころにいるメディアトゥール(Médiateur)と呼ばれる係りの人とアートについて語ることもできる。(私が行ったときは、ちょうどメディアトゥールが団体客に説明をしているところだった。)パレ・ド・トーキョーは作品と客の距離感の近い現代美術館だという印象を持った。


パレ・ド・トーキョー内部
パレ・ド・トーキョー内部
パレ・ド・トーキョー裏の庭
パレ・ド・トーキョー裏の庭


6 現代都市

(1) ラ・デファンス La Défense

 パリ市の隣にあるラ・デファンス地区は、有名企業が入った現代的なビルの建ち並ぶオフィス街である(現在60棟ほど)。地名は普仏戦争のパリ防衛(La Défense de Paris)記念彫刻に由来する。オフィス街の土曜日は、路上のカフェやレストランがほとんど閉まって、閑散としていた。特にこの地区には車がなく、道路は地下を通っているため、外もとても静かである。しかし新凱旋門に隣接する大型商業施設には、週末でも若者を中心とした大勢の客がやってきていた。

 ラ・デファンスのビル群はひとつひとつがとても個性的で、それが集合して近未来的な空間を作り上げている。まっすぐに伸びる通りの左右には高層ビル、そして一番西の端には、デンマーク人の建築家ヨハン・オットー・フォン・スプレケルセン設計の新凱旋門(Grande Arche 1989)が建っている。新凱旋門は大理石、花崗岩、ガラスでできた一辺110mの正方形をしており、階段を登るとはるか向こうにパリの凱旋門が見え、逆を見ると郊外の風景が広がる。絵に描いたような歴史の街並みのパリと、殺風景な郊外の光景のギャップがすごい。パリとほかの街の間には明らかに境界があると感じた。

 また、整備された美しい遊歩道や庭園の他に、デファンスのいたるところにパブリックアートが設置されている。ミロの色鮮やかな彫刻作品から日本人の現代アートまでアーティストの国籍もさまざまだ。オフィス街にこれだけのアートを設けられる余裕に感心し、毎日アートとともに働いていると感性が磨かれるに違いないと考えた。パリの都市計画もすごいが、現代都市デファンスもよく計算された地区である。

 デファンスに来てみると、また違った面からパリを見ることができる。ここからパリを遠めに見ても、やはり、パリの持つエネルギーに引き付けられるような気がした。


新凱旋門
新凱旋門


7 まとめ

 万博会場として使われていた地区は、今でも観光の中心地であり、世界各地から来た観光客でにぎわっている。万博の生んだ遺産はパリの原風景になっている。地図で見て想像していたよりもずっと、会場の敷地は広く、端から端まで徒歩で移動するにはかなりの時間が必要だった。また、建物の大きさ・道路・橋の幅などの規模の大きさに驚いてしまう瞬間が何度もあった。やはり、実際に現地に赴いて歩いてみなくては、大きさや距離感はわからないものだと改めて実感した。

 万博関係の建物のほとんどは今でも文化施設に利用されており、伝統文化、新しい文化を伝え続けていた。グランパレ・プチパレ・市立近代美術館・シャイヨー宮など、訪れた場所のほとんどが改修工事中だったのに驚いたが、これは保存に気を遣っていることの証拠だろう。(例えば、ノートルダム寺院、凱旋門、オペラ座内など他の重要文化財の多くでも改修工事が行われていた。)

 これらの建物の用途は、当時と同じというわけでもなかった。特に、パレ・ド・トーキョーやグラン・パレの発見の殿堂のように、古い器の中に新しいものを入れるというやり方は、パリによく見られるパターンではないだろうか。古いものをきちんと残しつつも、時代の変化を受け入れている街だからこそ、パリの魅力は尽きないのだと思う。

8 旅先の生活

 パリ13泊の旅。宿泊場所としては、あらかじめホームステイ先を探していた。といっても、最初の10日間はホストファミリーが旅行に出かけており、全くの一人暮らし状態!今度が二度目のパリ訪問だったが、初の海外一人旅であり、パリで生活するのも初めてだったため、初めて来たときとはまた違ったパリの一面を見ることができた。

毎朝人々が出勤するのと一緒にメトロに乗り込み、調査へ出かけ、夕方は仕事を終えた人々と一緒に家に向かう生活。初めのころ、歩きすぎで夕方には引きずっていた足も、日が経つにつれ強くなり、疲れ知らずになっていった!
 パリは観光客で溢れていた。どこへ行っても、日本人の姿をよく見かける。メトロで人々の話に耳を傾けると、言葉はフランス語にスペイン語、イタリア語、ドイツ語、中国語、どこの言葉かわからないもの・・・もちろん肌の色、髪の色もで、日本に帰国してすぐはかえって日本人ばかりの光景に違和感をもった。世界にはこんなにも多くの人種、民族が存在するのに、私は日本でそのことを実感する機会が少なかった。

 貴重な歴史的遺産、価値ある美術品の数々、大勢の観光客、きらびやかなショーウインドウといったフランスの首府・パリらしい華やかな面を見ると、スケールが大きくてただ素直に感動してばかりだった。しかしながら、街なかで、メトロで、震えながら物乞いをする人々を何度も見ていると、現在この都市が抱える多くの問題点も見えてくる。

 私が見てきたパリまだまだほんの一部に過ぎない。いいところも悪いところも合わせて、とても気になる街だから、これから先もパリに何度も足を運び、新たな発見をしていきたいと思っている。また、同時に日本の多くの街を訪れたいとも思った。フランスと日本は風土から住宅の材料から何から違っていて、都市の構造があまりに異なる。どっちが優れているとかいう問題ではなく、両者をさらに理解するためには日本のことも深く知る必要があると感じたからだ。

 今は、学生時代や社会人になってからも、海外旅行に出かけることが全く珍しくない時代だ。しかし、ひとつのテーマを持って、一定期間ひとつの都市に滞在することはそう誰もができることではない。今回の研究旅行は、私にとって予想以上に大きな経験になった。国際文化の研究旅行制度は実に有益な制度だと思う。西南で勉強していてよかった。パリに行って、そう確信した。私を素晴らしい旅へ行かせて下さった先生方に感謝してもしきれないくらいだ。本当にありがとうございました!!


《参考文献》

PARIS-Les Expositions Universelles de1855−1937
Marc GAILLARD Les Presses Franciliennes 2003年
NHKオルセー美術館3 都市「パリ」の自画像 高階秀爾監修 1990年



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