沖縄の祭りと儀式

2003年度アメリカ文化コースB選考者報告


 沖縄は他の多くの地域の文化を受け入れ、それらを内包し変容させ自らの文化として昇華させている。今回は「祭り」と「儀式」に着目しその文化の独自性や他文化との相違性などについて見ていくことにした。まず沖縄と周辺諸国との歴史的繋がりについて触れておこうと思う。沖縄は知っての通りかつては琉球と呼ばれ小国とはいえ独立した国であった。琉球国は日本本土に比べ大陸に近いことから「アジアの架け橋」としてかつてから日本と中国・東南アジアの中継貿易として多くの国と交易をもっていた。特に14世紀後半から16世紀にかけ多くの国からさまざまな文化が導入され、食や芸能の分野を中心に多大な影響を与えることとなった。例えば、沖縄の代表的な酒である泡盛はタイ米を使っており、タイのラオロンという酒が起源ではないかといわれているし、ラフテーなどの琉球宮廷料理や組踊などの舞踊、シーサーなどは中国から来たのではないかと言われている。このように沖縄は文化を受容することに長けており、それらを独自に対応、進化させることでいまの文化を作りあげているのである。

 今回、私は宮古島・読谷村波平を中心に7月15日から8月25日までの42日間の日程で沖縄文化を見て、触れて、そして感じることで沖縄の人々の文化を学ぶことができた。この滞在中に私は各地の祭りに参加したり、伝統的な慣習や伝統芸能を体験することができた。ここでは私が実際に体験した儀式や伝統的な芸能を中心に報告してみたい。



写真1 シーサー

写真1
シーサー

写真2 15世紀にタイから伝来した焼き物

写真2
15世紀タイから伝来した焼き物



写真3 ミンサー織り

写真3
ミンサー織り

 まず、宮古島で参加させて頂いた大綱引きとオトーリという宮古地方の伝統行事について宮古諸島の神事に対する背景に触れながら述べてみようと思う。沖縄において祭祀儀式は重要な意味を持っている。これらを語る上で重要となってくるのが「ノロ」と「御嶽」という存在である。これには、沖縄のオナリ神信仰が影響している。オナリ神信仰はオナリと呼ばれる女性が兄弟に対し霊的守護を持つという考えを前提とした概念で、沖縄ではこの事から古来女性は霊的に強い能力を持っているとされている。そのため神仏行事において女性が優遇される特徴があり、特に村落単位の祭祀はノロと呼ばれる村落単位の神女が祭祀を主宰するのが一般的である。また、沖縄各地には御嶽(ウタキ)と呼ばれる神が舞い降り、聖なる力が発揮されるといわれている聖域がある。御嶽の大きさは石垣などで囲まれたしっかりしたものから御嶽と言われなければ分からないような原っぱのようなものまで様々であるが、これらの多くは海洋を広く望見できる場所や岬、畑のそばなど土地の生産力を支える所に多く作られており祭祀上重要な場所として住民の手によって大切に保全されている。この御嶽には基本的に男性は立ち入ることが出来ないことになっておりこの点からも女性の祭祀上における優位性が感じ取れるのではないだろうか。実際、この旅で見た祭りの一つに御嶽での豊穣祈願を行っているものがあったがそこも男性が入ることは許されていなかった。このように今でも多くの祭りではその祭りの前後にノロによって豊年祈願、もしくは豊年祝いの儀式が地域内の御嶽で行われているのである。

 さて、話を宮古島の大綱引きに戻してみよう。大綱引きとは300メートル以上もある大綱を東西、男女などに分け豊作などの成就を願う行事である。たった今述べたとおり祭りに対しては女性の優位性が認められている。そのため元来、この大綱引きも祭祀儀礼の一部として用いられてきた。「年占いとしての綱引き」である。東方を男性/西方を女性とし、東方が勝てば凶作、西方が勝てば豊作になるとされており神聖な女性の力で大きな男性を打ち負かすという儀式を行うためのものであったのだ。現在は、西方勝利の場合が豊作で東方勝利の場合豊漁という観光客へのアトラクション的香りの強いものとなってはいるものの競われた大綱を各自が少しずつ豊穣祈願のお守りとして持ち帰るなど豊作・豊漁祈願の儀式という考えとして残っているように見受けられた。

 少し話が前後するが先程西側である女性が勝つことが重要視されていたと言ったが何故勝つのは西方でないといけなかったのであろうか。そのことについても触れておこうと思う。沖縄には「ニライカナイ」という概念がある。『おもろさうし』などの祭祀歌謡集の中での「ニライカナイ」は東方の彼方といわれているが、この場合の「ニライカナイ」とは沖縄の西の海の果てに在るとされる理想郷のことである。人々は死後「ニライカナイ」に行くことが最大の幸福とされており、沖縄のお墓などは基本的に西側の海沿いに作られることが多いのもこの為である。このような沖縄の人々にとって西という方角は神の住む神聖な方角という考え方がある為、祭りごとの際には西側に重きをおくことは自然のことといえるであろう。世界に綱引き行事を行う地域は韓国を筆頭に東南アジア、アフリカと数多くあるが、沖縄の綱引きにこのような特異な決まりがあるのは今述べたような沖縄文化独特の概念がある為ではないだろうか。

 宮古島にはオトーリと呼ばれる人々に深く根付いた伝統的習慣がある。これは泡盛を集団で延々と回し飲みし続けるという何とも宮古島らしい習慣であるが、今回自分も滞在中3度ほど参加させてもらうことができた。宮古島にとってオトーリは生活の一部ともいっても過言ではない。島中どこでもオトーリをまわす姿を見ることができ、オトーリ専用グラスや泡盛があちこちで売られているほどだった。はじめは興味半分、怖さ半分で混ぜてもらっていたが皆「んみゃーち(ようこそ)」といって迎え入れてくれるものだから私もすっかりその気*になってしまっていた。



写真4 宮古島のオトーリ 1
写真4
宮古島のオトーリ 1

写真5 宮古島のオトーリ 2

写真5
宮古島のオトーリ 2 INDEX

 なぜここでこのような話題を出したのかというと、この旅で最も勉強になった事の一つに自分から飛び込んでいく事の大切さというものがあったからである。やはり、部外者が地元の方々に受け入れられるためには、自らが積極的に打ち解けようと働きかけることが必要ではないだろうか。今回、自分から地元の方々の輪に入り込む事によって彼らの文化や状況を肌で感じ取ることができたし、どんな事をしてはいけないというタブーも知ることが出来た。これを学べたことだけでも今回研究に出た甲斐があったように思える。

 さて、これまでは沖縄の祭祀について宮古島での体験を中心に述べてきたが次に沖縄の年中行事について沖縄中部にある読谷村波平での旧盆儀礼について触れていきたいと思う。今回、読谷では8月1日から25日まで滞在したのだが、旧暦の関係で幸いにも沖縄のお盆の行事に参加することが出来た。それを踏まえ話そうと思うがその前に沖縄の家族体系について少し説明しておこう。沖縄には門中制度という父系中心の家族形態を表す概念がある。これは中国・韓国など同様の父系社会の体制を持つ地域から伝わり体系化されたものである。門中とは始祖の男系血縁者によって構成される集団で、「同じ根(始祖)から生まれ枝分かれした(子孫)ガジュマルのようなもの」といわれている。本家の長男は血縁内の祖先祭祀に関する機能をもっており位牌(トートーメー)を祀るなどの権利を持っている。これらの一族の男性(特に長男)はこれを遵守・継承することで父系の血筋体系を継続させている。この門中の強い結びつきを表す行事としては、家族成員が共同墓に参集してお墓の前で食事をしながら祖先祭祀を行う清明祭があるがこれらも中国から伝わって昇華した沖縄の特色ある伝統といえるであろう。



写真6 エイサー

写真6
エイサー

写真7 カチャーシー

写真7
カチャーシー



写真8 三線
写真8
三線

 今まで説明したように沖縄では祖先祭祀を重要視しており盆行事は本土と違い旧暦7月に行われている。旧暦7月13日に祖先の霊を受け入れるウンケー(お迎え)から始まり、中日を経て15日にウークイ(御送り)にて祖先を送り返すとされている。ウークイには家長の呼びかけで家族集団が集まりウートートーと呼ばれるお祈りをし、その後沖縄の料理で皆をもてなすという家をあちこちで見ることが出来た。オジーやオバーが縁際で三線を弾き唄う姿はこれぞ沖縄と感動してしまったが沖縄の旧盆といえばやはりエイサーであろう。今回、お世話になった方のご配慮で幸いなことに自分も波平という地域の青年会のエイサーに参加させていただくことが出来た。エイサーとは沖縄の盆踊りのことで元来500年以上の昔にあった念仏踊り(ニブチャー・ウドゥイ)が起源となっている。以前は人が死んだ時ニンブチャ−といわれる念仏僧が家に招かれ、太鼓を打ち鳴らしながら念仏を唱えながら踊っていたそうである。三線の音色にあわせてパーランクー(小太鼓)や大きな太鼓を「エイサー、エイサー、ヒヤルガエイサー」という掛け声とともに踊る姿からエイサーという名前が生まれたらしいが現在も夜遅くまでエイサーの太鼓の音が地域中に鳴り響き祖先の魂を供養する伝統的な儀式として重宝され続けている。私も今回約20日間エイサーという伝統行事に触れ、エイサーやカチャーシー(沖縄の手踊り)を踊る波平の青年達を見ていく内に感じたことがあった。このような伝統行事を皆が楽しみながらやっているのである。これが伝統を伝えていくうちで最も基本的で、最も重要な要素なのではないだろうか。

 今回の研究旅行では、文化をただ机上の学問として捉えるのではなく実際に触れて体で学ぶことができた。実際に現地に行って多くの人に話を聞くことや、実物を見ることでその地域の背景を知る事ができ、そのことによって文化の繋がりや現在の状況を感じることが出来たのは本当に自分にとって素晴らしい体験であった。この旅では文化だけでなく戦争のこと、それに伴う基地問題のこと、リゾート開発のことなどを聞くことが出来たのだが、沖縄はこれまで多くの文化を柔軟に取り入れ発展させてきた文化である。我々も文化を文化だけで捉えるのではなく周りの多くの事象の一つとして捉える姿勢が重要であるように思う。

 最後に、突然飛び込んでいったのにも関わらず寛容に受け入れて下さった多くの方々に感謝したい。沖縄には「いちゃりばちょーでぃ」という言葉があるが、私にも沖縄の方の人との繋がり=ユイマール(結びつき、共同体)を大切にするチムナサキ(人情)の精神がひしひしと伝わってきた。この「いちゃりばちょーでぃ」とは出会った人は皆兄弟であるという仲間意識の事なのだが、その言葉通り私もこの旅では多くの人に時に支えられ、時に自分の考え方を覆されるような体験をさせてもらうなど一人の人間として成長させて頂いた。この経験を活かし、一つ一つの出会いを大切にしながら積極的に様々な事に挑戦していきたいと思う。



写真9 沖縄の海

写真9
沖縄の海

写真10 厨子甕

写真10
厨子甕



参考文献

『沖縄の神と食の文化』  赤嶺 政信 監修  青春出版社 2003年
『沖縄入門』  比嘉 康文・岩垂 弘 著  同時代社 1997年
『沖縄文化論』  岡本 太郎 著  中公文庫 1996年
『世界の中の沖縄文化』  渡邊 欣雄 著  沖縄タイムス社 1993年
『沖縄チャンプルー文化創造論』  比嘉 佑典 著  ゆい出版 2003年



MAIL