現代のフィジーにおけるエスニシティに関する調査─フィジー系住民とインド系住民との関係をめぐって─

2003年度アメリカ文化コースB選考者報告


 私がフィジーを知るきっかけとなったのは、昨年から始めたボランティアであった。そのボランティアで知り合ったフィジー系住民の人柄の温かさにすっかり魅せられてしまい、興味を持つようになったのである。しかし、興味を持つにつれて、現在フィジーが深刻な民族問題を抱えている事を知った。

 2002年の統計によると、フィジーにおけるフィジー系住民の割合は全人口の47.8%、そしてインド系住民が47.4%となっており、国家の約半分をインド系住民で占めているのである。この背景となったのは1874年にフィジーがイギリス領になって以来、当時同じイギリスの植民地下にあったインドからサトウキビプランテーションの労働者として、1879年からインド人がフィジーに移住してきたことにある。のんびりマイペースなフィジー系住民に比べ、働き者で経済的意欲の強いインド系住民はすぐに自分たちの経済的基盤を確立していき、フィジー経済の実質的な権力はインド系住民たちのものとなった。その一方で政治自体はフィジーの伝統社会を踏襲した形を変えず、土地の所有はインド系住民には認められていない。

 また、フィジー系住民はほとんどがキリスト教徒、インド系住民はヒンドゥー教が中心で、少数派でイスラム教徒がいる。このように宗教の違いや、あるいは経済的、政治的な面において両者に差があるなど、相容れない部分が多い中で、現在フィジーに住む人々はお互いどのような意識を持ち接しているのかという事について、今回研究旅行でフィジーに行き、現地の人々に話を伺ってきた。


ビセイセイ村
ビセイセイ村
首長の家
首長の家


フィジアンの女性とランチ
フィジアンの女性とランチ

 この旅行に際して、はじめはアンケートを実施する予定であったが、この問題は政治的問題であり、非常に微妙な内容なのでインタビューをする、という形に変更した。とはいっても、率直にいきなり質問することはできなかった。中にはかなり不満をもっており、そういう話題に敏感な人もいるだろうと思ったからである。だから現地の人といろんな話をたくさんして、充分に仲良くなったうえで質問をするように心がけた。そして私は自分の研究の趣旨をよく理解してくれたあるフィジー系住民から、実に興味深い話をたくさん聞くことができた。そして現在のフィジーが抱えている様々な問題を知ったのである。

フィジー料理
フィジー料理
インド料理
インド料理

 フィジー系住民とインド系住民は仕事や学校など、一般的な生活では仲良しだそうだ。実際、マクドナルドに行った時、フィジー系の人とインド系の人が仲良く働いている光景を目にした。また、街中ではインド料理屋をよくみかけたが、フィジー系住民もカレーをよく食べるし、インド系住民は毎日の食事が基本的にはカレーだけれど、フィジー料理が作れたり、食べるのが好きだという人はたくさんいるという。しかし、これが選挙になると話は別で、やはりインド系はインド系住民に、フィジー系はフィジー系住民に投票するのだそうだ。そのフィジー系の人はインド系の人とも仲は良いが、相手の宗教を信じる事はやはりできないし、尊敬する事もできないと言っていた。それはお互いの宗教による信念の違いによるものだと思った。選挙の時に掲げる政策はやはり同じ宗教を信仰するもの同士のほうが、きっと共感できるのだろう。

ホテルの人 フィジアン
ホテルの人 フィジアン
ホテルの人 インディアン
ホテルの人 インディアン

 しかし彼は相手の宗教は信じることはできないけれども、特別インド系住民に対して嫌な感情をもってはいなかった。(実際、その人の現在の妻であるオーストラリア人の人と結婚する以前に付き合っていた彼女はインド系住民だったらしい!) しかし、彼の両親や祖父母世代になると、あまりいい感情を持っていないらしく、彼がインド系の人と付き合っているとき大反対され、結局六ヶ月で別れてしまったらしい。現在のフィジーでは、違う民族同士での結婚は5%にも満たず、フィジー系住民とインド系住民が結婚するのはとても珍しいことで、新聞に載るくらいだそうだ。彼の場合はフィジー系住民とオーストラリア人との結婚であったが、こちらのほうがフィジー系とインド系が結婚するよりはいい風に見られるらしい。

 1970年のフィジーの独立から何年もたち、植民地時代にきたインド人とは世代が何世代も違うので、だんだんと心の奥底にあるお互いの民族への不満は薄れてきているだろうが、やはり世代が古いにつれ、嫌な感情を持つ人が多いと思う。私は私と同じ世代の意見も聞きたいと思い、フィジーの首都スバにある南太平洋大学に出向いた。南太平洋大学は南太平洋唯一の総合大学で、南太平洋の12の国から学生がこの大学へ学びに来ている。私はそこでインド系の人や、フィジー系、またサモアやトンガから来た学生と知り合い、友達になった。そして私が知り合った学生すべてが、違う民族の人とも仲良しだと言っていた。特に仲良くなったフィジー系の女の子は、自分の持つフィジー系の友達と同じくらいインド系の友達がたくさんいると言っていた。大学内では、恋人同士にしても、集まって一緒に勉強している人たちにしても、やはり同じ民族同士が集まっている光景は多かった。しかし、そうであっても違う民族である自分の友達が通りかかった時は声をかけたりしていて、特に中が悪そうな印象を感じる事はなかった。その日に知り合った男子学生たちで、フィジー系住民とインド系住民、サモア人、ヨーロッパ系の4人で行動している人たちがいた。彼らはとても仲良しで、よく一緒に行動しているそうだ。私はこの大学は多くの地域から学生が集まっているせいもあるとは思うが、現在の大学生は植民地時代を経験していない非常に若い世代なので、祖父母世代よりも民族間の隔たりを感じる事があまりなくなったのだろうと感じた。


Government Building 行政府
Government Building 行政府
南大平洋大学
南大平洋大学

 また、この旅で私はお土産屋で働くあるインド系住民の男性とも仲良くなった。彼はフィジー系住民に不満を抱く人の一人であった。彼はフィジー系住民とインド系住民はあまり仲良くないといっていた。インド系住民は働き者だけど、フィジー系住民は全然働かない、と愚痴をこぼしていた。彼は昼間はお土産屋で働き、夜はタクシーの運転手をしているのだそうだ。彼のように働きすぎなのも珍しいとは思うが、フィジーでは商店を経営するのも、バスやタクシーの運転手も、ほとんどがインド系住民で、フィジーの経済の実質的な権力はインド系住民が握っているということを実感した。私は今回の旅で出会った人たちに関しては、フィジー系住民がインド系住民に抱く不満よりも、インド系住民がフィジー系住民に抱く不満のほうが多いように感じた。実際私がインタビューをしたフィジー系住民は、みなフィジー系の人とインド系の人は仲良しだと言っていた一方で、インド系の人は彼のように、フィジー系住民に対して不満を持っている人がいた。それは彼の言うようなフィジー系住民がマイペースであまり働き者ではないという性格に対する不満もあるが、もう一つ理由がある。

 それはフィジーにおける土地所有制度である。フィジーではインド系住民の土地の所有は認められていない。私がお世話になったフィジー系住民の話によると、この土地の所有制度には三つのパターンがある。一つ目はfree holdといい、これは誰でも買える土地だが、かなり高いらしい。この土地は全体の面積の10%にも満たない。このfree holdを買ってインド系住民が所有している土地は全体の2%にも満たないらしい。次に、crown leaseというのがあり、これは政府が持っている土地で、全体の6〜7%を占め、例えば100年契約で借りる。これはfree holdに比べれば安いがやはりそれでも高い。しかしこれは100年たったあとでもまた続けて借りる事ができるので 工場などを建てる場合には便利である。三つ目にnative leaseというのがある。全体の約83%の土地はフィジー系住民の土地である。その土地を村から借りるという制度である。この制度で土地を借りているのは大体がサトウキビ農場を経営するためのインド人で、これも100年契約などが多い。ただ、その土地も現在の農場経営者の祖父母世代の時代に借りた土地なので、だんだん契約の終わる土地が増えてきているという。この土地はcrown leaseと違ってその後のリース契約はその土地の所有者に任せられるので、所有者が「今日でリースが終わるからもう出て行け」ということもよくあるのだそうだ。政治自体はフィジーの伝統社会を踏襲した形を現在でも変えていないこの国において、フィジー系住民も自分たちの権利は絶対的なものであり、インド系の人にずっと土地を渡しておきたくないという不満があるようだ。だからといって自給自足の生活に満足しているフィジー系住民のオーナーは、インド系住民を出て行かせた後に何かやるわけでもない。フィジー独立後に何度かクーデターやデモが起こったが、その背景にはこういった土地に対する両者の不満や、独立後に政治に参加するようになったインド系住民へのフィジー系住民の不満が爆発したことにある。クーデターの後は土地についての裁判も多いそうだ。しかしこのインド系住民を出て行かせた後の土地を何も利用しないという事は生産性の低下につながるわけで、これは現在、そしてこれからのフィジーが抱える問題といえる。

 また、こういった話も聞いた。植民地時代、サトウキビプランテーションの労働者としてフィジーにやってきたのは、マドラス地方という、比較的貧乏な人々が暮らすインド南東部の地域に住む人々で、「フィジーで働けますよ」といって最初の船代はイギリス政府が持ち、インド人をフィジーに移住させた。私はこの旅行前、ある本で見て、インド人が契約が切れた後もフィジーに残ったのは、フィジーの環境を気に入ったからだと思っていた。しかし船代を出したといっても、それは働いて返さなければならなかった。お金を返し終わって契約が終わったとき、さぁインドに帰ろうと思ってもその帰るためのお金があるわけがなかったのである。だからフィジーに残ったのも決して居心地が良いからというわけではなかったということを聞いて驚いた。また、インドの北のほうに住む人で、お金があるのにわざとフィジーに来て、そして商売をはじめた人もいる、ということを聞いた。その人たちはお金があるし、教育も受けているので、もし何かあった場合でもオーストラリアとかニュージーランドに行くことができる。しかしマドラス地方から来たサトウキビプランテーションの労働者たちはそんなことはできないので、ただサトウキビを作るしかなかったのだそうだ。

 フィジーの主要な産業は観光と砂糖である。その主要な産業の一つである砂糖を今まではヨーロッパが高く買って、フィジーを助けていたそうだ。しかしその契約があと5年で終わるらしい。最近それについての会議が開催され、これからどうなるのかはまだ決まっていないみたいだが、もしこのヨーロッパによる援助がなくなってしまうとフィジーの貴重な収入源が少なくなるのは否めない。この事と、先に述べたインド系住民を出て行かせた後の土地が利用されず、生産性が低下する事があいまって、これからフィジーの経済がどういう方向に向いていくかが心配されている。インド系住民の不満もさらに高まるかもしれない。

 また、現在のフィジーはこういった経済的な問題のほかにも、深刻な社会問題を抱えている。フィジーは人口約80万人の中の46%くらいが35歳以下であり、非常に若者が多い。その中には村で生活する事を拒んで首都のスバにいる若者も多いという。しかし教育を受けていないため仕事ができる人は少ないのである。女性だと運がよければ家政婦の仕事を貰えることもあるが、フィジーで裕福な生活をしている人はそう多くないのでその仕事もなかなかもらえるものでもない。仮に教育を受けていていたとしても仕事がない事が多い。なぜかというと、もともとフィジーは人口が少ないからある程度の人数以上働いても採算がとれないのである。だから、特にする事のない若い男性たちは、退屈で暇をもてあまし、フラストレーションがたまることによって犯罪に繋がるのである。また、squatterといって、とても貧しい人がその人が借りている土地でもないし、所有しているわけでもないそこら辺の空いている土地に木などを持ってきて家のようなものを作り、不法に住んでいる人々がいる。そういう所で育った子どもたちの犯罪は多く、その将来も心配である。特にクーデターが起こると路頭に迷う人が増え、一番新しい2000年5月に起こったクーデターから時間がたったのでだいぶん減ってきたみたいだが、今でも首都のスバ近郊では夜ともなると強盗がよくでるのだそうだ。フィジーには分かっているだけで貧血気味の人が全体の4分の1、糖尿病の人が5分の1と、栄養が足りていない人が多いらしい。都市部に住む人の中には一部屋に15人で住んでいる人もよくいて、そこまで貧しい人たちに対する援助が何も行われていないという事に私は疑問を感じた。これからフィジーはそういう人への支援策、また若者に対する教育や働く場所の問題など、フィジーはまだまだ多くの課題を抱えているなと思った。


博物館にて
博物館にて
船


漁の道具
漁の道具

 私は今回研究旅行に行くにあたって、結構不安を抱えていた。一つは海外に行く事が初めてで、今まで異文化に触れた事がなかったので、うまくコミュニケーションがとれるかどうか心配だったのである。もう一つは旅行前の時点でフィジーに関する資料が少なかったことにあった。しかし、現地の人たちは私をとてもあたたかく迎え入れてくれ、実にいい旅をすることができた。私が相手の文化を理解しようとするように相手も私のことを理解しようとしてくれて、とてもいい関係を築く事ができたと思う。私は相手を理解しようとするその姿勢がとても大事なのだと感じた。また、実際にフィジーに行って見聞きする事で、本には載っていない現地の人々の様々な考えや現実を知る事ができ、フィールドワークの大切さをとても感じた。この制度を利用して実際にフィジーに行く事ができて本当によかったと思う。



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