太宰治と「家」

2003年度日本文化コース選考者報告


■ はじめに

「かういふ私の性格が私を文学に志さしめた動機となつたと云へるでせう。育つた家庭とか肉親とか或ひは故郷といふ概念、さういふものがひどく抜き難く根ざしてゐるやうな気がします。」(「わが半生を語る」)

 太宰治は、一九〇九(明治四十二)年六月十九日青森県北津軽郡金木村(現・金木町)に、津島源右衛門の第十子・六男として生まれた。当時の津島家(太宰治の戸籍名は津島修治)は、地元で有数の大地主で金貸業を営むほどであった。また、使用人を加えると三十名を超す大家族でもあった。そのような大金持ちの子として生まれた太宰が、「家」に対して持った様々なコンプレックスは大きかった。幼少時代の経験が作家の後の作品に与える影響は大きいとよく言われる。暗い記憶を抱えれば抱えるほど、本当の意味で深い作品は数多く生まれる。作家が、自分の内面を見つめてきた時間がそれだけ長いからである。太宰の場合それが多くの作品において顕著に見られる。彼の「家」に対する思いを探ることは、太宰文学を研究する上で重要なことなのである。私は、生家のある青森県の金木町、そして彼が昭和十四(一九三九)年三十一歳の時から死ぬまで居を構えた東京都三鷹市を主な行き先として、今回の研究旅行を行った。作品「思ひ出」「帰去来」「故郷」「津軽」で見ることができる生家での苦悩が作品に与えた影響を踏まえた上で、戦後三鷹で生まれた「桜桃」「家庭の幸福」「父」等の作品のテーマである家庭の問題を考えてみたい。


一、 津軽

 「津軽には夏がありません。」一日目に泊まった金木町の旅館で仲居さんからそう言われた。その言葉どおり、その日は晴天だったが大変涼しく気温は二十五度ほどだった。それでも、真夏日だという。津軽は約十日間しか夏が無いそうである。冬の寒さはどれだけ厳しいものか、と思われる。津軽の人々が心優しいと感じるのは、彼らが厳しい寒さの中で育ったが故だろうか。こんなことがあった。オレンジにグリーンのラインの入った津軽鉄道「走れメロス号」に乗って、旅館に一番近い嘉瀬駅まで行った。駅に着いて駅の人に旅館の場所を尋ねてみると、電話したら迎えにきてくれるはずだ、と教えてくれたので迎えを待っていた。「何処から来たの。」待合室に一人のおばさんがいた。福岡からです、と言うと、大変驚いた様子で早口の津軽弁で話し掛けてきた。何を言われているのかほとんど分からない。まるで他の国の人と話しているようだ。九州で育った私には、「ドライアイスが液体を素通りして、いきなり濛々と蒸発するみたいに見事な速度で理解しはじめた」(「帰去来」)と、懐かしい故郷の訛りを耳にした太宰が書いているようには上手くいかないが、出鱈目でも何か言って話を続けようとしているうちに、少しずつ分かってきた。その方は行商らしい。隣りを見ると、大きなバックが三つもあった。初対面の私に仕事のことから、娘さんの事など色々なことを話して下さった。津軽への旅行で、「不遠慮な愛情のあらわし方に接し」、深い「安堵感」を得た太宰の気持ちが、自然と伝わってくる気がした。


走れメロス号
走れメロス号

 昭和十九(一九四四)年五月十二日から六月五日にかけて太宰は故郷である津軽を旅行した。小山書店から『新風土記叢書』の一冊として「津軽」の執筆を依頼されたためであった。(この作品は同年十一月に、小山書店の第七編として刊行された。「筑摩書房 太宰治全集第七巻」)それは、家族と絶縁状態だった太宰が十数年ぶりに改めて故郷を見直すことになったため、「かなり重要な事件の一つ」となった。津島家は、太宰の曾祖父にあたる惣助の時に農地と金貸業を基盤にして、急激に商人地主となり、太宰が生まれた頃は商号を「〈源(やまげん)」といった。また現代と違い、旧体制下の典型的家父長制の「家」に育ったのである。大正二(一九一三)年、太宰が四歳の時、記録的凶作で県内の三分の一が窮民になったという。それも、津島家が急激に繁栄した一つの要因といえるだろう。大正五(一九一六)年には、小作人保護準則が制定され地主と小作人間の円滑化が図られた。しかし、昭和三(一九二八)年太宰十九歳の頃、北津軽郡内では小作人争議が数多く発生し、彼は生家の蓄財が土地収奪によるものと思いこみ悩む。生家にもその当時の商家の面影が残っていた。玄関を入ってすぐ左側に勘定台がある。玄関から勘定台まで履き物のままで入れるようになっていたようである。

 現在旧津島家は、一時期旅館「斜陽館」として角田氏が買い取って開業したが、平成元年に金木町指定有形文化財に指定されてから、平成八年には町が買い取り、金木町太宰治記念館「斜陽館」となっている。実際に訪れてみた生家は、想像以上に大きくやはりあの屋根の赤さが目に飛び込んでくる。あの屋根を私はてっきり瓦だと思っていたのだが、実は亜鉛鉄板葺である。というのも、冬の積雪を考えてのことらしいのだ。これはふつうの民家においても同じで、私はついに津軽で瓦屋根を一軒も見ることはできなかった。とにかく、生家は金木町役場のすぐ近くということもあり、昔から町の中心街であったようだ。「はるか前方に、私の生家の赤い大屋根が見えて来た。淡い緑の稲田の海に、ゆらりと浮いてゐる。私はひとりで、てれて、『案外、ちひさいな。』と小声で言つた。『いいえ、どうして、』北さんは、私をたしなめるやうな口調で、『お城です。』と言った。」(「帰去来」)「稲田の向うに赤い屋根がチラと見えた。『あれが、』僕の家、と言ひかけて、こだはつて、『兄さんの家だ。』と言つた。」(「故郷」)このように、「帰去来」「故郷」には生家が寂しげに描写されている。特に「故郷」生家の描写においては、こだわって「兄さんの家だ」と言っているがこれは、除籍事件が根底にある。長兄文治は昭和五年十一月十九日、分家除籍を条件に、青森で芸者をしていた小山初代との結婚を認めたのである。(奥野健男氏の年譜による)それから約十年後の昭和十六(一九四一)年八月、昔から津島家と深い仲であった、中畑さん、北さんの二人の取り計らいで十年ぶりに生家に顔を出すことができたのである。その時のことが「帰去来」に書かれている。また、「津軽」にも、「金木の生家では、気疲れがする。また、私は後で、かうして書くからいけないのだ。(中略)所詮、私は、東京のあばらやで假寝して、生家のなつかしい夢を見て慕ひ、あちこちうろつき、そうして死ぬのかも知れない。」と書いている。幼少時代から抱えてきた「家」に対するコンプレックスを作品にして売ることでしか生きていけない自分を、恨みながらも故郷がいつも心のなかにあった。生家の近くの芦野公園には文学碑があるが、それには「撰ばれてあることの恍惚と不安と二つわれにあり 」と記されている。フランスの詩人、ポール・ヴェルレーヌの詩集「叡知」からの一節(J'ai l'extase et j'ai la terreur d'être choisi. /Paul Verlaine: Sagesse II - IV - VIII )で、詩人堀口大学の翻訳である。この言葉は太宰が昭和十年二月に出版した処女作品集、「晩年」の冒頭の作品「葉」のエピグラフとして掲げられ、好んで使われていたようであるが、この言葉こそが太宰の生家での暗い記憶とつながると思われてならない。大地主、商家が生家である彼は他の家の子どもとは全く違う環境の中で育ち、〈源(やまげん)だからという理由で特別扱いされる体験も多かった。しかし、だからこそ普通の子とは違うという意識そして、期待に応えなければという不安感が彼の性格を形成していったのではないだろうか。


金木町 太宰治記念館「斜陽館」
金木町 太宰治記念館「斜陽館」

 もう一つ、太宰に決定的な影響を与えたのは子守タケの存在であった。「このたび私が津軽へ来て、ぜひとも、逢つてみたいひとがゐた。私はその人を、自分の母だと思つてゐるのだ。三十年ちかくも逢はないでゐるのだが、私は、そのひとの顔を忘れない。私の一生は、その人に依つて確定されたといつていいかも知れない。」(「津軽」)と書いているように彼にとってタケは特別な存在だった。越野タケは、明治三十一(一八九八)年七月十四日近村永太郎、トヨの四女として金木村に生まれた。太宰よりは十一歳年上である。大正元(一九一二)年五月三日から小作米納付の代価に女中として年季奉公で住み込み、満十三歳から十七歳まで五年間子守として太宰を教育した。彼が満二歳から六歳にかけての時である。母親が病身だったので、太宰は「母の乳は一滴も飲まず、生まれるとすぐ乳母に抱かれ」、さらにその乳母が再婚のため去っていった後は叔母に育てられた。父が衆議院議員であったために母も上京しなければならず、家に居ることが少なくなってしまい、「夜は叔母に抱かれて寝」ていた。それ以外は子守のタケといつも一緒に過ごしていたという。生家のすぐ傍にあるタケの実家の菩提寺「雲祥寺」に太宰をつれていき「道徳を教へた」。地獄極楽の御絵掛地を見せ、この世で悪事を働くと地獄に行くのだと諭したのである。これは、現代も雲祥寺の本堂に入って左側に展示してあり、当時のままの絵が観覧できるようになっている。正しくは、御絵掛地「十王曼陀羅」と言って七幅の掛け軸になっている。一見、綺麗な掛け軸なのだがよく見ると、様々な拷問にかけられ「蒼白く痩せた」人々が苦しむ様子が描かれている。「思ひ出」での太宰の描写と全く同じだ。まだ五、六歳の彼が、泣いてしまったのも無理はない。また、彼に本を読ませたのもタケだったようである。

 タケは二十年前、私が生まれた昭和五十八(一九八三)年十二月十五日に他界されたので、もう会うことはできない。しかし、「津軽」で太宰と三十年ぶりの再会を果たした、小泊村の小泊小学校の運動場を丁度見下ろすかたちで小説「津軽」の像記念館が平成八(一九九六)年にオープンした。そこでは生前のタケのビデオもあり、どんな人柄だったか知ることができる。私にとってやはり、「津軽」の感動的なクライマックスの再会の場面が胸にあったので、この記念館に着いたときは、ついにここまで来たのだなという考え深いものがあった。こここそが「平和とは、こんな気持ちの事を言ふのであらうか。もし、さうなら、私はこの時、生まれてはじめて心の平和を体験したと言つてもよい」と、彼が思った場所なのだ。生家の時と異なり、お客は他に居なかった。入るとすぐに受付の方から、生前のタケをインタビューしたビデオを放映するのでどうぞ、と奥に案内された。運動会の時にタケの所まで案内した節さん(タケの娘)、太宰の長女園子さんのインタビュービデオ、さらには、骨格をもとに再現したという太宰の肉声もあり大変驚かされてしまった。

 ここで注目したいのは生前のタケの証言である。ビデオは昭和五十六(一九八一)年に地元テレビ局RABで特集された「昭和十九年初夏『津軽』〜太宰と小泊村〜」というものであった。その時タケは八十三歳である。「津軽」を再現するように、昭和五十六年の小泊小学校の運動会の時にインタビューしたものであった。タケの話によると、その時彼女は四十七歳、太宰は三十六歳だった。太宰の服装は編み上げの靴に妙な飾りのようなものの付いた帽子を被り、ゲートルを巻いていた。再会の瞬間は、彼が首を傾げて、あ、いたいたと言い、太宰の右の目の下にはほくろがあったから、太宰と分かったそうである。一方、太宰の方も、タケのほくろを見てわかったようだとタケは言う。その後、小説のように龍神様の桜を見に行きそこで十分ほど話をした。話らしい話ではなかったが、太宰が自分は小さい時どんな子だったかを聞いてくるので、本が好きなとても良い子だったと言うと、ふうん、と笑ったそうである。タケが何のために来たのかと聞いた時には、会いたいと思ってきたと言ったということだ。タケの語る津軽弁は私には聞き取れないが、字幕が付いていたので助かった。大変暖かみのある声で、田舎のお婆さんが持つ独特の安心感を感じた。またそのほかにもタケのインタビューのビデオがもう一つあった。その中では、タケから見て太宰がどんな子どもだったかが語られていた。初めて津島家に来た時、他の兄弟に対しては「さん」付けで呼んだが彼には「修ちゃ」と一度呼んでみたら呼びやすかったので、それからずっとそのように呼んでいたそうだ。まるで本当の家族のように親しかったことが分かる。彼は良い子で「嫌だ」、と言うことがほとんどなかったが、食事の時だけは苦労をしたという。ご飯を一膳食べさせるのがやっとで、彼はよく逃げ回っていたようだ。しかし、家の人々は全く構わなかった。「人間失格」の中で、太宰自身の投影だと思われる主人公大庭葉蔵が幼少時代に、食事の時間が苦痛でならなかったと書いている。「末っ子の自分は、もちろん一ばん下の座でしたが、その食事の部屋は薄暗く、昼ごはんの時など、十幾人の家族が、ただ黙々としてめしを食っている有様には、自分はいつも肌寒い思いをしました。」(「人間失格」)家族の集まる食事の時間に我が儘を言って構ってもらいたかったのだろうか。一種の甘えと見られるが、なお家族は気にすることなく、本当の家族ではない子守のタケだけが彼の甘えに応えた。幼少の彼の傲慢な姿を唯一ありのままで受け止めたのが、タケだったのだ。津軽弁で子守は「あだこ」というそうだ。この言葉は、「はだこ」、つまり母親の肌の温もりを子に与えるという意味からきている。実母から愛を受けることのなかった太宰にとって、「あだこ」タケは本当の母親のような温もりをもった人だった。「津軽」での旅によって再会を果たし、「矢継ぎ早に質問を」するタケを見て、「強くて不遠慮な愛情のあらわし方に」改めて接して、自分はタケに似ているのだと気づく。「津軽」の序編において、この旅で主として愛を追求した、と書いているが彼が求めた本当の愛情とは、タケに見られる「不遠慮な愛情」であったのである。


小説「津軽」の像
小説「津軽」の像
竜飛岬
竜飛岬


二、三鷹

 昭和十四(一九三九)年九月一日、三十一歳の時太宰は、妻の美智子と共に甲府から当時の東京府下三鷹村下連雀一一三番地に移り住んだ。ここが心中をした昭和二十三(一九四八)年まで住んでいた最後の家となった。私が三鷹を散策した日は、台風一過のために、雲ひとつ無い青空が広がり日中の最高気温は三十五度まで上がっていた。三鷹駅の南口を出ると、案内の地図があった。自分が持ってきた太宰ゆかりの場所が書き込まれた地図と見比べる。何度も場所を確認していたはずなのに所詮は地図上のこと、実際に来てみてどう行ったら良いものか、迷ってしまった。「どちらに行かれるんですか。」一人の初老の男性が声をかけてくれた。その方は「三鷹ジブリ美術館」と書かれた旗を持っている。太宰のゆかりの地を回りたくて、と言うと、意外な答えが返ってきた。「太宰のコースの案内は、毎月第四日曜にやっているんですよ。」胸のネームプレートには「みたか観光ガイド協会」と書かれていた。第二日曜日はジブリで、第四日曜が太宰のコース案内をされているそうで、その日は第二日曜だった。私以上にその方のほうが大変残念そうに、第四日曜だったら案内できたんですけど、と仰いながら鞄の中からきちんとファイルされた太宰に関する資料をたくさん見せてくれた。この方から私が持っているのよりもさらに詳しい地図を頂いた。この地図を見ながら行ってみます、と感謝を述べてまず、玉川上水に沿って歩き入水場所を探していた。しかし、地図を見ても探し出すことができず迷っていると、後ろから走ってくる足音が聞こえてきた。先程のガイドの方だった。ジブリまで案内に行った他のガイドの仲間が戻ってきたので、太宰の案内を特別してくれると言うのだ。初めての土地で思いも寄らない親切を受け、驚きと嬉しさで戸惑いながらもその方に案内をして頂くことにした。名前をお聞きしたが、ここではただFさんとだけ記しておく。退職されてからボランティアで観光ガイドをやっていらっしゃるそうだ。とにかく、Fさんの太宰についての知識の深さには圧巻だった。三時間近くも炎天下の中、案内して頂いた。みたか観光ガイド協会の方々のご厚意がなければ、三鷹での調査が失敗に終わっていたのではないかと思う程である。


三鷹駅南口、中央通りの文学碑
三鷹駅南口、中央通りの文学碑

 移り住んだ当時の三鷹は、農村から軍需産業の町に発展している頃であり、米穀配給統制法も公布され、例えば「父」には、「半病人の家の者が、白いガーゼのマスクを掛けて、下の男の子を背負ひ、寒風に吹きさらされて、お米の配給の列の中に立つてゐたのだ。」という当時の戦時中の人々の生活を知ることができる記述もある。また、戦後は三鷹に五カ所の仕事部屋を持った。三鷹駅南口前郵便局近くの中鉢家、下連雀の田辺肉店(現・みずほ銀行)、上連雀の西山家、小料理屋「千草」二階(現・ベル荘)、山崎富栄の部屋(現・永塚葬儀社)である。「千草」と富栄の部屋は細い通りを挟んで向かいになっている。編集者やファンの訪問から逃れて、仕事部屋で執筆をしていたようだ。今ではビルなどが建っているが、三鷹郵便局は同じ場所にあり、また、玉川上水は当時のように草が生い茂っていた。下連雀の太宰の家は、今はもう全く別の民家になっていた。しかし、「おさん」に出てくる庭の百日紅の木は、現在、みたか井心亭という向かいの施設に移植されていた。見上げるほども高さがあり、主人亡き後も力強く生きていた。

百日紅
百日紅

 三鷹は通りが真っ直ぐで京都ほどではないが、それでも綺麗に土地が区分されている。Fさんが言うことには、中心部は一六五七年の明暦の大火で焼け出された神田連雀町(現・御茶ノ水付近)の商家の人々が、防火広場を作るために土地を強制収用され、代わりとして与えられたところだそうである。当時、一戸あたり幅六十五m×長さ七百二十mの短冊状で幾何学的に配分され、その名残が現在も残っていると言われている。旧太宰邸とそれらの仕事部屋を実際に歩いてみると、そのような理由で綺麗に区画整理されていることも手伝って意外にも近く感じられた。ただ、「斜陽」完成後は知人の接待や、富栄と会うために使用していたとされる西山家は、少し離れたところにある。三鷹駅から西方へ行った所に西山家があるが、その途中に太宰が好んで散歩に来た、三鷹電車区を南北にまたぐ陸橋がある。この陸橋は今も当時とほぼ変わらない姿で残っていた。二重廻しを着て陸橋の欄干にもたれかかるように写った写真があるが、あのままの橋だった。今、橋から眺める景色は当時とあまりにも違うだろうが、見下ろした線路の風景はとても寂しく、侘びしかった。

陸橋
陸橋

 太宰は三鷹に移って来てから、家庭の問題を中心に作品を書いた。作品に出てくる家庭は三鷹での自分自身の家がモデルになっていると言ってよい。つまり、作品中の主人公が感じている苦悩は、父親である太宰自身が抱えた苦悩であった。「桜桃」では、「自分の家庭は大事だと思つてゐる」と言いながらも「家の中の憂鬱から、のがれたい」と言う。「父」では「炉辺の幸福」が、恐くて仕方なく、本当は家族のことを大切に思っているのに、「義」のために「地獄の思ひで遊」ばずにはいられない、父の哀しい弱さを表している。家庭の幸福を望んでいながら、結局は自分の弱さのために実践することができず、子どものために使うはずのお金も、父の酒代に変わっていく。本来ならば「家」とは、安らぎの場であるはずだ。仕事で疲れた体と心を休める場所である。ありのままの自分でいられる自分の居場所であるはずが、彼の場合、家をそういった感情で見ることはなかったのだろう。彼にとって「義」とは、万人に認められる作品を書くことであるが、彼は有名になるにつれて厳しい文学批判を受けることが少なくなかった。さらには、極度の疲労、幼い頃からの持病の不眠症が一層ひどくなるなどで、ますます追いつめられていったのである。「義」を優先すれば家庭の幸福が築けない、しかしだからといって彼にとって「義」を曖昧にはできないのである。「家庭の幸福」の中では、「家庭の幸福は諸悪の本」という恐ろしい結論に達しているが、家の中と外における自分の立場の有りようを常に考えた結果、そう言わざるを得なかったのではないだろうか。

入水場所付近に置かれている、津軽名産の玉鹿石
入水場所付近に置かれている、津軽名産の玉鹿石

 小泊村の小説「津軽」の像記念館で見ることができたビデオの中で、長女園子さんが父太宰のことを語っていた。太宰が心中したのは園子さんが小学校に入って六月の誕生日をむかえたばかりの時で、昭和二十三年四月に三鷹の家の縁側で、鶏とともに撮った写真が最後となった。園子さんの左で太宰が妹の里子さんを抱いている。出版社の人が家に訪れ、太宰と子供たちの写真を撮るために写真家が様々な演出を試みた。何枚も撮ったが上手く写れずに、疲れきってしまい、太宰が少し下を向いて寂しそうに笑ったのが後に発表され、今日、私たちが見ている写真らしいのだ。実は彼は普段人前で子供をだっこすることはなく、里子さんを抱いている姿は写真家の全くの演出にすぎないらしい。園子さんは、その寂しそうにうつむいた姿が父の真実の姿だったのではないかと語っていた。幼少時代に本当の母親から愛を受けずに育った太宰が、父となり真実の愛を模索し、結果として苦悩から救われることがなかった哀しみが彼の作品全体に漂っている。タケとの再会で「不遠慮な愛情」を得たが、それを三鷹の家に結びつけることはできなかったのだ。暗い過去が、後に何十年も読まれることになる作品を生み出す、それは大変哀しい逆説である。読者は作家の哀しみを理解し同化する。しかし、太宰文学に私たちが直面した時、同化の一方で作者を哀しみから救いたいという気持ちが働くであろう。家庭の幸福を実践したいのにできない矛盾に苦しむ太宰が助かる道はないのかと考える。太宰は矛盾の説明を明確にすることができなかったが、それは今日の私たちに持ち越された課題なのだ。読者はタケの優しい心でいつまでも彼を見守るだろう。



使用テクスト
「太宰治全集第五、七、九、十巻」筑摩書房 昭和四十六年七月五日発行

参考文献
「新潮日本文学アルバム19 太宰治」
    編集・評伝 相馬正一 新潮社 一九八三年九月十日発行
「太宰治」奥野健男 文藝春秋 昭和四十八年三月十日発行

太宰治の作品の多くは、E-テキストとして青空文庫によって提供されています。その規準に基づき個々の作品の図書カードにリンクさせていただきました。ここに感謝の意を表明いたします。

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