バイエルンの歴史・文化を探る

2003年度ドイツ文化コース選考者報告


 “賑やか”これは、私がミュンヘンに到着して初めて感じた印象だ。私の周りの人に聞いても、また世間一般的にも、ドイツ=暗いと言うイメージができあがってしまっているようだ。しかし、一年生の頃からドイツ語を学び、ドイツについて学ぶにつれて、私も当初持っていたこの”暗い“というイメージは、すっかり吹き飛んでしまった。私がドイツに行こうと思ったのもこのギャップのせいかもしれない。

 今回、研究旅行制度を利用して、私はドイツの南部にあるミュンヘンを訪れた。当初フランクフルトにも滞在する予定だったのだが、一週間という滞在期間の短さもあり、ミュンヘンだけに集中することにした。ミュンヘンには様々な別名がある。文化的に充実していることもあり「イザール河畔のアテネ」と呼ばれたり、「北のローマ」だったり、1972年にオリンピックが開催されたことから「運動の首都」であったり、「百万人の村」であったり、「ドイツの隠れ首都」であったり。私の旅行の目的は大きく分けて二つあった。一つ目は、ミュンヘンの街の変遷や歴史である。そして二つ目は、ミュンヘンを都としたかつての王国バイエルンと、そこに君臨したヴィッテルスバッハ家、特に19世紀から20世紀にかけてのルートヴィヒ一世、マクシミリアン二世、ルートヴィヒ二世についての研究である。

 現在のミュンヘンの全容を造ったのは、ルートヴィヒ一世である。彼は芸術を奨励することで、「あらゆる芸術作品は、万人の目に触れなければならない」と言ったほどだ。第二次世界大戦によって破壊されたミュンヘンの街並みを復興させる際、住民投票が行われた。戦前と同じような街並みにするか、フランクフルトのような近代的な街並みにするか・・・。結果は前者であった。これもルートヴィヒ一世のこだわりを持った街並みを守っていこうとする住民の意思ではないだろうか。


写真1レジデンツ マックス・ヨゼフ広場側
写真1レジデンツ 広場
写真2レジデンツ 中庭
写真2 レジデンツ 中庭
写真3レジデンツ 内部
写真3 レジデンツ 内部

 ミュンヘンの街について興味深い資料を保存しているミュンヘン市立博物館へ行ってみた。私が訪れたのが日曜日だったこともあり、見学者は一人か二人位しかいなかった。一階はお土産屋と特別展の会場になっていて二階を見学できた。ここでは、ミュンヘンの都市形成の歴史や変遷を知ることができた。ミュンヘンにあるレジデンツ(王宮 写真1・2・3)やイングリッシュガーデン(英国庭園)、オリンピック公園などの設計図や地図などが飾ってあり、城壁で囲まれた18世紀から20世紀までの街の模型がたくさん置いてあった。また、バイエルン国立博物館でも、1857年当時のミュンヘン市内の様子が模型(写真4)で再現されており、画面をタッチすると、その建物の歴史や周辺の街の様子が細かく説明されていた。街の中心にはフラウエン教会、市庁舎があり、そこから年代を追うごとにたくさんの建物が建てられている。大学の授業で以前、「ドイツの街は教会、市庁舎、そして広場を中心として形成されている」と聞いたことがあったが、全くその通りだった。街のシンボルであるフラウエン教会(写真5)を遠くからでも見えるようにと市内中心部の建築物は、36m以下に抑えるようにという条例さえある。私も実際街を歩いていて迷ったとき、フラウエン教会を目印に道を探していった。それほど街のどこからでもこの教会を見つけることができた。

写真41857年当時のミュンヘン市内の模型
写真4 ミュンヘン1857
写真5フラウエン教会
写真5 フラウエン教会

 1158年6月14日、時の神聖ローマ皇帝フリードリヒ一世によって、ミュンヘンに開市権・貨幣鋳造権、イザール川に架けた橋の管理権が付与された。この日がミュンヘン発祥の日と言われている。やせた土地に発生したミュンヘンという集落が経済的基盤を獲得し、14世紀前半、飛躍的な発展を遂げる。従来の市壁をなくし、6倍の面積の市壁が新しく築かれた。それから画家や彫刻家達がこの街に集まってくることになる。また、ミュンヘンに限らずドイツでは通りに必ず何かしらの名前がついている。もちろん、街造りに大きな影響を与えたルートヴィヒ一世とその子供、マクシミリアン二世二人の名前がそれぞれ付けられた通りもある。ルートヴィヒ大通りにはバイエルン州立図書館やルートヴィヒマクシミリアン大学、ルートヴィヒ教会がある。この通りを歩いてみて思ったのは、やはり大学があるので若者向けのカフェやクナイペ(居酒屋)が多く、活気があるということだ。

 私は旅行の中で二つ目の目的であるヴィッテルスバッハ家の研究の方に重きを置いていた。福岡から成田、成田からミュンヘンへと移動する約14時間のフライトの中で、私は一冊の本を読んでいた。「狂王ルートヴィヒ 夢の王国の黄昏」 (ジャン・デ・カール 著 中公文庫)という本だ。この本はバイエルン王国のルートヴィヒ二世について書かれたものであるのだが、彼はディズニーランドのシンデレラ城のモデルとなった城“ノイシュバンシュタイン城”の建造を命じ、一般的に自己の築城という快楽のみに没入する王であったと言われている。しかしこの本は、決してそのような伝説だけに固執するのではなく、逆にルートヴィヒは今もなおバイエルンの人々だけでなく、全世界の人々に愛される王であると語っている。私もこの本を読むまでは、ルートヴィヒは狂人であり精神異常者であったのではないかと思っていたが、この本ではルートヴィヒは孤独で誇り高く平和を愛し、心の優しい王であった事を物語っていた。だからこそ私はこの旅でルートヴィヒ二世の夢の城であるリンダーホーフ城とノイシュバンシュタイン城を巡り、彼がどれほどこだわってこれらの城を建てさせたのか、また当時の王の精神状態はどのようなものだったかを知りたいと思っていた。

 リンダーホーフ城(写真6)は残念ながら修復工事のためシートがかかっており、外観を見ることはできなかった。この城は、ルートヴィヒが建てさせた三つの城の中で彼が一番気に入っていた城であり、唯一完成した城でもある。まず入口を入ると、太陽王ルイ14世の騎馬像が置かれている。ルートヴィヒはルイ14世を崇め、尊敬していた。内部はロココ様式やバロック様式を取り入れていて、王の寝室は彼の大好きなロイヤルブルーで統一され、巨大な天蓋付きのベッドが置かれていた。人に会うことを極度に嫌った王は、食事の際に誰にも邪魔されずに一人でとれるようにと、魔法のテーブルを作らせた。これは一階で作った料理をテーブルにのせ、そのまま二階へテーブルごと押し上げるというものだ。また、人口の鍾乳洞があり湖の中に貝の形の船を浮かべてあった。四つの控え室がありそこは、ピンク、黄、青、薄紫と一部屋ずつメインとなる色がありデュバリ夫人、ポンパドゥール夫人などフランス貴族の肖像画が飾られていた。いくつかの部屋には等身大のクジャクのレプリカがあり、王が城に居る時はこのクジャクは城の外に置かれ、王の存在を知らせていたと言う。この城は私が思っていたよりもかなり規模が小さかった。しかし内部の装飾は豪華で、ルートヴィヒの思いが詰まっているように感じられた。また、自分一人のために建てさせた城であるという事、またルートヴィヒがどれほど人間嫌いであったかいう事を痛感することができた。彼はこの城に居る時だけ、俗世間の雑踏から離れ、夢の世界へと入り込んでいたのだろう。


写真6リンダーホーフ城
写真6 リンダーホーフ城
写真7ノイシュバンシュタイン城
写真7 ノイシュバンシュタイン城

 ノイシュバンシュタイン城(写真7)はさすがにロマンティック街道のクライマックスだけのことはあり、かなりの数の観光客がいた。中に入るのはグループ制で城の説明にはドイツ語や英語、フランス語や日本語など約10ヶ国語のイヤホンが使われていた。城に入る前に、マリエン橋という橋へ行った。ここからノイシュバンシュタイン城を望む景色は言葉では言い表せないほど壮大であり、おとぎの国に迷い込んだような幻覚さえ覚えるほどすばらしいものだった。城の白、民家の屋根のオレンジ、湖の青と山の緑の調和は、息を呑むほどに、計算しつくされたのではないかと思うほどの美しさであった。ルートヴィヒがこの場所に城を建てようと決めた理由がよく分かるような気がした。山や森への遠出が大好きであった王にとって、ここは絶好の場所であったのだろう。またこの城は、どの角度から見ても違った外観に見えるようにと、一つ一つの塔の高さや形などが考えられて造られていた。ノイシュバンシュタイン城も少し工事中ではあったが、内部はしっかり見学することができた。この城は17年の歳月をかけてもまだ全体の3分の1しか完成しておらず、王の死をもって工事は打ち切られた。城の部屋の中で特に注目したのは、玉座の広間と歌人の広間である。玉座の広間は全体的に金色で統一してあり、大理石の階段の上には天蓋付きの象牙と金でできた玉座が置かれるはずであった。壁画や天井画は、十二使徒、六人の聖王とその生涯の絵巻が繰り広げられている。歌人の広間はアイゼナハにあるヴァルトブルク城の歌人の広間がモデルとなっている。ノイシュバンシュタイン城を建てた最大の理由は、この広間でワーグナーのオペラを実演させる事であった。しかし、王の在命中に広間が使用されることもなければ、ワーグナーがこの城を訪れることも一度もなかった。壁にはワーグナーのオペラ「パルシファル」を題材に絵が描かれていて、王のこだわりが感じられた。城の完成されている部屋を見て回って思ったのは、非常に豪華だということだ。いや、豪華過ぎると言ったほうがいいかもしれない。普段の日常生活を過ごすにしては、圧迫感があり、異様な感じがして私達なら耐えられないと思うかもしれない。これはまさに、彼の夢の世界であり現実逃避する絶好の場所であったのだ。

 リンダーホーフ城とノイシュバンシュタイン城、ヘレンキームゼー城を築城するにあたって王は、自らわざわざフランスやドイツなど参考となる都市、宮殿、建築物を偵察しに行っている。また、自分の命じたものとできあがったもののサイズや色、素材が少しでも違えば容赦なく作り直させるという徹底ぶりだった。ここまでして王が求めたものとは、何だったのだろうか。王はこの頃にはミュンヘンには戻らず、城や山奥で過ごすことのほうが多かった。城に引きこもり、間接的にしか社会と関わらない王。王にはきっと当時のプロセインとの関係の不安を忘れるために、詩的な避難所に逃げ込めるような環境を作り出す必要があったのだろう。築城し、夢の城に住むことしか、王にとってこの世で価値あることはなく、生きがいがなくなってしまっていたのであろう。このような悲しい結末となってしまったのは、王があまりにも繊細な心の持ち主であったからこそではないだろうか。二つの城を見て回って、私は王の城に対する情熱のかけ方や、彼の壊れやすい心の変化を目の当たりにした気がする。


写真8ミヒャエル教会
写真8 ミヒャエル教会
写真9ニンフェンブルク城
写真9 ニンフェンブルク城

 この他にもヴィッテルスバッハ家ゆかりの場所をいくつか訪ねた。まず、ミヒャエル教会(写真8)。ここにはヴィッテルスバッハ家の納骨所があり、先代の王が祭られていた。そしてフラウエン教会には、歴代の王の墓所があり、17世紀に黒大理石で作られた皇帝ルートヴィヒの記念廟がある。レジデンツ(王宮)はヴィッテルスバッハ家の宮殿である。第二次世界大戦で建物の被害はあったが、美術品や財宝は保護されていたので、レジデンツはドイツの他の建物や博物館と比べ、無事であり完全な形で残っているものばかりだ。ここにある祖先画ギャラリーは121枚ものヴィッテルスバッハ家の子孫の肖像画があり、圧巻である。ニンフェンブルク城(写真9)はヴィッテルスバッハ家の夏の離宮であり、左右対称の美しい造りであった。池では白鳥が泳いでいて、美人画ギャラリーではルートヴィヒ一世の愛した36人の美女の肖像画があった。そのなかには、国政まで動かす力を持っていたローラ・モンテスもいた。また、ルートヴィヒ二世の誕生の部屋もあり写真が飾られていた。ニンフェンブルク城は、とてつもなく広い敷地にお城や様々な館が散らばっているため、見て歩くのにかなりの時間が必要だった。これ以外にも美術館であるアルテピナコテーク(写真10)、グリプトテーク(写真11)、古代美術博物館(写真12)と言った二つの博物館、ホーエンシュバンガウ城(写真13 拡大なし)を見て回ることが出来た。

写真10 アルテ・ピナコテーク
写真10 アルテ・ピナコテーク
写真11 グリプトテーク
写真11 グリプトテーク


写真12 古代美術博物館
写真12 古代美術博物館
写真13 ホーエンシュバンガウ城
写真13 ホーエンシュバンガウ城

 今回ミュンヘンの街を歩いてみて感じたのは、人が陽気(写真14・15)だということだ。マリエン広場やカールス広場には人がたくさんいて、中でも仮装した人がたくさんいた。人々はいたる所で何かを食べながら、飲みながら盛り上がっていた。道路に座り込んでビールを飲んでいる人や、道端でダンスをする人、クラリネットを吹く少年や、大きな紙を広げてクレヨンのみで絵を描くおじさんなど、とにかく人々に活気があって賑やかだ。全く知らない人なのに、“Hi!”と話しかけられることもしばしばで陽気な人が多かった。最初に述べたとおりミュンヘンは「百万人の村」と呼ばれるが、それはバイエルンが古い歴史を持ち、しかも伝統的なまとまった領域を保持しているからだし、ミュンヘンには都会にありがちな冷たさがないからかもしれない。人々や街全体が暖かい雰囲気に包まれているのである。また、ミュンヘンでの人々の生活を少し見てみることができたのだが、たくさんのレストランやカフェがあり、さすがホップの生産量が世界一、ドイツといえばビールという位人々はやはり日中からガブガブとビールを飲んでいた。また、ドイツは周りに海がないので人々は公園や広場の芝生の上でシートを広げて、水着になって日焼けしていた。私が旅行した7月11日から17日までは天気も晴れが続き、気温も30度を超えていた。今年のドイツは猛暑らしいが、ドイツは曇り空が多いと思っていたのでかなり意外だった。また、朝は5時半頃から夜は10時頃まで日が出ていたので一日をかなり長く感じ、色々と動き回ることもできた。博物館や美術館、城などノイシュバンシュタイン城以外は全体的に見学する人も少なく、フラッシュを使わなければ写真を自由に撮ることができた事はありがたかった。イングリッシュガーデンやオリンピック公園、ホーフガルテンやその他にも広場が街中にたくさんあり、緑を感じることができ、ミュンヘンという都会の中でも自然が豊かであった。しかし一つ残念だったのは、環境先進国であるはずのドイツなのにミュンヘンは福岡で言うと、どんたくが終わった後の道路のように道端にかなりたくさんのゴミが落ちていて、信じがたい光景であった。しかし、やはりミュンヘンは私にとってとても興味深い町であった。

写真14 陽気な人
写真14 陽気な人
写真15 陽気な人
写真15 陽気な人

 初めての海外旅行で不安な部分も少しあったが、色々なハプニングや困難を乗り越えながらも無事旅行を終えることができ、大変満足している。当初の計画通りにはいかないこともあったが、現地でたくさんの人々と出会い、日本とはまた違った価値観を知ることができた。また、人の温かさや、優しさに何度も助けられた。この経験をもとに、自分自身今までよりもステップアップしてゆきたいと思う。最後に、今回研究旅行制度を利用させていただき、このような貴重な刺激的な旅をする機会を与えてくださった先生方、また、旅行の計画を立てるにあたって相談に乗ってくださった方々に、この場を借りてお礼を申し上げます。ありがとうございました。



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