報告(フランス)


パリ万国博覧会



パリで最初に訪れたのは、シャン・ド・マルス公園だ。ジャポニスムに関する書籍の多くでジャポニスム盛行の口火を切ったと言われている「パリ万国博覧会(Exposition Universelle)」の開催地(またはその一部)である。シャン・ド・マルス公園はパリ7区にあり、1855年から1947年にかけて計8回の国際博覧会がこの公園を会場として開かれた。この公園はもともと陸軍の軍事教練場だったようだ。現在、公園の北西(セーヌ川の方)に立っているパリのシンボル・エッフェル塔は、フランス革命100年記念として開催された、パリで開催されたものとしては4度目となる1889年のパリ万国博覧会の際に建てられたものである。エッフェル塔は1階〜3階が展望台になっているが、地上57mの1階展望台からも十分シャン・ド・マルス公園全体を見渡すことができた。

 
(左)エッフェル塔1階展望台からの写真   (右)公園に隣接するエッフェル塔

パリ万国博覧会に日本が参加したのは、第2回目である1867年が最初である。すでに1855年のパリ万博と1862年のロンドン万国博覧会で日本の物品は紹介されていたが、日本側からの出品はこれが初めてであり、しかも幕府・薩摩藩・佐賀藩・民間から総計1300箱ほどの出品という大規模な参加だった。目録が残っているので幕府の出品物の中には「江戸名所図会」や「東海道名所図会」、あるいは「北斎漫画」などの画帳が含まれ、民間からの出品物にもかなりの数の浮世絵が含まれていたようだ。約16万uという膨大な敷地面積での博覧会だった。しかし、先行研究での記述にあったように、フランス国立図書館での実際の調査でも、フランス側の史料の少なさを感じた。そのために日本館や日本茶屋が会場のどこにあったかも定かになっていないようだ。日本の展示を描いた版画の記録は残っている可能性があったが、今回実際に日本の展示を取り上げた版画などを見ることはできなかった。


国立図書館

第3回目である1878年のパリ万国博覧会へは、1867年に比べてより大規模な参加となり、公式・非公式を含め記録や報道記事も増えたようである。会場はトロカデロと、前回の会場であるシャン・ド・マルスであった。この回は、物品を展示する日本館の他に、日本の農家が建てられた。この農家では日本人が日本の生活を実演していたようである。前回と違うのは、ヨーロッパの人々には珍奇に思われたであろうジャポネズリーも、日本の生活に根差しているということを伝えたという点である。こうした公式の日仏芸術の交流から見ても、徐々に単なる異国趣味から日本の実際の生活や芸術的な日本というものにヨーロッパからの視点も変わってきているのがわかる。ジャポネズリーからジャポニスムへの過渡期という印象を受けた。


シャン・ド・マルスにおける、日本部門展示室正面入口(報道図版)

また、このように事前調査と現地での研究を重ねるうちに、パリ万国博覧会がジャポニスムの発端ということに疑念を持った。まずは、万国博覧会の史料の中に、他国や植民地国がむしろ多く取り上げられ日本の記述が少ないことだ。また、ロンドン万国博覧会の項目でも述べるが、大英博物館で得た資料には日本美術のコレクター同士間の交流や売買などが日本趣味の流行の中心を担っていたとある。ジャポニスムには万国博覧会以外にも発端があるのではないかという考えに至った。この疑問については、まとめの方で考えの総括をしたいと思う。しかし、パリ万国博覧会がヨーロッパに日本の美術工芸品を広める役割があったのは確かなのである。博覧会閉会後は出品者と希望者の交渉次第で取引が許可されていた。出品物はもともと売却を前提として出品されたものであり、また物品が残ったところでその処理は煩雑であったために持ち帰ることは避けられるべきだったようだ。そのため、日本から出品された物産の大部分は何らかの形で日本に戻ることなくヨーロッパの地にとどまった。この事実だけでも日本の美術工芸品はヨーロッパ各地に散ったであろうことが分かる。


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