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期間:2013.8/19〜8/29
15AR001 足立志穂 15AR007 梅津美優

1.はじめに


1582年(天正10年)、キリスト教の布教が進む中、宣教師ヴァリニャーノは九州のキリシタン大名である大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代として、長崎からイタリア・ローマへ四人の少年達を派遣した。これが「天正遣欧使節」と呼ばれる日本で最初の公式ヨーロッパ訪問団である。
伊藤マンショ・千々石ミゲル・原マルチノ・中浦ジュリアンからなり、当時13歳であった彼らは中国、インド、モザンビークを経てポルトガル・リスボンに入る。その後スペインに渡り国王フェリペに親しく謁見した後、イタリア・フィレンツェの大公フランチェスコ・デ・メディチに熱烈な接待を受け、ついにキリスト教の中心地・ローマへ入る。
出発から八年後に日本に帰った彼らは豊臣秀吉にその成果を報告し、西欧の知識や印刷技術などを日本にもたらしたのだった。

 


2.期待される成果



今回の研究旅行では、彼らが訪れた中でもイタリア・スペインを取り上げ、天正遣欧使節と同じルートを辿ることによって彼らとより近い視点から、彼らが見た景色や建物を街並みごと鑑賞し、彼らが何を感じ、どのような後の人生に影響を受けたのか―さらに実際に歴史的建造物や博物館に赴き、実物を見て写真では分からないような迫力、さらに細かい描写を自らの観察によって読み取っていきたい。


3.日程

 

天正遣欧少年使節・ヨーロッパ順路


4.調査報告

 

〜Toledo トレド〜

日本を出発し2年半の月日を経てリスボンに到着した使節は、さらにスペインはトレドへ進んだ。トレドはスペインの中央部に位置する都市で、かつては西ゴート王国の首都として栄えた。1584年に使節がトレドの街へ入ると、初めてヨーロッパを訪れた日本人を一目見ようとする人々たちで街はごった返したと言われている。  到着した翌日、千々石ミゲルが当時トレドで流行していた天然痘を患い発熱したため、使節はミゲルが完治するまでの16日間滞在した。











トレド大聖堂
  1493年に完成したトレド大聖堂には使節も滞在中に訪れた。中にはエル・グレコの聖衣剥奪などの有名宗教画が何点も所蔵されている。 大聖堂内部の宝物室にはコロンブスが新大陸から持ち帰った金が使われているという高さ約3mの「聖体顕示台」(写真右上)と呼ばれるものや、歴代司教の正式礼服が陳列してあった。

 









〜Madrid マドリッド〜



サンヘロニモ教会
使節はトレドを後にしてマドリッドへと進んだ。現在プラド美術館裏に位置しているサンヘロニモ教会では、使節のために壮大な式典が挙行されたという。当時は壮大だったこの教会も、現在では聖堂が一つ残っているだけであった。 現地で出会ったスペイン人のガイドの方が、『使節がマドリッドのある貴族の家に招かれた時、その家の子供が頭にちょんまげのようなものを付け、腰に刀のようなものを差して使節を出迎えた』というエピソードを教えてくれた。
 



〜El Escorial エル・エスコリアル〜


  エルエスコリアル・サンロレンソ修道院
 フェリペU世が20年余りの歳月をかけて作り、1584年に完成した。使節が訪れた時はまだ完成して2か月後だったという。当時は世界屈指の豪壮建築とされていたサンロレンツォ修道院は、確かにその豪華な内装と庭園にその面影を感じられた。建物内部の部屋数は300部屋もあり、すべての通路を周ると16qにもなる巨大な修道院となっている。修道院内は撮影禁止となっていたため、外観のみの写真しか残せなかったが、修道院内には様々な美術品や使節と謁見したフェリペU世の居住空間も残されていた。 フェリペU世の使節に対する寵愛は並々ならぬもので、使節は賓客としてこの修道院に三泊することとなったそうだ。この修道院の中にはフェリペU世とその賓客が使用したとされる寝室が残されていた。寝室とされる部屋には狭い空間ながらも天蓋が付いた豪華なベッドがあり、使節もこの場所で寝泊まりしたかと思うと感慨深かった。


 



〜Libornoリヴォルノ〜


 1585年3月1日に使節一行はリヴォルノ港に到着し、日本人として初めてイタリアの地を踏んだ。リヴォルノはトスカーナ州の海の玄関口として栄えた港町であるが、第二次世界大戦で爆撃対象となったため、街は当時の姿を残していない。しかし唯一使節が訪れた当時の面影を感じることができるのが、ヴェッキオ要塞と言われる赤レンガの建物である。使節が到着した時、要塞から次々と祝砲が打ち上げられた。



ヴェッキオ要塞
初代トスカーナ大公コジモ1世・デ・メディチがただの漁村だったリヴォルノを、隣町のピサに次ぐ新しい港として整備し、イタリアの一大貿易港とした。また、この街はトスカーナ大公国の要塞都市として機能していたというが、現在は要塞のうちごくわずかしか残されていなかった。当時の史料『天正遣欧使節記』に「ことに防備のいと堅固な城塞」と記されていたが、400年以上も経った今、ひび割れて老朽化が進んでいるこの要塞にはその要素を感じとることが出来なかった。







リヴォルノ港のすぐ向かいには、使節が謁見した当時のトスカーナ大公フランチェスコT世の弟である、フェルディナンド・デ・メディチの像があった。他にもリヴォルノの街にはメディチ家に関する銅像が多く見受けられ、当時このトスカーナ大公を統治していたメディチ家の繁栄の一片を垣間見ることが出来た。









〜Pisa ピサ〜


当時のトスカーナ大公であるフランチェスコ・メディチT世はピサに滞在中、使節がリヴォルノに到着したのを聞き、三台の馬車をリヴォルノに派遣して一行をピサへ招き入れた。使節一行はアウレリア街道を通ってピサへ入ったとされている。現在リヴォルノからピサへ向かう列車はこのアウレリア街道に沿って走っているため、私たちも車窓から使節に思いを馳せながらピサへと向かった。














ピサの斜塔・ドゥオーモ・洗礼堂

 使節は、5日間のピサ滞在中に斜塔・ドゥオーモ・洗礼堂を訪れた。1372年に完成した斜塔は、地盤の影響で現在も1年間に数ミリ単位で傾き続けており、私たちの見た斜塔は使節が見たであろうそれよりもさらに傾いていると推測できる。実際に目にすると不安になってしまう程傾いていた。使節はヴェリニャーノにより、ケガをする恐れがあるため高いところに行かないよう指示されていたというから、斜塔には登っていないと思われる。今回私たちは斜塔に登り、赤い瓦屋根が並ぶピサの街並みを観察した。(写真左下)  また、ピサもリヴォルノ同様トスカーナ大公国であったため、街中のいたるところにメディチ家の家紋を見ることが出来た。





〜Firenzeフィレンツェ〜 



ヴェッキオ宮

トスカーナ大公は決められていたイエズス会の学院でなく、自らの宮殿に泊まるよう命じ、彼らをシニョーリア広場にあるヴェッキオ宮に連れて行った。彼らはここで7泊することとなる。 数年後トスカーナ大公はピッティ宮に移り住み、現在ヴェッキオ宮はフィレンツェ市庁舎としても使われている。





<写真左上>ピッティ宮  <写真右上>シニョーリア広場
<写真左下>ヴェッキオ橋  <写真右下>ドゥオーモ





〜ウフィツィ美術館〜

1591年から一般公開されている。使節は訪れていないが、使節と謁見したメディチ家歴代の美術コレクションを収蔵する美術館であり、イタリアルネサンス絵画を中心に貯蔵している。展示物は2,500点にのぼる。




〜Rome  ローマ〜 


ジェズ教会
 ヴェネチア広場からすぐ西側に位置する、使節が訪問する前年の1584年に完成したバロック様式の教会で、イエズス会の本拠地であった教会である。使節はローマへ到着後、イエズス会総長が待っていたこのジェズ教会へと進んだ。ここには2か月余り滞在し、会議室の大広間といくつかの小部屋が彼らの宿舎にあてられたと言うが、当時と現在では内部の構造は異なっており、その部屋の数々を確認することはできなかった。






ポポロ広場

使節はこのポポロ広場を通って、初めてローマへと入った。また1585年3月23日、当時のローマ教皇グレゴリウス13世に謁見するためバチカンへと進む途中、この広場を再び通った。鉄道のなかった時代、フラミニア街道からこのポポロ広場のポポロ門をくぐってローマに入るのが決まりだったという。この広場の中央にはオベリスクがそびえ立ち、周囲には教会が立ち並んでいる。




サンピエトロ寺院(バチカン市国)
使節の旅の目的の一つである、「ローマ教皇と公式に謁見」するために訪れたのが、このサンピエトロ寺院である。このサンピエトロ広場には一般の見物人も多数押しかけ行列を作り、『ローマでは未曾有の最大行事の一つ』、『ローマはことごとく歓喜にあふれた』と現地の文献にも記されているほど、遠い日本の地からやってきた少年使節達に人々は熱狂し、その訪問を心から歓迎した。






サンタンジェロ城とサンタンジェロ橋

使節がサンピエトロ寺院に行く途中に通った。橋を通る際、サンタンジェロ城から三百発もの祝砲があげられ、音楽が流れたという。どちらも使節が訪問した頃からその姿が変わってないということだ。実際にサンタンジェロ橋を渡ってみると、渡り終えて左手にすぐサンピエトロ広場が見えた。



ミネルヴァ教会
 パンテオンのすぐ近くにあり、1370年に完成した教会。外観は19世紀に改修されている。使節は教皇と謁見した2日後に訪れている。使節はミネルヴァ教会の重要な年中行事の中で、教皇の服の裾を捧持するという役を与えられたが、これは使節にとって考えられないほどの栄誉であった。 また、このとき使節はあえて日本から持参した着物を着ていたが、あまりの質素さに教皇から新しく立派な服をもらったと言われている。




サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂


 ローマ滞在中に使節も訪れた教会のひとつ。





サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂
4世紀初めに建築された、ローマでも最も由緒ある教会とされる教会である。使節と謁見後、すぐに亡くなった教皇・グレゴリウス13世に代わり、新しく教皇となったシスト5世の即位式が行われ、それに使節も参加した。
 現在の外装になったのは1885年のことで、使節が見たものとは少し異なっている。





〜Venezia ヴェネツィア〜 






 ローマを出た使節一行は、アッシジ、ボローニャを経てヴェネツィアへ向かった。使節の船は大小多数の船に囲まれてヴェネツィアの大運河を走った。  使節はヴェネツィアの景観に終始圧倒されていたといわれている。






リアルト橋
 ヴェネツィアの大運河にかかる4つの橋のうちのひとつ。木製の橋から1591年に現在の石造りの橋に改築された。使節が訪れたのは1585年の頃であるから、おそらく当時はまだ木製の橋だったと推測できる。  また天正遣欧少年使節の発案者であるヴァリニャーノはヴェネツィア出身であり、彼が大学時代に暴行事件を起こした際の罪状が、このリアルト橋に掲示されたというエピソードも残っている。



サンマルコ広場


サンマルコ寺院は現在改修中だった。





ドゥカーレ宮殿

 9世紀に建てられ、現在の姿になったのは15世紀ごろであるため、使節が見た外観とほぼ同じだと言えるであろう。ここで使節達は当時のヴェネツィア大統領と謁見した。使節は内部をくまなく見学させてもらい、中でも武器庫に感動した。









サンマルコ広場・大鐘楼

 使節も訪れたサンマルコ広場には大鐘楼がそびえ立っている。使節が訪れた当時は大理石からなり白色だったが、現在は赤茶色へと変えられている。以前は馬でも上ることができたそうだが、今はエレベーターであっという間に頂上の展望台へ着く。右の写真は頂上から見渡したサンマルコ広場とその周辺の街並みの様子である。


5.まとめ


 今回の研究旅行でイタリア・スペインを訪れ、実際に散策しゆかりの地を見て回ることで実際の距離感や建物のスケール感、また細部まで鑑賞することができた。これらは日本において文献や写真からでは絶対に読み取れなかったであろう。
 今日ローマは日本人観光客であふれかえっているが、リヴォルノは地元民の方がほとんどで、私たちは現地では珍しい日本人だったこともあり驚かれたが、その遥か400年前に、まして初めてヨーロッパを訪れた日本人として、ヨーロッパの地に降り立った使節団はさぞかし物珍しがられただろうと思う。トレドやマドリッド、フィレンツェやローマなど各地で彼らを一目見ようと大勢の人々が殺到したのもうなずける。
 使節が帰国したころ日本では禁教政策が本格化しており、キリシタンは厳しい迫害を受けた。その中でも中浦ジュリアンは穴吊りの刑に処せられても棄教せず、もがき苦しみながらも殉教した。その際民衆に向かって「わたしはローマを見た中浦ジュリアンである」と最期に言い残したといわれている。中浦ジュリアンが殉教したのは65歳であったから、使節としてローマを訪れたのは実に50年以上前のことであった。しかしそれでも若き日のローマでの輝かしい思い出の日々は彼の心の中でずっと輝いていたのだろうと思う。
 この天正遣欧少年使節に関しては参考資料や参考文献が少なく、まだまだ謎に包まれていることが多い。この研究の成果を踏まえた上で、さらに追及してゆき卒業論文の執筆に励みたいと思う。また、長崎の西海市や宮崎の西都など天正遣欧少年使節にゆかりのある地も今後調査し、より深い研究にしていきたい。
最後に、このような機会を与えてくださった国際文化学部の先生方・背中を押してくださったゼミ担当の宮崎先生には大変感謝しています。本当にありがとうございました。


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